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学内の雰囲気《写実系の直向きさと現代アート系の知的さに刺激を受けた》
ここで、僕の通っていた武蔵野美術大学の油絵科当時について少し書きたいと思います。
※あくまでも自分の受けた体感や印象なのでそれは違うだろと言いたくなる人、不愉快になる方もいるかもしれません。15年以上も前の事ですし現在は全く雰囲気も違っていると思います。誰かを批判したり一定の組織を揶揄したい訳ではないです。多くの方にとって参考にならないと思います。なお、僕は、全ての作家が幸福に活動できる基盤作りも重要な夢の一つです。その為には、先ずは、アート村以外の"アートに興味がない人"にも美術という見えない白壁の向こう側を先ずは知って貰う事が、重要だと強く感じています。なのでくれぐれもスルーするか、ご容赦または、ご理解頂きたく何卒よろしくお願い申し上げます。
さて
当時一学年に油絵科だけで100人以上の学生がいました。皆、異なる背景で入学しており、実はバラバラの価値観目的意識を持っていた気がします。(絵を描く事が好きだという事以外は。)
主に
ストレスにならない範囲で将来アートに何か携わっていけたらいいなって層。
美術の先生になりたいという層。
大学職など研究職、例えば教授になりたいという層。
偶々受かって入ってしまったという層。
アートで食う事が目的なってしまっている層。
イケてるヤバい作品を作る事だけ考えていたい層。
学芸員に興味がある勢。
などに朧げに分かれていて。
その中で、更に、アーティストを目指している層の中でも価値観やタイプが分かれていて
職人型
兎に角、写真機以上にそっくりに描きたい。
写実タイプ、フェチタイプ、工芸家気質、伝統主義、手技で魅せたい職人気質。
研究者型
いやいや、そもそも何で人間は絵を描くのか?どこに向かってるのよ?など哲学や美学、思想、コンセプトを重んじる、美術批評や美術史至上主義タイプ。
デザイナー型
漫画、アニメ、イラストが大好きで授業などは真面目に取り組むけれど、好きな絵は勝手にうちで分けて描いて活動してるよ勢。
などになんとなく分かれていたでしょうか。
そもそも、学生一人一人のルーツも目指している先も違う人間が何百人もいる訳ですから、混沌としてるというのが正直な所でしばしば、呑み会などでは、ディスカッションというなのぶつかり合いや、現実逃避の為の活動が行われました。
人間不思議なモノで授業の内容より、仲間とのくだらない思い出ばかりが鮮明に記憶に残っています。きっと、感情が揺れ動いていたんだと思います。
油絵科には3年次になると3つのコースのどれかを選択する必要がありました。ざっくり言うと、写実系画壇系のコース、現代アート系のコース、版画のコースです。僕は現代アートのコースでしたが、僕は写実系画壇系のコースの人とも交流がありました。彼等は本当にいつ行っても、作品を作り、口ではなく手を動かしていました。
一方で現代アート系の方は、知性が豊かで、作品のコンセプトの話を聞いているだけで楽しかったのを覚えています。偶にやたら難しい言語を使いたがる方や、他人の美術を批判する事が正義だという人もいて、それも特長でした。←僕にとっては超ストレスでしたが、、。
それぞれのコースにはなんとなくのカラーがあって、写実系の人たちの作品を制作をする事に対する直向きさ、画面に向かい続ける集中力、そして、現代アート系の人たちには独創性、知性、新規性、単純にカッコよさお洒落さ、若々しさなど、それぞれのいい所に僕は憧れを抱いて参考にしていました。
タイプは違っても、同じ志を持った友人に沢山出会える所が美大の最大のメリットだと思います。違う価値観の方の中で自分の得意不得意を学ぶ事ができ、自分と他人の美術を尊重する癖が身に付きます。(本当にアートが広く"深く"好きなのであればですが)←重要
《努力や結果を周りに認められないもどかしさ》
美大に入っていい事もありましたが、もどかしい事もありました。
その一つが、僕があるコンペで入賞した時の事です。入賞ではありますが、誇らしい気持ちもあり、担当の教官に結果を伝えたいと思ったのです。
ある日、入賞したコンペのチラシを持って担当教官の所にいき、「今度何々美術館に飾られる事になったから良かったら見に来て下さい」と言った所、「君はまだ1年生なのだからこんな所には大学院を出てから出しなさい」と言われたのを覚えています。担当教官が言っている事に一理あるのもわかりましたが、よく話も聞かず作品も見ようともせず、僕のパーソナルな情報もスキルも知ろうともせず、自分の取り組みさえも承認さえして貰えずがっかりした事がありました。万が一その言葉を鵜呑みにして大学院を出てから種を蒔いていくとして、花開くのには更にまた年月が予想されるのに、そこまで誰か何か活動を保障をしてくれる訳でもないのに、なるほど牧歌的な風潮なんだなぁとしみじみ感じたのを覚えております。
