『中世の医学』H.シッパーゲス著
(人文書院)から[6]


[5]医学的治療


(1)治療職種の多様さについて

A.膨大な民間の治療師たち。「医師」として上級の学校で教育を受けた人たちは、中世の医療行為者の代表的存在では決してない。中世の医学は閉じた「医学体系」ではなく、医療行為は主として(大学とは無縁の)医療専門家たちに委ねられていた
B.文化的観点から。医療行為を担った「薬剤師」・「看護人」・「産婆」たちは後になると(しばしば)「旅職人」に数えられた
C.「医師」と「自然学者」との区別。等価とされていた(~12世紀)が、新しい科学(アラビアの学問により合理化されていた)の登場は「自然学者」の方がより高く見られるように作用した(12世紀中から)

【職業】
D.「床屋」(散髪屋,髭剃り屋)。「小外科」の一部は彼らの仕事。散髪と瀉血の職務が結びついている。治療したのは「骨折」「脱臼」「開放外傷」「新鮮外傷」「歯痛」「一般内外的な疾患」
   ◇[傷害の鑑定]:後に加わった職務
   ◇[らい病の診断](レプラ目利き):同上
   ◇[ペスト患者の治療](ペスト床屋):同上
   ◇[女郎屋の監視]:同上
   ◇[医学部の解剖の学僕](代理解剖士):後にしばしば行われた職務
E.「風呂屋」。独自の組合として「床屋」からはっきりと区別されている。浴室での本職の他に「吸い玉吸血」「瀉血」を行う(これによりますます「小外科」の仕事を引き受けていく)。「骨折」「脱臼の整復」も時には認められている
F.「そこひ取り」:旅職人に数えられる/その一部は年市に姿を現して道化師に成り下がっている
G.「歯抜き師」:同上
H.「結石取り」:同上

【女性の医療者】
I.「産婆」。中世の日常生活で果たした役割はとてつもなく大きい。基本的な助産業務をも託されている乳母である(例:パリの名のある医師たちが経験ある産婆に対診を求めている:1400年頃)
   ◇[産褥で死亡した母親の帝王切開]:産婆に課せられた義務。これは子供の命を救うためだけでなく、応急洗礼を行うためだけに行われることもある
   ◇[小外科的侵襲]:これも産婆が行う(例:外陰部の膿瘍の切開,ポリープの切除)
   ◇[助産術の基本規則]:どんな胎位も(胎児が頭から骨盤に入るような)「自然な」胎位に変えなければならない/分娩時には母親の大腿を上に持ち上げる/胎児の娩出は手で行う
   ◇[分娩時には]:子宮口はねじ込み式の機械で開大されることもある/娩出に鈎+鉗子を用いることもある
J.「女医」。医術の心得のある女性の総称(15世紀末)なので、女性の医師・産婆・もぐりの女医・もぐりの産婆の何れなのかは不明
K.物語での女性による医術と看護。『トリスタン』(byゴットフリート・フォン・シュトラスブルク:1210年頃)には、薬物学と毒物学の知識を持つアイルランド女王イゾルデの伝説的な能力が語られている。『パルツィファル』(byヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ)では、女王アルニーフェは草の根(マンドラゴラか?)を用いて深傷を負った英雄を眠らせる術を心得ている
L.実在の女性による施療。テューリンゲン方伯エリーザベトは、ワルトブルク城下に病児+貧児を収容する家を建てた(1226年)。彼女自ら「患者の顔についた唾液・吐物・口や鼻の汚れを自分のスカーフで拭い取った」「らい病者の手足を洗い……ぞっとするような潰瘍に覆われた気持ちの悪い所に接吻すらした」
M.エリーザベトの病院と看護。方伯の死とマールブルクへの移住(1228年)の後に彼女は「看護婦として奉仕するために」病院を設立した。彼女は忍耐強い献身をもって(吐き気を催させる程の)病者たちの個人的な世話をした(風呂に入れて寝かしつける,汚れた衣服の洗濯をする,排泄物の処理をする)。外傷の治療に「鎮痛膏」も用いた(その製法は不明)
N.『トロトゥーラの婦人疾患論』。トロトゥーラという名前をサレルノの女医・中世初期のもぐりの産婆の1人と理解してはならない。これは古代からの口伝伝承の集積である

【修道院にて】
O.「瀉血医」。修道院にて瀉血を行う+瀉血後の休息の見張りまでを担う。「静脈切開医」「静脈切り」「血出し屋」とも呼ばれる。女子修道院では「瀉血女医」と名乗っている。市中で瀉血する「風呂屋」「床屋」「下級外科医」とは全く異なる、修道院のファミリアに属する「奉公人」(ファムルス)である
P.「修道院医」。初期には(一般に)内科医・外科医・薬剤師として勤務したので、医師と薬剤師は同義語だった。やがて専門化によって医学に関係する介助職が登場する(12世紀末~)
Q.「結石師」。瀉血の介助作業を行う
R.「料理人」。同上
S.「靴屋」。同上
T.「剃刀屋」。同上だけでなく広範な治療業務を託されている
U.「本草学者」:修道院の庭で働く。薬剤師として製薬加工を業とする

【ユダヤ人医師】
V.特殊な地位を占める(中世盛期・後期)。至る所で宮廷侍医を勤めている。彼らは上流の市民階級にも属している
W.スペインにて。ここでは特に多大な寛大さをもって遇されていたのだが、やがて不寛容へと流れていく(14世紀中葉~)
X.ドイツにて。ランツフートには『ユダヤ人のヤコブ親方』と呼ばれたヤコブスという医師が働いていた(1365年に開業,1368年にシュテファン老公の侍医となる)
『中世の医学』H.シッパーゲス著
(人文書院)から[5]


