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須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

僕らが悩んでる時というのは、
「直感(ハート)」vs 「理性(マインド)」が戦っている時。

まず、直感がある。
これダメだな、これ良いな。

しかし、理性が反論する。

 いやいや、せっかくここまで来たのだ・・・
 これを逃したら、次はないかもしれない
 後で後悔するんじゃないか?
 みんなに、どう思われる?

この二つのせめぎ合いが、悩み。
この間の緊張状態が、ストレス。


さて、この「悩んでいる時間」というのは、
ほぼ、100%、「直感」の出した結論の、
検証作業にあてる時間である。

結局、どれだけ粘っても、
やっぱりあの時の直感が正しかったんだ・・・
という最終結論になる。


とするなら、初めから「直感」を信じればいい。
もちろん、悩む時間に価値がないわけではない。
そこには、必要な体験があったわけだからね。

しかし、何度も、「直感の検証」をやる必要はない。

僕は思う。
「違う」と思ったのなら、
1時間でも、1日でも、1週間でも、1ヶ月でも、
方向転換すればいい。
とっとと逃げ出せばいい。

外野は、うるさくいうだろう。
 ・そんな短時間で、何がわかる?
 ・結局、それじゃあ、どこにいっても、またやめるしかないぞ?
 ・やめるのは、簡単だ
 ・もったいない
 ・もうしばらくやってから、結論を出せばいい

そういう彼らをよく見てみよう。
その人のように、なりたいのなら、耳を貸してもいい。
その人のように、生きていきたいのなら、検証時間を持ってもいい。

だけど、その人のようになりたくないな、
そんな生き方したくないな・・と思うのなら、
その人のアドバイスと、逆の方向に歩けば、正解だ。

そのアドバイスに従うなら、3年後、10年後、
その人そっくりになっている自分がいるはずだ。


もし、まだそこで学ぶべき自分のテーマが未完了ならば、
人生は、必ず、同じような機会を、作り出してくれる。
すなわち、同じような状況を前にするということだ。

そしたら、腰を据えて、そのテーマを掘り進めばいい。
チャンスは、何度だってある。
生きている限り、僕らは、挑戦できる。

自分が作り出す現実は、場所を変えても変わらない。
それは、希望の文脈で捉えるべきだ。

僕らは、ハートを生きる限り、直感を生きる限り、
人生の最短経路を歩くことになる。

もちろん、そればかりが人生じゃないけれど、
その経路が、より自分らしく生きることにつながり、
自分らしく生きることとは、すなわち最も素晴らしい形で、
自分を世界に捧げることができる、ということを意味する。


直感を生きよう。
検証作業で、自分をすり減らすのは、やめよう。

もう、自分の中に、答えは出ている。
そして、あなたは、もう、そのことに気がついている。

あとは、飛び降りるだけ。
大丈夫、震えたっていい、怖気付いてもいい。

Just Do it!!

この世界には、たくさんの”先生”がいて、
僕らに、すべきこと、してはならないことを、教えてくれます。

・人に優しくしなさい
・感謝をしなさい
・エゴイスティックに振舞ってはいけない
・ネガティブな言葉を使ってはいけない
・身体に悪いものは、食べてはいけない
・人を恨んだり、妬んだりしてはいけない etc etc

リストは続きます。
ん~このリストを守れば、幸せになれる・・・・気がしませんよね。
その直感は、まったく正しい。

大きな、勘違いがあるのです。
実は、それらは、「ルール」ではない。

それらは、従うべき指標でも、
守るべき戒律でもないということです。

それらは「結果」についてのステートメントなのです。
適切に言い換えてみましょう。

あなたが、本当に、あなたを生きることができた時に、
あなたは
・人に優しくすることになります。
・感謝をもって、生きることになります。
・エゴイスティックに振る舞うことはなくなります。
・ネガティブな言葉を使わない自分に気がつくでしょう。
・自然と、身体が求めるものを、食べることになるでしょう。
・人を恨んだり、妬んだりした自分を、忘れてしまうでしょう。

あなたが、あなたへと戻っていく、愛の旅を続けていくのなら、
あなたは、そこまで、たどり着けるでしょう。

そういう、メッセージ。

それをルールだと読み替えてしまうと、
その人は、等身大の自分から、離れてしまいます。
自分の中の、批判的で、暴力的で、妬ましい部分を、
ないものにしてしまうのです。