現状を広く見渡せばイケてる作品を描きさえしていたら神様が引き上げてくれるとは到底思えませんでした。
とは言え、先生達からすると、人数が多いですし、焦って空回りして自分を見失う学生を山のように見てきてるんだろうな仕方ないんだろうなとも感じました。
友人からは僕はどのように見えていたのでしょうか。
卒業した時にとある知人から杉ちゃんに似てるからと言って矢沢永吉の"成り上がり"という本を貰ったのを覚えています。
ここまで読んでくれて有り難う御座います。第三章に続きます。
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若き日20代を過ごした立川での個展の前に、美大と駆け出し作家の時代の歩みをまとめてみました。
10月12日(水)-17日(月)に伊勢丹立川75周年記念個展 杉田陽平"色の雫、形の空、光の線"が開催予定となっております。
東京都立川市は、僕が20代のほとんどを過ごした東大和市の隣の市の為、地元という感じで愛着のある場所です。
その地で大きな個展に呼んで貰い心から感謝しています。
個展に出品する作品を、自ずと20代を思い出しながら制作する時間の中で、現在の僕のスタイルに至る今までの取り組みについて、多くの方々に知ってもらいたい気持ちが湧き上がってきました。
誰かに特別役に立つ内容ではないかもしれませんが、過去を見つめる事で目指す未来が浮かび上がる気もするので、画家を志してから今までの活動や思いの積み重ねについて、これから何回かの章に分けて少しずつブログに書いていけたらと思います。
もし誰かの1人でも何かヒントになれば幸いです。
※読んだ人によっては不愉快にさせてしまったり、各立場の方々に配慮が欠けた表現があるかもしれません。誰かを批判したり組織の批判の意味もありません。多方面を尊重しつつ超個人的な当時の思いなので、予めどうかご容赦頂けたら幸いです。
美大生活とコンペ、地道に展覧会活動をしていた20代
まずは、今回の個展が開催される立川で多くの時間を過ごした20代の事から書きます。
20代の前半は美大生活であり、後半は美大を卒業し、縛りのないギャラリーで展覧会活動をしつつ企業などの奨学金制度を駆使しながらなんとか食い繋ぐ日々でした。
様々な出来事や人との出会いに影響を受けて今の自分がありますが、ここでは特に20代に影響を受けた4つの事「美大生活」「mixi」「三菱商事アートゲートプログラム」「ワンピース倶楽部」でのエピソードについて書いていきます。
※この文章では、武蔵野美術大学を含めた私立の美術大学を「美大」とし、国立の東京藝術大学を「藝大」としています。
また、コンペとは、コンペティション(競技会)の略で、ここでいうコンペとは、企業などが、アートのサポート活動として、広く作品を公募し、審査員が賞に見合った作品を選ぶ事です。
《すぐには拭いきれなかった藝大へのコンプレックス》
僕は2浪をして、武蔵野美術大学に入りました。だから、もし現役で合格していれば3年生と同じ年齢で1年生になったという事になります。その事から、入学早々に、いくつかの葛藤がありました。
まず、本来なら、あと2年で世に解き放たれるのかという怖さです。というのは、自分は1年生で卒業まで4年間あるけれども、もしも現役で入学をしていたら2年後には美大生でも何者でもないまま、社会に放り出されてしまうかもしれない恐怖をリアルに感じたのです。あと2年で、何かを手に入れられるイメージが全く湧かず、何かしなければならないという焦りのような思いが既にありました。
また、僕は美術系の高校に通っていたのですが、その時から、いやもしかすると潜在的にはそのずっと前から藝大を目指して過ごしてきた為、藝大に対する憧れを強く持っていました。さらに、美術予備校でも藝大至上主義という洗脳にも似た状態があり、美大に入学した喜びよりもむしろ、挫折感が強く、そのコンプレックスをどうにかこうにか何かで埋められないかと、もがいていたように思います。
一方で、藝大美大受験のように一日数時間で即座に完成させるよりも、じっくりと考え抜いた末、時間を気にせず納得した作品を提出する事が可能な一般のコンペは、藝大美大受験よりは、幾らか自分にとっては楽にも思いました。
《コンペで学んだ事》