(3)悪疫の大流行(ライ病)

【らい病】(レプラ)
A.病気としてのレプラ。トルコ起源の伝染病。潜伏期間の長さ(3ヵ月~20年)が誤診のきっかけにもなってきた。中世の医師は(一般に)『ミゼル・ズフト』と呼んでいる(語源は「貧しき不幸」に由来する)
B.患者の隔離(古い記録)。「自分の息子・父・兄弟が罹患者だとしてもレプラから逃れない者などいない」と記述されている(A.D.100年頃:東ローマ)。カトリックの公会議でも感染の危険+予防措置が問題になっている(5・6世紀:この頃に中部ヨーロッパに病気が入り込む)。レプラ患者の収容所(小さなホスピス)が修道院近く(ただし村落の外)に建てられているという報告がある(byライヘナウの修道院長:中世初期)
C.患者の世話(10世紀)。患者は共同体から排除される(市民としては死の宣告を受ける)のが一般の慣習となる。だが一族の者は「患者を世話する」+「薬を用立てる」ように委託されている
D.資産のない患者たち。喜捨により暮らしている。「野辺の病人」として棲みついて辺地を乞食しながら移動していく
E.支配者の法において。初めから徹底した対策が取られた(5・6世紀から一貫して)。患者は(しばしば)強制的な受禄聖職者のように取り扱われた。婚姻法に関しても繰り返し論議されている
   a.『ロタリ布告』(643年):教区からの追放と死刑に関する規定を含む
   b.『ザクセン法鑑』(1220年):患者の相続無資格を記す/(一方で)患者の保護も規定している
   c.『恩恵法』(1140年):この疾病は離婚の理由にならないとしている

【らい病と中世の医学】
F.区別される4種のレプラ(サレルノ学派による)。『アロピチア』(血液に原因を持つ)・『レオニーナ』(胆汁から生ずる)・『エレファンティア』(黒胆汁に起因する)・『ティリア』(粘液の過剰に由来する)
G.レプラの症状について。(おそらく)「リンパ液の流出停滞+腫瘍形成による四肢の腫脹」が記載された。「皮膚の下の結節形成」は後になって知られる。この結節は開放性の潰瘍に発達する。各症状と長い病苦の後に救いの死が訪れる
   a.「関節靭帯が断裂する」
   b.「手の指と足の指・(しばしば)両手両足も朽ち落ちる」
   c.「顔色は赤銅色を帯びる」
   d.「鼻は膨れ上がる」
   e.「視線は荒々しくなる」
   f.「息は悪臭を放つ」
   g.「声はかれる」
   i.「傷と潰瘍だらけで、特に食事に用いる指は曲がって血を流していた。したがって皿に指を浸すときはいつも、血がその中に流れ込んだ」
   (アッシジの聖フランチェスコが接した患者の様子:13世紀中頃)
H.疾病初期の症状(中世の診断にて)。「小さな斑点と発疹の主に顔面・鼻の周囲への出現」「眉毛の周りの特殊な組織肥厚」「頭部の皮膚・関節に現れる結節」。どれも鼻粘膜の変化を伴っている。皮膚の変化は様々な色彩(レモン色,白色,黒色)と記載されている
   a.「眉毛の脱落」:以下は「らい病の徴候」とされたもの(14世紀初)
   b.「眼くぼみ辺縁の肥厚」
   c.「眼球突出」
   d.「鼻の腫脹」
   e.「青みがかった赤の顔色」
   f.「動かぬ視線」
   g.「耳の結節」
   h.「白色ないし暗色の斑点」
   i.「拇指と人差し指との間の筋肉の消失」
   j.「前額の皮膚の光沢ある緊張」
   k.「脛骨下部と足指の感覚消失」
   l.「しわがれた鼻声」
   m.「動かないたけだけしい視線」
   n.「寒冷にさらされても鳥肌が生じない」
I.中世の「らい病」は医学的に厳密ではない。そこには(レプラの他に)多数の皮膚疾患が含まれている(例:かんせん,皮膚結核)

【社会との関わり】
J.大学医学部での検診(中世後期)。診断的な症状に注意を払って(委託された)検診を行っている。レプラを疑われた者は(通告に従って)「委員会」(管区医+外科医から構成される)へと送られる。患者は大学医学部での「レプラ検診」を受けてその結果はレプラ検診証書に記載される
K.患者の社会的隔離。レプラ検診が陽性に出れば患者は収容される。患者はここに集められる。患者への厳しい制限は以下の通り(場所により若干の違いがあるようだ)
   a.「独特の服装をしなければならない」:いわゆる『謙虚なるラザロの衣服』を着用した
   b.「手袋をすること」
   c.「警報道具を自ら持ち運ばねばならない」
   d.「風上に向かってしか話すことが許されない」
   e.「礼拝には壁の隙間を通じてしか参加できない」
   f.「人の集まる場所に赴くのは禁止」:〔対象〕教会,市場,水車小屋,パン焼き窯,集会
   g.「性行為の禁止」:たとえ妻であっても
   h.「まっすぐな道で誰かに向かって直進しないこと」
   i.「持ち物」:患者は籠1つ(喜捨を受けるためのもの)+水の入った小さな桶1つ+鳴子(もしくは鐘)を受け取る
L.患者は死者も同然である。集められた患者は家族・共同体から追放される。全財産のみならず市民権をも失う。追放される時には死者のためのミサ=『レクイエム・コーラム・ウィーコ・デフンクトー』が朗読される。この時に患者への規定書が読み上げられる。レプラの療養所に収容されるまでは(一時期)乞食・行商をしながら市壁の外で何とか生き延びねばならなかった
M.レプラ療養所(収容所)。その多くは橋・十字路・都市への主要な車寄せ道・巡礼路にある。20,000ものレプラ収容所が存在した(13世紀中葉)がこれは「慈善家の寄進・教会によって建てられた都市郊外にある家」のようだ。ほとんど全ての都市が患者の療養所・収容所(少し婉曲的に『良き人々の家』と呼ばれる)を所有している(中世末)
N.聖ラザロ修道会(1048年設立)。らい病患者保護のために設立された


