若き日20代を過ごした立川での個展の前に、美大と駆け出し作家の時代の歩みをまとめてみました。
10月12日(水)-17日(月)に伊勢丹立川75周年記念個展 杉田陽平"色の雫、形の空、光の線"が開催予定となっております。
東京都立川市は、僕が20代のほとんどを過ごした東大和市の隣の市の為、地元という感じで愛着のある場所です。
その地で大きな個展に呼んで貰い心から感謝しています。
個展に出品する作品を、自ずと20代を思い出しながら制作する時間の中で、現在の僕のスタイルに至る今までの取り組みについて、多くの方々に知ってもらいたい気持ちが湧き上がってきました。
誰かに特別役に立つ内容ではないかもしれませんが、過去を見つめる事で目指す未来が浮かび上がる気もするので、画家を志してから今までの活動や思いの積み重ねについて、これから何回かの章に分けて少しずつブログに書いていけたらと思います。
もし誰かの1人でも何かヒントになれば幸いです。
※読んだ人によっては不愉快にさせてしまったり、各立場の方々に配慮が欠けた表現があるかもしれません。誰かを批判したり組織の批判の意味もありません。多方面を尊重しつつ超個人的な当時の思いなので、予めどうかご容赦頂けたら幸いです。
美大生活とコンペ、地道に展覧会活動をしていた20代
まずは、今回の個展が開催される立川で多くの時間を過ごした20代の事から書きます。
20代の前半は美大生活であり、後半は美大を卒業し、縛りのないギャラリーで展覧会活動をしつつ企業などの奨学金制度を駆使しながらなんとか食い繋ぐ日々でした。
様々な出来事や人との出会いに影響を受けて今の自分がありますが、ここでは特に20代に影響を受けた4つの事「美大生活」「mixi」「三菱商事アートゲートプログラム」「ワンピース倶楽部」でのエピソードについて書いていきます。
※この文章では、武蔵野美術大学を含めた私立の美術大学を「美大」とし、国立の東京藝術大学を「藝大」としています。
また、コンペとは、コンペティション(競技会)の略で、ここでいうコンペとは、企業などが、アートのサポート活動として、広く作品を公募し、審査員が賞に見合った作品を選ぶ事です。
《すぐには拭いきれなかった藝大へのコンプレックス》
僕は2浪をして、武蔵野美術大学に入りました。だから、もし現役で合格していれば3年生と同じ年齢で1年生になったという事になります。その事から、入学早々に、いくつかの葛藤がありました。
まず、本来なら、あと2年で世に解き放たれるのかという怖さです。というのは、自分は1年生で卒業まで4年間あるけれども、もしも現役で入学をしていたら2年後には美大生でも何者でもないまま、社会に放り出されてしまうかもしれない恐怖をリアルに感じたのです。あと2年で、何かを手に入れられるイメージが全く湧かず、何かしなければならないという焦りのような思いが既にありました。
また、僕は美術系の高校に通っていたのですが、その時から、いやもしかすると潜在的にはそのずっと前から藝大を目指して過ごしてきた為、藝大に対する憧れを強く持っていました。さらに、美術予備校でも藝大至上主義という洗脳にも似た状態があり、美大に入学した喜びよりもむしろ、挫折感が強く、そのコンプレックスをどうにかこうにか何かで埋められないかと、もがいていたように思います。
一方で、藝大美大受験のように一日数時間で即座に完成させるよりも、じっくりと考え抜いた末、時間を気にせず納得した作品を提出する事が可能な一般のコンペは、藝大美大受験よりは、幾らか自分にとっては楽にも思いました。
《コンペで学んだ事》
コンペに挑もうとしたのはまず、腕試しになると考えたからです。学外の人が審査員をやっているコンペで評価を受ける事で、実際に世の中に出た時のリアルなジャッジに近いものが感じられるのではないかとも思いました。
また入賞できたら副賞でお金も貰えて、名前を人に知って貰えるし、そもそも展示場所を提供して貰えるという魅力もありました。
いざ応募しようとすると、想像以上に沢山あって戸惑いましたが、自分なりに決めたいくつかの基準をもとに、100箇所近くある中から3つくらいに挑戦するコンペを絞ったのです。