すると、そんな自分の「シャドー」を投影するために、
自分の眼の前に、批判的で、暴力的で、エゴイスティックな人を
呼び寄せ続けてしまうことになる。

自分が、そんな場所にいるかもしれない・・・と思うのなら、
一度、~すべき、~してはいけない・・・というルールを、
捨ててみることです。

そこで自分に禁止していたモノを、やってみる。
勇気がいるかもしれません。
でも、始めてください。
怒り、悲しみ、傷つけ、悪口を言い、助けを求め
わがままを言い、自分のために生き、気遣いをやめ、
好きなものを、好きなだけ食べる。

その等身大の自分を、見つけてみる。
きっと、そこで始めて出会う自分がいます。
そこには、必ず、新たな発見と、新たな学びがあるでしょう。

僕らは、どんな生き方をすることもできます。
「人に優しくする」というルールを生きることもできます。
「人に優しくない自分に、正直に生きる」ということもできます。
そこで、異なる学びがある、それだけのことです。

どちらの生を望むのか。
どんな生き方を、したいのか。
選べば、そこに、道ができる。

僕は、ルールを手放していく道を歩いてきました。
その旅は、まだ途上です。きっと、終わることはない。
ひとつ言えることは、この道は・・・楽しいよ!ってことです。
・・・こんな終わりかたで、スミマセンが、
今日は、こんなところで♪


セラピーをやっている、
カウンセリングをやっていると言うと、
時に、こんな風に問われることがある。

「毎日、人の悩みや、ネガティブな話を聴いて、大変じゃない?」
「自分の、心のケアはどうやっているの?」

確かに、10代から20代にかけて・・・
期せずして、カウンセリング(的なこと)を始めた頃、
そんな感覚も、少しはあったかもしれない。

でも、今の僕の実感は、全く別のものだ。

僕は、セラピーをやり、カウンセリングをやると、
自分の中の最も美しく、エネルギッシュな部分が活性化するのを感じる。

その理由は、明確だ。

僕の前で、みんなが、見せてくれるからだ。
その人の中の、最も美しく、柔らかで、純粋なモノを。
そして、最も勇敢な眼差しを。

自分の心に、向き合おうというエネルギーは、美しい。
秘められてきた感情や、記憶に触れるとき、
そこには、最も純粋なモノが宿るのだ。

そして、誰かの前で、自分の伏せてきた過去や
触れるのが怖い感情を、晒すという行為は
大変に勇気がいる行為だ。

すなわち、いつだって僕は、戦士の前に立っているのだ。
僕よりも、勇敢で、純粋で、優しく、懸命な、一人の戦士の前に。

僕は、そこで、一人の戦士が、何かを見つけていくプロセスに、
変容していくプロセスに立ち会うのだ。

そんな時間を、どうやって「ネガティブ」と形容できるだろうか。
その、透明で、繊細な空間に身を置いて、
いかにして「疲れる」ことができるだろうか。


僕は、今、自分が、
とても純粋な場所で生きていることを、実感している。

振り返ってみると、かつての僕は、本当に浅はかだった。
「人生なんて、こんなものでしょ」と斜めに構え、
小さな嘘で固めて、辻褄を合わせながら、
するすると人の間を器用に抜けていく・・・

そんな僕に、神はチャンスを与えた。
「出会ってごらん」と。

あれは、19の頃だった。
「純粋だからこそ傷つき、まっすぐだからこそ、苦しみ、
それでも懸命に生きようともがいている人」と出会って、
僕は、自分のあり方を、変えていかざるを得なかった。

僕の中の、不要なモノを、大掃除していくしか、なかった。
自分のあり方、生き方、行動、感情、信念、世界観、恐れ・・・
その全てを、総ざらいしていくしかなかった。
それ以外に、生き抜く術はなかった。

あれから、13年の歳月が経ち、
やっと僕は、このことを実感し、言葉にできている。

人生の秘密を、あの日の、悔しさを
未だに、振り返れない傷を、見果てぬ夢を、
還らぬ思い出を、恐怖を、苦しみを、
僕に、話してくれた人たち。

僕の前に現れた、
「懸命に生きる人たち」が、僕の、教師だったのだ。

たくさんの人が、育ててくれたのだ。
その人生を持って、教えてくれたのだ。
その魂の純粋が、僕を洗ってくれたのだ。


僕はこれからも、導かれながら、導いていくのだ。
「導く」。これまで、使わなかった言葉が、
初めて、僕の元に、やってきた気がする。
(また、どこかへ行ってしまうかも、しれないけれど)