(4)悪疫の大流行(ペスト)

【黒死病】
A.中世初期のもの。東洋から持ち込まれたこの病気が大流行した(6世紀半ば頃)。やがてイタリア・スペイン・ガリアで猛威を奮う(~6世紀末)。「農場も都市も1日1日と死の静寂に沈んでいった」(byパウルス・ディアコヌス:8世紀)
B.中世後期の大破局(1348~50)。「いかなる処置も役に立たなかった」「都市はあらゆる汚物を清掃し、病人の出入りを禁止し、健康保持のために少なからぬ忠告も与えた」「敬虔なる人々による謙譲な祈りも役に立たない」「荘重に請願の行列・その他の方法で神への訴えも行われたが無駄だった」(by『デカメロン』)
C.感染性がきわめて強い。特に初期に見られた肺ペストでは、患者のそばに長くいた場合だけでなく患者を一見しただけでも感染しえたという。1人が罹患すればたちまち全家族が死亡するほど。看護もされず・司祭の立ち会いもなしに埋葬された(アヴィニョンにて:1348年)
   [1346年]ドン川の河口領域とアゾフ海沿岸に達する
   [1347年]フェオドシア(カッファ:クリミア半島におけるジェノヴァの最重要の貿易地)から西洋へと伝わる
   [1348年]上部イタリアの全てがペストに襲われる。さらに年初からフランスに飛び移って6月にはパリで暴威を奮う。10月にはロンドンに達する
   [1349年]全欧で猛威を奮う
◆[肺ペスト]:喀血+悪臭を放つ呼吸/2・3日で(しばしば数時間で)死亡する/こちらは流行最初の2ヶ月で見られた(アヴィニョンでの7ヶ月の大量死にて:1348年)
◆[腺ペスト]:脇下と[そけいぶ]の痛みを伴う腫脹+化膿で始まる/1週間の経過で死亡する

【医療はほとんど無力だった】
D.医療行為は危険ですらあった。医師たちは感染を恐れて(あえて)患者を訪問する者もいなかった。たとえ訪問しても何もしてやることはできなかった
E.対抗策として。パリ大学医学部は王命により「ペストの原因・結果・可能な治療措置の審議」のために召集された(1348年10月)。ペストの第一の原因は「星座」第二の原因は「腐敗した水と有害な食べ物」とされた。これ以降ペストに有効として様々な対策が用意されていくが、その有効性には疑問符が付く
   a.「公共の広場・家々の内部でお香やカモミールを燃やす」
   b.「鶏肉・脂肪の多い肉を食べない」:食事・飲酒に節度を保つことは繰り返し強調されている
   c.「朝食には僅かしか飲まない」
   d.「夜の外出は危険なので避ける」
   e.「度の過ぎた節制を避ける」
   f.「感情の興奮も避ける」
   g.「酩酊を避ける」
   h.「下痢は容易ならない状況である」
   i.「入浴は危険」
   j.「婦人との交わりは死に関わる」:恋愛にも節度を保つべきとされた
   k.「人との会合をあまり長くしない」
   l.「室内では火を燃やす」
   m.「衣服も着替えること」
   n.「皮膚をときおり摩擦する」:葡萄酒酢(ヴェルジュ)・バラ香水を使って
   o.「薬局で麝香の嗅ぎリンゴを作らせる」
   p.「精神的な注意」:心の怒り・不満・悲しみは避けるべき/できる限り愉快にして不安になりすぎないように
F.ペスト患者への往診に関する規則から(14世紀末頃)
   1.「尿瓶は亜麻布に包んで渡すこと」:これは尿の蒸気が立たないようにするため
   2.「必要な場合には尿を病室でなく往来へ出て観察すること」:大便の場合も同じ
   3.「患者とは直接に接触しないこと」
   4.「家・道具をお香で燻すこと」
   5.「常に空気を新鮮にすること」:換気をしばしば行うことは繰り返し強調されている
   6.「貴金属を身に付けておくこと」:特にジルコンとエメラルド
◆[ペストに効く薬草](15世紀末):イチジク+ヘンルーダ+クルミをそれぞれ同量ずつ採取/先に乳鉢で別々にすり潰す/それからこの3つを一緒にこね合わせる/この薬を毎日少しずつ外出前の空腹時に摂取すれば腺腫・膿疱・ペストの毒素を追い出せるという
◆[鎮静剤]:黒い腺腫を持つペストは苦痛に満ちた死に終わるので『アーロンの薬草』の根+葉だけを与える/これで患者は安らかな終焉を迎えられる(by『自然学』:ビンゲンのヒルデガルト)