じっくり考えて挑戦できるコンペは僕の気質に合っていて、挑戦したいくつかに入賞したり、落選したりを繰り返しながら、少しずつ覚悟と自信につなげていきました。
2004年から、2008年という20代前半の間に「トーキョーワンダーウォール賞」「シェル美術賞」「GEISAI」など他複数のコンペで入賞できました。
実際に、いくつも実践する事で、何かに外部にチャレンジするという癖を身につけられたのも大きな収穫でした。
一方で、受かったからといって直ちに優秀な訳でも価値が保障される訳でも、また売れる訳でもなく、次に繋がるチャンスのキッカケを手に入れたに過ぎない事も実感する事となりました。
世の中には圧倒的に努力してる人も圧倒的に自分より才能に優れた方も沢山いてそういう人達と出会えるのも大きなメリットであり、落選も多かったですが、成果を上げた方を表面的に見ずに何が魅力なのかと謙虚に受け入れたり、成果に結びつかない時もまた、なんとか前向きであり続ける図太さみたいなものを鍛える事が出来た気がします。
そして、一番学びになった事は、傾向に合わせたり、対策をしないでヘンテコでもいいので自分の作品を出して審査員やお客さんを驚かしながら認めて貰う事に一番喜びを感じるように変化していった事です。
この時の経験が現在のスタイルに通ずる、売れる絵、流行りの絵を描く、受身スタイルではなく、今は主流ではないけれど、こんな稀な絵が売れる世の中って素敵じゃないですか?こんな画家のタイプがもしいたらどう世の中を変える事が出来るだろう?などと提案していくのが一番難しいですがレベルの高い自分自身が盛り上がるスタイルな気がして積極的実践型スタイルが自分が向いたい方向に思うようにもなりました。
《美大ではプロになる方法は教えてはくれる場所ではない》
先ほども書きましたが、僕は美術系の高校に通っていたので、高校1年生から予備校時代を合わせると、受験生としての生活がとても長く続いていました。
その中で得た情報から、美大や藝大は、プロを育てる養成所ではないとなんとなく認識はしていました。
美大や藝大は、美術の思想や哲学、美学を学び、自分を深める場所であって、必ずしも学生全員がプロを目指している訳ではなく、むしろ、絵一本で暮らせる人は何年に一人のレベルだと、受験生の時から散々聞かされていた為、それは何故なのか?自分なりに仮説を立て、学校の美術の課題とは切り離して、食う為には自分で何とかしないといけないんだろうなと感じていました。
だからコンペに応募する以外にも色々な事にアンテナを張っていたように思います。
美大時代の僕の生活は、昼間は学校の課題に取り組み、夜間は、コンペに出す作品の制作などの学外に向けた実践をしていました。そして、土日は、お客さんと画廊を巡ったり、オークション会場や美術館などに行く、時折学校をウロウロするというサイクルでした。
話には聞いていたものの、いざ美大に入ってみると、先輩にも同期にも絵の上手な人たちがゴロゴロいるのに、本当に、皆、普通に就職していく感じでした。
あんなに凄い人も、プロを目指さずに、普通に辞めていくのだから、自分がスムーズにプロでやっていけるはずがなく、道は険しいのだという事が一目瞭然でした。
方や草間彌生さん奈良美智さんのように一点の作品が何億で売れるという、世界中の方が作品を待っているというような作家が世の中にいるのも事実です。
同じサイズであっても僕の作品が当時3万円程度なのに対して、彼等は億円という風に途方もない差が生まれているのは何故なのかと、愕然絶望するのと同時に、アートの不思議さ奥深さに加え、自分も取り組み方や努力の組み合わせでそうなれるかもしれないと細やかな可能性としても捉える事は出来ました。(浅はか)
今日は、以上です。
第二章に続きますのでお暇な時に読んで貰えたら喜びます。
余談ですが
↓2002年浪人時代に新宿紀伊國屋で買った本です。奇跡で本棚に残っていました、、付箋多過ぎ、、。知らなかったのですが実践アートシリーズというシリーズだったのですね、、後で考えるとこの本との出逢いが原点なのかもしれません。やっぱり実践派だったのか、、