5月の連休は、意識のシフトがあって、
また何かが、変わっていくことが、わかった。

きっと、僕は、還していくことになるだろう。
自分がどこまで行くのか、行くことになるのか・・・
また新たな旅が、始まろうとしている。


***
@新緑の湯河原の地で

インナーチャイルドカードセッション、いい感じです!!
今週から、モニターさんへのセッションが、スタートしました。
モニターに応募くださった皆さん、ありがとうございます。

カードを読み解く中で、
その人の現状、課題、それを解決していくための方向性が、明確になっていく。
自分では、気がついていなかった自分の側面が、見えてくる。
皆さん、驚くほどに、的確なカードを選ぶんです。

ん~、手応えがあります。

『これは、たくさんの人が必要としている!!』
と後押しをもらって、
僕も改めて、多くの人に体験してもらいたいと思いました。

すぐにモニター枠が埋まってしまったことも、ありまして、
4月中にお申し込み頂いた方は、特典をつけさせていただきます。


通常6000円(この価格も6月までの割引価格です!)のところを・・・・
4500円にいたします!!

必要に応じて、心理カウンセリングやワークも取り入れた
内容の濃~いセラピーを体験できます。

この内容でこの価格は、破格です・・・ですので、長くは、できません。
この機会に、ぜひ、一度、体験してみてください。

お申し込み・お問い合わせは、
FB、ブログの『メッセージを送る』、メール(sudoshun○gmail.com ○→@)から、どうぞ!!

インナーチャイルドカードワークをはじめますよ~


インナーチャイルドカード・セラピスト養成講座を卒業しまして、

晴れて、セラピストを名乗ります。

(ずるずると、1年くらいかかりましたが・・・)


これまでも、ちょこちょこ、セラピーの中でやっていましたけれど、

今後、インナーチャイルドカードセラピーをメニューに加えます。


そもそも、インナーチャイルドカードって何?

という人がほとんどだと思いますけど、

タロットみたいなモノです。


一般的に、カードというのは

深層心理にアクセスをするためのツールです。

自分の声を、聞きやすくするための道具。


その中でも、このインナーチャイルドカードは、

「自分との対話」を生み出す力が、とても強いように思います。


インナーチャイルドカードは、

自分の中の自分、自分の中のより深い意識、

より純粋な意識と対話することを、強力にサポートしてくれるのです。


ですので、引いたカードがきっかけとなって、

・自分の中の気づいてなかった感覚や感情に気がつく

・自分の今の状態が、客観的に見える

・自分の向かいたい方向性が、はっきりする

といったことが、起こります。


実際に、カードを引いてみると

「自分の中から、面白いほど、答えが見つかる」

といった感覚を受けると思います。


なお、セラピストの立場から書きますと、

このカードは、少し、ずるいです 笑

セラピー技法を通じて、時に、数時間かかる場所に

カードを引くことで、簡単にたどり着くことが、できます。


せっかく、こんなに良い道具があるのに、

使わない手はありませんよね。


さらに、これまで、僕がやってきた、

ゲシュタルトセラピー、イメージワーク、

人間関係最適化のワークなどと組み合わせると、

より強力な、変化の契機を提供できると思います。


「カードで見つけて、ワークで深める」

そんな感じ。

きっと、驚きます!!


というわけで、興味のある方、ご連絡ください!


今なら・・・

・先着5名:モニター価格 3000円

★第1回 モニター募集は終了しました★

・料金;6000円(夏頃までの、特別プライスです!!)

・時間:1.5時間程度: 

・場所:東急目黒線大岡山付近

   (希望の場所があれば、ご相談にのります ※ 別途交通費)