【公衆衛生の強化など】
G.ペスト用病院の建設。ヴェネツィア(1403年)・パリ(1469年)・ジェノヴァ(1467年)・フィレンツェ(1479年)
H.人々が集まることへの規制。多くの市場・広場にて人々が集まることが禁じられた。公衆浴場も閉鎖された(パリ:1450年)
I.港での検疫(クワランテーネ)の有効性は大きい。この言葉は「40日間の隔離」を意味する語に由来する。ラグーナ(1377年)にて初めて実施された時には30日間だった。これがマルセイユ(1383年)で40日間に拡張される
J.ペスト防疫線。港での検疫と対応する「都市の陸上閉鎖」である
K.保健局の設立。上記の多様な措置の調整には必要だった(ヴェネツィアが先行している)。以下は各都市で展開されていく様々な社会的衛生的措置
   a.「港の閉鎖」:上記
   b.「隔離地帯」:上記
   c.「検疫」:上記
   d.「患者とその看護者の告知義務+隔離」:〔例〕ヴェネツィアでは(感染の仕方は未知だったが)「患者と周囲の環境との間には感染の連鎖が成立している」かのように取り扱われる
   e.「病床の消毒」:〔例〕ヴェネツィアでは悪疫に襲われた家は「風通しを良くさせられる」+「硫黄で燻蒸される」+「白灰で漂白される」
   f.「患者・死者に近接した環境からの全物品の焼却」:〔例〕ヴェネツィアでは汚染されたマット・衣服は焼却しなければならない
   g.「商品・硬貨・手紙などの消毒」


(5)悪疫の大流行(麦角中毒と舞踏病)

【聖アントニウスの火】
A.壊疽性麦角中毒。レプラ・ペストと並ぶ中世第三の流行病といえ「聖アントニウスの火」「聖なる火」(イグネス・サケル)として知られた
   [857年]:クサンテン年代記に語られる
   [945年]:パリ近郊にて流行
   [994年]:アキテーヌ地方では40,000人の生命を奪ったとされる
   [1089年]:流行の報告あり
   [1129年]:原因として「穀物に混入した、黒変し腐敗した麦」が挙げられている(これは麦角に関する初期の指摘である)
B.悪疫流行の報告パターン。収穫後の何ヶ月かに始まる。荒れ狂う飢饉は(しばしば)疫病を悪化させるように働いている。その悲惨さは相当なもので2・3の場合には人肉を食するまでに至っている
C.ライ麦への真菌感染に由来する食中毒として。①真菌中毒のために血管の閉塞が生じる。②これに「肢体の焼けるような疼痛」+「火のように赤い皮膚の炎症」が加わる。③最後には黒褐色に変色する。④四肢の壊疽化を来す(重篤な壊疽によって四肢の1つ1つが突然はぎ取られることさえあったほど)
D.記述された症状。「まるで彼らの内臓まで裂いてしまう聖なる火に食い尽くされたのかのように、彼らの四肢は次第しだいに侵食され、炭のように黒くなった。これらの患者はぞっとするような苦しみの中で速やかに死亡するか、さもなければ手足を失ってさらに恐ろしい人生を生き長らえなければならなかった。他の多くの患者は痙攣のために身悶えした」
E.死へのパターンと四肢切断。患者は四肢が一本一本もげ落ちた(もしくは全身が徐々に衰退した)後に死亡する。壊疽が生じた場合には(壊疽状の)四肢を切断する必要がある
F.患者の苦しみ。麦角中毒症が流行すると「患者が耐え難い苦しみのために大声で痛みを訴えた・歯を食いしばった」ぞっとするような様子が幾つか報告されている。哀れな患者は死を望んだが、要素的な器官が壊疽に侵されるまで死は到来しなかった
G.原因はライ麦の「麦角」。この有効成分はアルカロイド(殊にエルゴタミン)である。麦角アルカロイドの一成分からLSDが取り出されることになる
H.聖アントニウス(病気の守護聖人)と病気の看護。隠修士であった彼の遺骨はサン・ディティエ・ド・ラ・モットの教会に安置されている。アントニウス派の介護修道会は養生法による治療(とりわけ毒性のない良質の小麦パン)を用いて成果を収めた。アントニウス派の病院では四肢の切断術を行っていた


【聖ファイト舞踏病】
A.舞踏狂の群集的発生の記録。ライン川とモーゼル川の畔のドイツ各地にて「踊り暴れる人々が現れた」。彼らは群れをなして同じ場所で半日間踊り続け、ついには疲れ果てて倒れた(1374年夏の中頃)
B.正体は集団ヒステリーか。ペスト大流行の後に大勢の鞭打ち苦行者が諸国を練り歩いているが、これと同様の病像だと考えられる。さらに「恐ろしい出来事に対する反応」「神秘主義の行き過ぎ」「精神病的な反応」も原因に挙げられる
C.我を忘れる。鞭打ち苦行・舞踏病によって人々は忘我に至った。その他に散発的な事例として「カタレプシー性硬直状態」「部分的(または完全な)記憶喪失とこれに続く記憶喪失」も見られた
D.治療手段(狭義のもの)はほとんど記録されていない。〔例〕シュトラスブルク(1418年)では多くの男女が昼夜を通して食事もせずに踊り跳ねた。都市参事会は舞踏狂たちを長い行列をなして聖ファイト礼拝堂へと連れて行かせた
『中世の医学』H.シッパーゲス著
(人文書院)から[4]


[4]疾病のパノラマ


(1)危機と病患

【人間の3状態】
①「素質」:正常な基本状態/健康な生命の基本的なカテゴリー/堕落以前
②「放棄」:人間の苦しみ・衰弱・疾病/堕落以降
③「回復」:救済の最終状態/救済以降

【疾病を治療することの意味】
A.「旅人としての人間」。常に②のカテゴリーにある。「苦境+罪の悩み+痛み+侵される豊かさ+平衡状態の喪失」の状態にある。健康である=「生命の調和+これを享受する喜びの最適な状態」を意味する
B.生き方の見本となる形式の存在。古典的生活法としての「養生法と衛生学の6つの規則」(『アルス・ヴィヴィエンティ』=生くべき術)。人間はこの基本的な考え方にしたがって生きる・死ぬ。「期限付き」であることを人間は意識している
C.生理学と病理学の位置付け。健康と病気は独立した1つのカテゴリーではなく、中間領域の境界を示す状態に過ぎない。その中間領域とは生理学と病理学の中間に形成されるもの。(予防の学としての)医学とは「健全な生活法に関する知識」+「健康な生活秩序の形成」でもある
D.生理学と哲学の結びつき。医学は「第二の哲学」である(byセビーリャのイシドルス)。医師は文化のあらゆる領域に関わる。初期キリスト教の疾患論は「古代の自然主義的な体液学説」と「旧約聖書の人格主義的な概念」とを受け継いだものである
E.世界と肉体は一体である。病気になるということは、世界と人間との親和性が失われていることを意味する。心的な疾患や老化は、人間という存在の被拘束性・薄弱性を示している
F.病気とは単なる障害ではない。路上にあって人が取り除けるような石ではなく、人がさらに前進するために修復しなければならない道路上の穴のようなものである