コンペに挑もうとしたのはまず、腕試しになると考えたからです。学外の人が審査員をやっているコンペで評価を受ける事で、実際に世の中に出た時のリアルなジャッジに近いものが感じられるのではないかとも思いました。
また入賞できたら副賞でお金も貰えて、名前を人に知って貰えるし、そもそも展示場所を提供して貰えるという魅力もありました。
いざ応募しようとすると、想像以上に沢山あって戸惑いましたが、自分なりに決めたいくつかの基準をもとに、100箇所近くある中から3つくらいに挑戦するコンペを絞ったのです。
じっくり考えて挑戦できるコンペは僕の気質に合っていて、挑戦したいくつかに入賞したり、落選したりを繰り返しながら、少しずつ覚悟と自信につなげていきました。
2004年から、2008年という20代前半の間に「トーキョーワンダーウォール賞」「シェル美術賞」「GEISAI」など他複数のコンペで入賞できました。
実際に、いくつも実践する事で、何かに外部にチャレンジするという癖を身につけられたのも大きな収穫でした。
一方で、受かったからといって直ちに優秀な訳でも価値が保障される訳でも、また売れる訳でもなく、次に繋がるチャンスのキッカケを手に入れたに過ぎない事も実感する事となりました。
世の中には圧倒的に努力してる人も圧倒的に自分より才能に優れた方も沢山いてそういう人達と出会えるのも大きなメリットであり、落選も多かったですが、成果を上げた方を表面的に見ずに何が魅力なのかと謙虚に受け入れたり、成果に結びつかない時もまた、なんとか前向きであり続ける図太さみたいなものを鍛える事が出来た気がします。
そして、一番学びになった事は、傾向に合わせたり、対策をしないでヘンテコでもいいので自分の作品を出して審査員やお客さんを驚かしながら認めて貰う事に一番喜びを感じるように変化していった事です。
この時の経験が現在のスタイルに通ずる、売れる絵、流行りの絵を描く、受身スタイルではなく、今は主流ではないけれど、こんな稀な絵が売れる世の中って素敵じゃないですか?こんな画家のタイプがもしいたらどう世の中を変える事が出来るだろう?などと提案していくのが一番難しいですがレベルの高い自分自身が盛り上がるスタイルな気がして積極的実践型スタイルが自分が向いたい方向に思うようにもなりました。
《美大ではプロになる方法は教えてはくれる場所ではない》
先ほども書きましたが、僕は美術系の高校に通っていたので、高校1年生から予備校時代を合わせると、受験生としての生活がとても長く続いていました。
その中で得た情報から、美大や藝大は、プロを育てる養成所ではないとなんとなく認識はしていました。
美大や藝大は、美術の思想や哲学、美学を学び、自分を深める場所であって、必ずしも学生全員がプロを目指している訳ではなく、むしろ、絵一本で暮らせる人は何年に一人のレベルだと、受験生の時から散々聞かされていた為、それは何故なのか?自分なりに仮説を立て、学校の美術の課題とは切り離して、食う為には自分で何とかしないといけないんだろうなと感じていました。
だからコンペに応募する以外にも色々な事にアンテナを張っていたように思います。
美大時代の僕の生活は、昼間は学校の課題に取り組み、夜間は、コンペに出す作品の制作などの学外に向けた実践をしていました。そして、土日は、お客さんと画廊を巡ったり、オークション会場や美術館などに行く、時折学校をウロウロするというサイクルでした。
話には聞いていたものの、いざ美大に入ってみると、先輩にも同期にも絵の上手な人たちがゴロゴロいるのに、本当に、皆、普通に就職していく感じでした。
あんなに凄い人も、プロを目指さずに、普通に辞めていくのだから、自分がスムーズにプロでやっていけるはずがなく、道は険しいのだという事が一目瞭然でした。
方や草間彌生さん奈良美智さんのように一点の作品が何億で売れるという、世界中の方が作品を待っているというような作家が世の中にいるのも事実です。
同じサイズであっても僕の作品が当時3万円程度なのに対して、彼等は億円という風に途方もない差が生まれているのは何故なのかと、愕然絶望するのと同時に、アートの不思議さ奥深さに加え、自分も取り組み方や努力の組み合わせでそうなれるかもしれないと細やかな可能性としても捉える事は出来ました。(浅はか)
今日は、以上です。
第二章に続きますのでお暇な時に読んで貰えたら喜びます。
余談ですが
↓2002年浪人時代に新宿紀伊國屋で買った本です。奇跡で本棚に残っていました、、付箋多過ぎ、、。知らなかったのですが実践アートシリーズというシリーズだったのですね、、後で考えるとこの本との出逢いが原点なのかもしれません。やっぱり実践派だったのか、、