☆ セッションの内容を、差し支えない範囲、個人が特定されない範囲で、
  公開させていただく可能性があります。当日、ご相談させていただきます。


ご希望の日時で、2~3日の候補日をご連絡ください。

自分に出会う不思議な旅に、出かけましょう。


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・~をしたいのに、できない。


これが、「悩み」の、ほとんど全てです。

願望があり、その願望を実現ができないことが、

「悩み」となるわけです。


これって、不思議なことだと、思いませんか。


なぜなら、願望とは、夢であり、希望です。

それは、幸せにつながる道のはずです。


しかし、その夢や希望が、その持ち主を、悩ませている。

苦しめ、惑わせている。


その望みさへ、持たなければ、

その人は、その悩みと無縁だったはずなのです。


もっと、お金があればいいのに。

もっと、優しくなれたらいいのに。

もっと、良い出会いがあればいいのに。


そう望みさへしなければ、その悩みはなかった。

願望がなければ、幸せだったのです。

願望が、不幸せを連れてくる・・・不思議なことですよね。


こう思う方もいらっしゃるでしょう。

「叶わないときは、悩みもする。

しかし、それが叶ったら、幸せになれるじゃないか!」


しかし、事実は、そうでもないのです。

ほとんどの場合、願望を実現したとき、

人は、幸せではないのです。


例えば、「結婚したい!」という願望を持っている人がいるとします。

その人が、この願望が実現できていないことで、悩んでいる場合、

「結婚」を実現すれば、幸せになれるでしょうか?


答えは、NOです。


願望が実現した、一時の達成感はあるでしょう。

しかし、必ず、その人は、しばらくすると、こう言うでしょう。

「私は、子供ができないから、不幸せだ」

その後は

「子供が、優秀でないから、不幸せだ」 and so on・・・


幸せとは、ひとつの、態度のことです。

内的な、態度設定のこと。


つまるところ、

・幸せな人は、どんな場所にいても幸せを感じ

・不幸せな人は、どんな場所にいても不幸せを感じる

ということです。


すなわち、幸せというのは、

~だから幸せ、~だから不幸せ・・・という形で

存在しているモノではないのです。


何か、条件を設定し、それを満たしたかどうかと、

幸せな感覚を内的に保ちながら生きるということは

無関係なのです。


自分の幸せを、「誰か」や「何か」、

環境や状況や条件に明け渡している限り

幸せは、手に出来ない。


内的な態度設計を変えるしかないのです。

自分の幸せを、条件のクリアの可否に置くことを辞めること。

何かの実現や、何かの条件の合致や、何かの出来事の結果

と置くのを、やめるのです。


方法論はさておき、

それ以外の形で人が幸せになるのは、

論理的に不可能だ・・ということです。


すなわち、幸せに向かう方法論は、

常識とは正反対のアプローチになります。

条件を、ただただ、捨て去っていく。


自分の人生に必要だと思っている条件を、

手放していくのです。


新たに自分の加えなければならないモノのリストを

捨てていくのです。


なぜなら、「必要なモノを、人は、常に、すでに持っている」からです。

ここは、とても重要なことです。

「持っていないモノを、人は、想像することも、欲望することもできない」

からです。


多くの物語・・・民話や伝承が語っているのは、

「宝物は、足元にあった」というお話です。


・今、必要なものは、もうすでに、持っている。


そこに気がついた時、僕らは知るのです。

自分の内部に、幸せが、いつだって存在していたことを。

それがいつだって、自分の内側で、自分を温めてくれていたことを。


僕らの人生は、ほとんど、このことを知るために、

存在しているような気がします。


不思議ですけれど、「足元の宝物」を見つけるためには、

遠くまで、宝物を探す旅をしなければならないのです。

ゆえに、時に人生は、遠回りをさせます。


でも、それで良いのです。

きっとそれ以外の方法で、見つけることができない、

宝物がある。


僕らにできることは、

自分を信じて進むことだけです。


すなわち、

やりたいこと、自分の考えのままに、やってみることだけなのです。

すると、自分のやりたいことを実現した時に、

それが、必ずしも、幸せにつながらないことに、気がつくでしょう。


思うがままに、自分の意思のままに、生きることです。

時に、空虚さが増していくことに、気がつくでしょう。


そこから始まります。

本当に自分が望むものがなんなのか。

本当に自分のやりたいことがなんなのか。

そして、幸せに生きるとは、なんのことなのか。

それを探す、ひとつ深いレベルへの旅が、スタートするのです。



(2014.12月)