(2)疾病の記述


【中世医学での疾病の記述】
A.身体の部位ごとの疾患の羅列。「頭部・頸部の諸疾患」「眼と耳の疾患」「歯痛」「胸部・腹部の疾患」「四肢の疾患」「全身疾患」「発熱」「皮膚」「中毒」というように頭から足まで網羅している(by『疾病の治療に関する論文』)
B.記述の水準はバラバラ。医学書には今日よく知られている多数の病気が見られる。(その反面)ほとんど同定できない症状も少なくない。極めて不正確な(疾病の)輪郭しか描写されていない場合もある。単に「奇形」「薄弱」「疥癬」としか記されていないこともある

【諸疾病】
◆[眼疾患]:極めて大きなウエイトを占めている/「白色角膜瘢痕」と推定される病気は「悪性白斑」と記載されている/『真珠』とも呼ばれる/白内障の原因になるので手術的侵襲の対象/盲目の治癒例(とされるもの)もある
◆[胸郭内の病気]:喘息・咳・肺炎・肋膜炎・様々な呼吸困難が記されている/肺結核もしばしば記述される/肺炎の兆候として挙げられているのは「呼吸困難」「咳の発作」「連続的な発熱」「肩甲骨の持続的な疼痛」「青緑色の眼の輝きと頬の赤み」「赤色ないし微粒子のある尿」
◆[心臓病](カルディアカ):本来は心臓に起源を持つ疾病のみを指す/だが「ある時は心臓から・ある時は胃から・時には肝臓から・または血液の過剰から」くる病気だとされている
◆[胃・腸管の疾患]:中世でも大きな存在感のある疾患/診断は正確ではないものの「嘔吐と膨満感」「消化力の低下」「便秘・下痢」の症状がよく観察される
   1.「全般的な衰弱」
   2.「消化器系の冷却」
   3.「肝腫脹」:肝臓が冒されていることを示す
   4.「体液混合の悪化」:同上
   5.「黄疸」:同上
   6.「水腫」:四肢の浮腫・腹水・腸内ガスとして現れる/肝臓病とされて消化器系の障害とみなされた
◆[痛風]:繰り返し見られる/共に生じる「麻痺」「拘縮」「リウマチ性病型群の後遺症」(当時はほとんど区別されず)が記録されている/不倶の治癒が奇蹟として何度か記録されている/過度の飲酒がもたらす症が記録されている(『病因と治療』:byビンゲンのヒルデガルト)
◆[膀胱結石]:広く見られる民衆の疾患の1つ
◆[皮膚疾患]:中世の疾病学にて大きな場所を占めている/その原因としては「有機体の体内の浄化によって悪性の体液が体表面に追い出され、そして腐敗した体液が斑点・膿疱を形成する」のだとされる/それらが「不快な皮膚の掻痒感(そうようかん)の原因となる」/さらには「白斑・創傷丹毒・爬行性苔癬・黒あざを作る」という
◆[天然痘・湿疹]:詳しく記述されている
◆[婦人科の疾患]:これも体液学説により説明される/月経は「体液浄化の正常な過程」とみなされている(byアラビア医学)
◆[小児疾患]:同じく体液病理学の基礎に基づいて研究されている/まず「くる病」(著しい奇形をしばしば示す)が挙げられている
◆[小児・青年の食欲不振]:これは「悪心病」として記述されている
◆[血友病]:「ある家系の人々がなかなか止まらない出血によって何人も死亡した」という記録がある(中世アラビアにて)

【死亡原因の概観】
◆[小児疾患]:あらゆる死因の1/5を占める。とりわけ乳児疾患が多い
◆[熱病]:死因に多く見られる
◆[胃の病]:同上
◆[腸の病気]:同上
◆[肺労]:同上
◆[変死]:驚くほど頻繁に見られる/死刑・殺人・事故死・飢餓・戦闘の結果による死亡
◆[流行病]
『中世の医学』H.シッパーゲス著(人文書院)から[3]



[3]誕生・成長・死


【性の問題】
A.女性に対する中世特有の偏見。教会は女性を「悪魔の道具」として異端視し続けた。教会法は「性行為をできるだけ楽しみなく行うこと」としている。女性の男性への従属は「自然な事実」として受け止められている。結婚は「子供を産むため」・「処女の世界を守るため」だけにある
B.医学の歴史において(その原典では)女性敵視は見られない。男性と女性は「同じ品位・同じ徳をもつ」とする意見もある(byギリシアの教会教父バシリウス)。医師・素人たちも恋愛・性について公然と語るのはごく普通なことだった(とくに中世初期・盛期において)
〔例〕性の秘密が沈黙に守られることは全くない,愛の場面を秘密裏に隠すことはない,親密な領域の描写も猥褻とはされない,性行動の生理学・病理学は(公然と)詳細に記述されている

【ビンゲンのヒルデガルトの場合】
〈1〉肉体としての人間は依存的である。神に創られたものであり、自律的でも自給自足できるものでもない
〈2〉人間は(男もしくは女として)他者とともに実現される関係の中で考えなければならない
〈3〉被造物としての人間は自分のためだけに働くのではない。働きの場は自然+他者との創造的な交わりの場である。これによって人間は「自然を変化させうる」・「自分の要求を充たす」・「自身を人間として実現する」
(by『病因と治療』:12世紀中葉)

C.上記〈1〉~〈3〉を承けて、人間の性をヒルデガルトは肯定的に考えている。男女は初めに「全く尊敬し合える」状態で創られた。両者は愛の盟約のために創られた。男女の交接は(子作りだけでなく)パートナーの「生」を花開かせることでもある。性欲・能力・行為の三相の性生活は、神の三位一体の生命に決して劣らない
D.後世の神学者の翻訳ではざっくりと削除された記述。性欲はまず性能力に火をつけ、そしてパートナー同士の性行為が互いの熱烈な欲求のうちに進行する。このことは最初の人間の創造のときに生じていたこと(=神の寛容の内に遂行される)
E.男女間の愛は唯一である。男性の女性に向けての愛は、愛の情熱の熱気の中で燃え上がる山の火のようである(なかなか消えない)。女性の男性に向けての愛は、暖かい=太陽から発する熱のようなものであり、この熱が諸々の果実をもたらす
F.両パートナーは基本的に均しい権利を有する。女性は男性のために創られ、男性は女性のために形作られた。両者は1つに合して1つの業を働くのであり、決して分離されるものではない
G.性の楽しみは二人で共に味わうもの。互いの責任ある選択と理性に基づくから、互いに求めあって相手の後を追い、暖めあい、憧れあえぐ。その反面で邪道=「倒錯」に陥る可能性がある。それは病的な現象ではなく人間的な邪の道である
H.性は永遠の至福のシンボルとなる
I.ヒルデガルトによる女性の性の観察。性行為において「女性の畑は男性の鋤によって、汗と血と体液が煮たぎるまでに掘り返され、かくて両性は共にオルガズムに達する」。月経は全血管系に影響を及ぼす(特に頭部と腹部の血管組織を緩める)。受胎の最適期は月経周期の中点にある
J.同じく男性の性の観察。古代の「体液理論」に従って4元素・4気質に分けた、性行動における包括的な類型学説
K.性交の作法。女性はより虚弱・しなやかなので慰めの言葉を必要とする。男性は女性を指示し、彼女の許しを得るように務めるべきである。男性がより強力であるとしても、彼の性能力は「女性を満足に至らしめる一部分」であるに過ぎない

【アルベルトゥス・マグヌスの場合】
L.性行為は「人間の営み」である。単なる感覚的な「自然の行為」ではない。人間は「政治的存在」というよりもむしろ「婚姻的存在」である(=婚姻による家族共同体は国家制度のモデルとなる)。よって自然由来のもの(もちろん「快」も含めて)は全て文化へと高めなければならない

【性病理学の変化】(中世後期)
M.感覚的な快楽=堕罪と刻印される。ヒルデガルトの精神からは大きく離れ、交接における快楽は「より高い」寛容による動機付けが必要とされるようになる。「性欲とは、腐敗し、汚染し、それゆえに破廉恥で醜悪である」(byトマス・アクィナス:ビンゲンのヒルデガルトから僅か100年後)
N.結婚こそはあらゆる親密な経験の中心にある。結婚は「永続的な盟約」「1つの教団における誓約」であり、一種の修道院としてあらゆる「秩序」「戒律」を持つとされた。だからこそ、結婚は(秘蹟的な救済の秩序の中で)「パートナーが義務としての『相互のための業』自ら寄進すべき唯一の秘蹟」ということになる
O.快楽を受け入れる見解も残されている。愛の行為においてのみ人は他者を受け入れるのだから、パートナーとの合一が成立する。この合一を最良に成し遂げるには……[以下は露骨な描写なので略:P51~52]。この未公開の手稿の著者ペトルス・ヒスパヌスは後の教皇ヨハネス21世である(13世紀:マドリードの『ペトルス・ヒスパヌス医学全集』)

【パラケルススの場合】
P.神話から性行為を論じる。パラケルスス(1493‐1541:テオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム,医師でありフマニストでもある)は性行為の生理学・病理学・治療に対して独創的な寄与をなした。女性とは(マクロコスモスとミクロコスモスに並ぶ)第三のコスモスを持つ唯一無二の現象であるという。パラケルススは(※大地母神的な見解によって)女性を「耕地」「生命の樹」「母の胎」とみなし、男性はそこに生産的に働きかける存在であるとする
Q.性行為を成し遂げるには。人間学的な結論として、2人の人間の性欲(リビドー)の中で生命の液が燃え上がり相互の種子となる。そして(相互性の法則によって)種子と精子は子宮に吸い寄せられ、そこで生きものが成長する

【結婚と性行為をめぐって】
◆[結婚の成立に関する議論](中世盛期):約束が結婚を成立させる(=「交接ではなく同意が結婚を作る」)のか?/結婚は行為によって法律上有効となるのか?
◆[性行為を区別する議論]:性行為は自然の行為である=「生殖のための行為」/性行為は人間の行為である=「性交の悪を代償とする献身行為」/(後者によってのみ)生まれた乳児は「自然の賜物」とされる/感覚的な愛とは(結婚とは本質的に異なる)附属物でしかない/理性による秩序だけが重要である
◆[快楽を求めることは否定される]:ビンゲンのヒルデガルトは「魂が身体の『業』を成し遂げる」としていた/だが「理性が肉体の快楽は常に理性を汚染する・卑しめる」と定義するようになる/こうして結婚は「罪に対抗するための医業」として位置付けられる
『中世の医学』H.シッパーゲス著(人文書院)から[2]