ふと気がついたこと。


僕の生活から

いつの間にか、「お気に入り」 が、

なくなってしまった。


シンプルな、好きっていう感覚から

遠のいてしまった自分に気がつく。


赤いセーター。

ドロップのビーズがついている、

母のあの、赤いセーターが好きだった。


黒猫模様の、綺麗なハンカチ。


土産でもらった、ロシア帽。

タヌキの尻尾がついていた、真っ白でふわふわの帽子。


深みどり色の黒曜石。


ビートルズ。


初めて、自分で買ったTシャツ。

大きすぎるサイズを選んでしまって、

周りに笑われて、ちょっと傷ついた、あのオレンジ色のTシャツ。


ワラビーの靴。

先が尖っていて、不評だったあの靴。


ミレーの赤いバックパック。


いつまで、僕は、「お気に入り」を、

心に持っていたのだろう。


服も、靴も、本も・・・

僕の宝物たちは、どこにいってしまったのだろう。



いつからか、

「役に立つかどうか」と、「どう見られたいか・・・」に

支配されてしまったのかもしれない。


かっこいいもの、優れたもの、

芸術的なもの、汎用的なもの・・・ばかりが増えて

すぐに手放すことが多くなって・・・


ずいぶん、遠くへ、来てしまったのかもしれない。


僕は、もう一度、戻ろうと思う。

「好き」というシンプルな生き方へ。

お気に入りを、ただ、好きでいられた、あの頃の、自分に。

4月3日のこと。


大岡山駅前のマッサージを受けていたら、

突然見えたビジョンがあった。



夏の一日。

緑のトンネルを抜けて、駆けていく。

積乱雲と真っ青な空が広がって、

足は軽く、頬を抜ける風は涼しい。


僕は、息を切らして、

高鳴る鼓動の中にいた。



あの頃、毎日が冒険だった。

毎日が、まだ見ぬ世界との出会いだった。


毎日が、楽しくて、楽しくて。

早く起きなくてはもったいなかった。



いつの間にか、

そんな日々は、過去のものとなり、

そんな日々が、存在していたことすら

忘れてしまっていた。


僕は、いつ、忘れてしまったのだろう。

僕は、いつ、なくしてしまったのだろう。



思い出したことがある。

僕は、この世界に、遊びに、来たんだということ。


世界を、遊ぼう。

あの日のように、緑のトンネルを抜けて、

どこまでもどこまでも続く道を、走っていこう。


僕はまた、そんな生き方に戻っていく。

・・・きっと、少し時間はかかる。


あまりに長く、大人のフリをしてきてしまったから。

演じることに、慣れてしまったから。


でもね、きっとあの日の僕が

僕を導いてくれる。


僕の少し前を駆けていく

小さな男の子を追いかけていこう。

@ウブド


Ubudの中心通りに佇む

body works center。


僕は、ここに、帰ってきたかったのだ。


整えられた庭の植木も

池の金魚雨も九官鳥も

ちゃんとそこにある。


3階の教室に入ると

田園を渡る風が抜け

鶏の声が聞こえて来る


僕は、ここでヨガに出会った。

この場所で出会ったから

僕は、ヨガが好きなのだ。


吸って、吐いて。

呼吸を繰り返し、アーサナを深めていくと

鴇色の空が暮れていく。


何もかもが、完璧なのだと

改めて、僕は、教わって、

その深い満足と喜びに、

泣いてしまいそうになる。


身体を横たえ 

深い余韻の中で

僕は 遠く 残してきたモノたちのことを思った。




@バトゥール


共鳴すること。

人と人の出会い、人と世界の出会い。

この世界にあるのは、それだけだ。


人と人が出会う時、互いの周波数がチャネリングする。

必要なバイブレーションが響き合い、二人の関係性として表現される。


人と世界の出会いは、内的な起動として経験される。

その場所に行って、自分が何かを感じたのなら、

それは、その場所と自分が呼応しあって、何かが起動されたということだ。


聖なる場所とは、共鳴によって、

自分の中の聖なるものを呼び起こしてくれる場所のこと。


このバトゥール山、もそんな力を秘めた

場所にひとつのだろう。


そして、人が旅をするのは

見知らぬ土地で、自分の中の見知らぬ「わたし」を起動するため

なのかもしれない。


***


ヒーリングとは、共鳴である。

ヒーラーが治すのでなく、ヒーラーの持つバイブレーション、

癒しと自己愛と許容のバイブレーションが、

相手の中の癒しと愛と許容のバイブレーションを呼び覚ます。


同じ振動数に、相手を持っていくのだ。