[3]誕生・成長・死


(1)誕生と子供

【母親と子供】
A.子供をめぐる様々な場面。「中世には子供の時期は存在しない。あるのは小さな大人のみ」とするテーゼは、中世の史料に見出される様々な反対証拠とは相容れられない
〔例〕子供のための食餌療法,小児のための玩具,教育・躾のための文章
B.母性は讃えられる。神秘的な処女マリアはその象徴であり、マリアが赤子のキリストを抱く姿は詩でも語られている(例:13世紀初の詩)
C.産褥に苦しんだ母の姿。ギベール・ド・ノジャンは彼の回想録において、自身の誕生(1064年頃)+教育について語っている。母親は四旬節の間ずっと異常な痛みに悩まれながら産褥にあった。聖土曜日(復活祭の前日)の出産は大変だったので、父・友人・親族は「男児が無事に生まれたならば聖職者にしましょう。女児だったならば適当な修道会に入れましょう」という誓詞(祭壇への寄進の代わりとなる,願いが成就すればその内容を実行する)を書いて聖母マリアの祭壇に捧げた
D.幼児死亡率の高さ。これは「出産間隔がきわめて短い」「子供たちの数が多い」ことに対応している。産婦の死亡率もまた高い(当時としては十分な医療が期待できた王妃ですら産褥熱で死亡している)。喜びの場である産室は(あまりにもしばしば)最も激しい絶望の場所ともなった
E.子供が日常から学ばねばならない世界。中世は「住居」「作業場」「休息の領域」が未だはっきりと分離していない世界である。子供たちは大人の中で成長して実生活から学ばなければならない。生きていくことに有能であることは、社会的責任と結びついている

【出産と育児・成長に関連して】
◆[出産の場面]:湯を満たした浅い風呂桶は必ず用意されている/乳児はあらかじめ温められた布で拭いてもらう/そこから乳児は「手足を伸ばされる」→「オムツを当てられる」→「紐で結わえられる」→「布に包まれる→揺り籠に寝かされる」
◆[難産の場合]:フェンネルとセイヨウカキドオシを湯で煮沸する/これから湯を絞り出した後に適度の温かさで大腿部+背部に置く/その上を覆った布で軽く固定する/すると痛みは和らいで閉鎖されていた産道が穏やかに軽く開かれる(byビンゲンのヒルデガルト)
  ◇[難産の原因]:産婦の体内にある悪性で冷たい体液が妊娠中に(時として)産道を収縮・閉鎖されるから
  ◇[ハーブの作用]:フェンネルの和やかな温かみ+セイヨウカキドオシの穏やかな温かみ/これが水の繊細な特質によって熱まで勢いづけられる/このために大腿部・背部が開かれる
◆[オムツ](赤ん坊をおむつ紐で巻く方法):中世を通じて洗練されていく/1.前腕から始めて下方に指を伸ばすようにする/2.前腕を超えて肘関節から上腕にいたる/3.躯幹は幅広い紐で巻きつける/4.下肢は上肢と同様にする/5.踝と膝の間には毛糸の切片を置いて圧迫点を避けるようにする/6.乳児の腕を胴体に沿って伸ばしてから両脚を揃えて(乳児全体を)ミイラのように巻きつける(byエフェソスのソラノス:古代ローマ帝国のギリシア人医師)
  ◇[包み込みのメリット]:まだ柔らかい関節の脱臼を防ぐ/足が曲がるのを防ぐ
  ◇[論拠]:こうした方が子供は静かに横たわれる+よく眠れる
◆[乳幼児期は要注意]:離乳は1歳と2歳の間/(各時期に応じて)食事・消化に対する詳しい処方・歯の発生の苦痛を和らげるための処置もある/以下はアヴィケンナによる忠告(西欧の医師たちも受け継いでいる)
  ◇[授乳]:栄養の観点から母乳が最適/できるなら2年間は授乳すべき
  ◇[睡眠]:幼児は1日に2・3回は寝かせてやるべき
  ◇[運動]:寝入る前に適当な運動を楽しんで力をつけさせるのが身体によい
  ◇[言葉・歌を聴かせること]:心によいので美しい歌を歌って聴かせるべき
  ◇[視覚]:目覚めた時には光に慣れさせる+星々を見させるべき/昼には様々の色を楽しませるのがよい
◆[子供部屋]:産室と結びついている(どの挿絵にも生き生きと暖かく描かれている)/〔様々な玩具の例〕音を出す人形・木馬・独楽(こま)
◆[成長とスポーツ]:騎馬・水泳・フェンシング・競走・レスリング・ダンスへと(成長するにつれて)子供の「遊び」は移っていく
◆[教育方針]:子供に栄養を与えすぎてはいけない/時には厳しく罰する必要もあるが棒で殴ってはいけない(byベルトルト・フォン・レーゲンスブルク)
◆[児童院での子供への規則](メミンゲン:1500年~):そこでは洗濯の規則から食事の計画・就寝にいたるまでが細心に配慮されている
  ◇[毎日の朝食]:火を通したジャム
  ◇[昼食]:2品の料理(エンドウか燕麦の)+甘いか酸っぱいミルク
  ◇[週3回の支給]:野菜+肉
  ◇[揺りかごの中の幼児には]:ミルクジャム(毎日3回)+ミルクスープ(毎日2回か3回)
  ◇[祝日の支給]:聖マルティンの日(11月11日)と新年1月1日には全ての子供がリンゴ+クルミ+レープクーヘンを与えられる/聖ニコラウスの日(12月6日)には大きな焼きソーセージ(1つ)+リンゴ(2つ)+クルミ(6つ)
  ◇[衛生]:2週間毎の土曜日には浴室に行かねばならない(そこでは幼い子供に何か事が起こらないよう父母どちらかが同伴する)/身体を洗われる+ブラシをかけられる+入浴させられる


(2)成熟段階と性

【人生段階論】
〈1〉幼年期(誕生~7歳)。「もの言わない」=正しく話せない・語を正確に構成できない(インファンス)から子供と呼ばれている年代
〈2〉少年期(~14歳)
〈3〉青年期(~21歳)。セビーリャのイシドルスは28歳までとする。生殖能力を有するまでに成長していることから青年期(思春期)と呼ばれる。
〈4〉壮年期(~50歳)。セビーリャのイシドルスは45歳までとする。自己と他者を助ける力を持つのが特徴
〈5〉熟年期。セビーリャのイシドルスの設定する「重厚の年代」。老いているのではなく「壮年期を超えている」とされる
〈6〉老年期(~70歳,もしくは死まで)。人々は再び小さくなる・理性的でなくなる・話しは下らなくなる。やがて彼は生まれた塵と灰に帰る
(by『物の固有性についての書』バルトロメウス・アングリウス著)


(3)臨終と死

【中世における死の観察】
A.人間は生まれると共に死ぬ運命に定められている。このことを中世の医師たちは常に知っていた(死神との対決を描いた『ボヘミアの農夫』のように)
B.死とは生命からの立ち去りである。ビンゲンのヒルデガルトはこれを単なる「死の結末」とは混同しなかった。死亡(エクシトゥス)は果実の産出・放出・追放・消退を意味する。「エクシトゥス」は生命の目的を意味し、死することもまた一種の放出過程であり、さほど劇的なものではない
C.死は口から入る(人間は口を開けて死ぬ)。「生命ある呼吸の流れが止まり、近づきつつある死への道が開いた。死は開かれた口の門から侵入しようと試みた」(死の場面の描写から)
D.復活の教義。「死者が肉体+魂を備えて復活するであろう」ことは(初期キリスト教の数世紀間は)自明の信仰だった。第4回ラテラノ公会議(1215年)でも、ヒルデガルトでもこのことは変わらない
E.死とは破壊と消滅である。人間は自然の秩序から脱落し、時間に身をさらし、それゆえに死に対して投げ出されている。生成・衰亡の「時の斜面」において万物は自ら消耗していく。病気とは「欠陥の状態」であり、死は「欠如」を意味する(byペトルス・ヒスパヌス:13世紀)

【死が1つの像となる】
F.「中世の秋」において。「大鎌を持つ死神・骸骨」「生命の糸を断ち切る運命の女神」「人生の舞台に登場する招かざる客」「死の騎士」「死の草刈り人」「狩人」「死の舞踏における楽士とダンサー」「黙示録の騎士」「大鎌と砂時計を持った骸骨」「コウモリの翼を持つ復讐の女神メガエラ」「墓地の幽霊」などといった形で死は形を与えられる
G.「彼岸」は何の慰めも提供できない恐怖の場所へと次第に変化していく。それまでは栄光の場所であり、生命に満ちあふれた「黄金の時代」とされていた

【パラケルススの場合】
H.死とは自然の消滅である。死は「人間の収穫物の刈り手」であり、人間のすぐ近くに(共存者として)うずくまっている。死は「生=人間の高価な宝」を絶え間なく盗み取っていき、やがてすっかり取り上げる。時間と「成熟」「破壊」「腐敗」が結びついている
I.天上での復活。人は天上の浄化された新しい身体でもう一度生まれ変わる。だから死は(生々しい事実ではなく)全ての力の逆転であり、人間は内なる心から死を受け入れるべき・褒め勧められるべき生命を希望すべきである

【中世末に現れた死の観念】
J.死の行進(ヴァド・モーリ)。「我々は死へと進む。塵なる我は塵と灰に帰す」。死とは(人間を)あらゆる職業・あらゆる年齢・あらゆる瞬間に引きずり出すものだと理解される
K.死の舞踏(ダンス・マカーブル)。クリンゲンタールの回廊に最古の描写が見られる(小バーゼルの女子修道院:1312年の文書に記録あり)。ドミニコ派修道院の墓地に描かれたもの(大バーゼルの死の舞踏)にははっきりと具象化されている(これは1439年のペスト流行を追想するためのもの)
L.死すべき術(アルス・モリエンディ)。「術」(アルス)とは規則にまで整えられた知のこと。したがってこれは「死の学」を意味する=「救いのうちに死する術」。宗教改革運動(特に托鉢修道会)による推進+中世末の社会的・自然的脅威により実現される
M.死すべき術の広まり。次第に「正しく生きる術」「健康の管理」を抑圧するようになる。「あらゆる諸術の中の術……それは正しく死ぬすべを知ることである」(byある手稿本にて:1410年頃)。ついには独立した文学ジャンルにまで至る
N.人生の終末における霊的看護の強調。「病める人間にとり、その最後の危機において霊的+救いのうちに援助されるほど、より大いなる慈愛の業はない」(byトマス・ポイントナー)。司祭のためにと考えて書かれた『救いのうちに死すべき術』は、やがてあらゆる国語に翻訳されて(他の多くの慰めの書物とともに)急速に広がった
O.臨終の介助の重要性と死の時の意味の強調。患者に罪の有無を問い、その罪を理由として神が疾病を送りつけた可能性があるので、患者が秘密の(もしくは公然の)罪を持っていないかどうかを調べる。加えて「自分はまだ死ぬはずがない」と思っている患者には、あやふやに慰めて変な希望を持たせるようなことをしないこと(by『天路』:シュテファン・フォン・ランツクローナ著)
P.疾病を通じて神は回心への示唆を与え、悔恨と悔い改めによって(まず)魂を・(次いで)肉体を健やかにする