すると、相手は、自分の中のヒーリングプロセス、

ヒーリングプログラムが起動することで、治癒が始まる。


***



@成田


世界を従えよ。

世界に従うのではなく。


世界を変えよ。

自分を変えるのではなく。


習うのでなく、習われるのだ。


あなたが、あなたであること、

そこに確信と信頼を持って、屹立するとき、

それは、おこる。


あなたが、あなたであることに

一切の迷いと、躊躇を捨てたときに、

それはおこる。


自分は、こう生きる。


それで良い。

それが未熟でも、足らなくても、間違っていても、

その日、その瞬間の自分は、そうなのだから。

それを貫けば良いのだ。


その時、きっと世界が

あなたを、必要とするだろう。


ありのままのあなたを、必要とするだろう。


***

バリの旅行において、最も大きな経験のことを、書こう。

僕は、バリ旅行を1日早く切り上げて帰ってきた。


なぜか。


帰ってきてほしいと、言われたからだ。

パートナーからSOSを受けたからだ。


正直なことを書こう。


そのオーダーを受けた時、

僕の中には、こんな声が響いていた。


「どうして、僕は、いつも自分の自由を謳歌しようとすると、

それを許さない出来事が、起こってしまうのだろう」


一昨年、そして去年、僕は、その人を支えることに

多くの時間とエネルギーとを、費やした。

時間に余裕があったため、僕はそれができたし、

セラピストである自負も、そうさせた。


それは、素晴らしい日々だったけれど、

同時に、僕は疲れ果て、人生の主の座を追われたように感じ、

方向性を見直さねばならないことを、理解した。


そして、自分の中にある、ある側面に気がついた。

それは、「自己犠牲」。


自分を犠牲にして、相手を支えるという構造、

自分を押し殺して、相手の期待(と自分が思ったモノ)に

応えるという構造は、必ず、破綻する。


自己犠牲とは、相手の人生を背負おうとする試みだ。

時に、それは、美しく響く。

しかしそれは、

相手を、自分の人生を自分で背負えない弱者であると

ジャッジしてしまうことに他ならない。


相手の変わっていく強さと、受け入れる力を、

信頼しないことに、他ならない。


だから、僕は、自分自身の犠牲にすることを、

「もうやめる」と、宣言した。


それは、時に、人を傷つけ、

また、自分が傷つくことを、選択するという、宣言だった。


それが去年の年末のこと。

僕にとって、それに気がつくことができたのは、

ものすごく大きな変化だった。


僕は、僕の人生を生きていて、

他のどんな関係の相手であっても、

その人は、その人の人生を生きている。


その人がどんな場所にいて、何を経験していても

それは、その人がその人の人生で選択した、

その人にとって必要な経験なのだ。


僕はそれを理解し、

「不必要な干渉をやめ、僕は、僕の人生を生きよう!」

と、思ったのだ。


さてさて、経緯が長くなったけれど、

だからこそ、僕は、落胆したのだ。

僕は、変化したのに、なぜ、現実は、変わらないのか?と。


その時の、僕の素直な心境メモを掲載しよう。



遠慮せずに、自分の人生を優先すると決めた矢先に、

それを許さない出来事があって、

もう自分を犠牲にしないと決めたのに

感情的に、傷つけられ、振り回されて。


僕の人生は、どこにいってしまうのだろう。


僕は、悲しみも、憂いもない、

困惑させ、混濁させるもののない世界へ

どうして、いけないのだろう。



僕は、バリの田園風景をバイクで走りながら、

ある種の失意の中にあった。

時に、相手を責め、そんなエゴイスティックな自分を責め、


ホテルに帰ると一人、自分と向き合った。


旅は、いつだって、学びを連れてくる。

今回は、これだな・・と思った。


僕は、自分の内部で

思考が、感情が、動き回るのを、ただ眺めた。


これが起きた原因や理由を探すのではなく

代わりに、失意と怒りと悲しみと、心配と不安と、恐怖を、味わい

思考が右往左往するのを、眺めた。

ただ、”それ”が満足するのを待った。

ベッドの上で、一人、待った。


すると、前触れなく、突如、強いエネルギーが

自分のハートから溢れてくるのを感じた。

何かものすごい温かなモノがこみ上げてきた。


エネルギーなので、言葉にしにくいけれど

敢えて言葉にするのなら、

それは、懸命に生き抜こうとしている魂への

惜しみない賛辞であり、

その存在そのものへの感動であった。


懸命に生き抜こうともがく魂の強さ。

そして、そのありのままの姿への、深い許容と敬意。


その時に、殴り書きした文章を乗せておこう。



「あなたが精一杯、あなたのやり方で、

必死で、生き抜こうとしていること。


懸命に、懸命に、そして不器用に。

時に、周りを傷つけてしまっても、

命がけで生きているその姿に、僕は最大の賛辞を送りたい。


本当に、本当に、あなたは、よくやっている。

あなたは、本当に、よくやっている。



熱いものは、涙になって、こぼれ落ち、

僕は、ひとり、咽び泣いた。


僕は、自分が、自分を生きるという一言の中で、

ずれてしまっていた自分に気がついた。


自分の大切な人が、急に倒れたとして、

その時に、「迷惑をかけないでほしい」

つまり、自分の自由と人生の邪魔をしないでほしい・・

そう感じたとしたら、それは、何かを掛け違えている。


それは、自由ではない。

その先に見えるのは、豊かさではない。

そこにあるのは、貧しさだと思った。


もちろん、このことに気がつくために、

僕は、この道を経由するしかなかったわけだけれど、


僕はずれていたんだと、実感した。


それを、考えた時に、出てきたのは、

内田樹氏が、著書『修行論』で書いていた、

「天下無敵」の話だった。


自分の眼の前にいる人を、

行く手を遮るもの、自分の道を拒むもの=「敵」とするなら、

僕らは、自分の前方から歩いてくる人すらも、敵とせざるを得ない。

天下無敵とは、敵を作らない技術である・・・と。


そう、僕は、無意識に、自分の眼の前の状況、

自分に与えられた出来事を、

「自分の可能性を毀損するもの=敵」だと、定義していた。


そうではないのだ。


それは、敵ではない。

その状況は、敵ではない。

この状況は、僕の人生を阻むものではないのだ。

それは、僕の人生を拓くものなのだ。


そんなことが、腹に落ちた。

(文章にすると長いけど、実際はコンマ一秒でね)


起きたことは、必ず、自分の人生を拓くキーなのだ。

僕が信じなくて、いや、確信していなくて、

僕はそれを、教えられない。


感情的に傷つき、失望し、天を仰いでもいい。

それでも、もう一度、前を向こう。


そして、人生が与えてくれたギフトを、手に入れよう。

それは、たとえ自分が望む形でなかったとしても、

今、人生が、宇宙が、僕に与えてくれる、

最大のギフトなのだから。


***


起きたことを、受け入れること。

ありのままを、受け入れること。

無条件の許容。

僕は、それが「愛」なのだと、思う。


それは、関係性のネーミングであると同時に、

あり方、態度についての、名称なのだ。


愛というのは、愛という状態にあることであり、

愛という態度で世界に、接するあり方のことなのだ。


この日、この瞬間、

僕は、少しだけ、ほんの少しだけ、愛がわかったのだと思った。

僕は、ほんの少し、進めたのかもしれないな、思った。


僕は、きっとまた、見失ってしまうだろうし、

すっかり忘れてしまうのかもしれない。


でも僕は、きっとまたここにたどり着けると、わかった。

この、愛と許しの地平に。


人生には、時々、その先を垣間見せてくれる瞬間がある。

この出来事も、きっとそうなのだろう。




人は、きっと、一人の人を愛することを通じて、

世界を愛することを学ぶのだ。

愛の存在になることを、学ぶのだ。


僕は、これまで愛した人たちを通じて

そのことを、学んできた。

出会いを通じ、暮らしを通じ、別れを通じて。


僕はいつだって

その時のパートナーと、懸命に、

このテーマをco-workしてきたのだ。


必ず、そのテーマに向き合うに相応しい人が、

そこにいた。

もちろん、それは男女関係にとどまる話ではない。

必要なことを、必要な人と、必要な期間やりきって、

きっと僕らは進んでいくのだ。


僕は、それを真っ直ぐやってきた自分と、

それを一緒に取り組んでくれたパートナーたちに

心から感謝をしたい。


いつだって、必要ことは起こる。

時に振り回されながら、時に傷つきながら、

それでも、僕らは歩いていく。


その中で、ひとつひとつ、一歩一歩、

僕らは、愛に近づいていくのだろう。


そしていつか、本当に、そんな生き方が

できるように、なるのだろう。


その日まで、また、等身大の日常を生きていこう。

失敗しながら、困ったり悩んだりしながらね!


ありがとうバリ。確かに、ギフトは受け取った!