校舎が突然兵舎になった出雲市・乙立国民学校 | PIECE of PEACE 島根教師の会

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 太平洋戦争中の各国民学校の記録が残っています。出雲市にある乙立国民学校の記録『乙立小学校百年史』にも、太平洋戦争末期の学校の様子が記録されていました。
 昭和20(1945)年5月6日、笈山に陣地構築のため、陸軍兵作業隊200名が来村し、国民学校に約1ケ月間宿泊し、仮兵舎になりました。
 そして、6月10日からは岡山の工兵隊10数名と徴用の石工10数名が、学校を宿舎にして作業を続けていました。
 また、昭和21年3月に国民学校初等科を卒業した今岡さんの手記「戦中教育の追想」によると、
・若い人は、軍人になることが最大の名誉であり、郷土の守りは小学生にも波及していたこと
・少年消防団が小学校に結成され、養蚕期になると小学校3年生以上は毎晩集まり、「上蔟改良火の用心」と拍子木を鳴らして地区内を回ったこと。
・校庭の全部が芋畑になり、学校上の空代に三反の芋畑を子どもの手で作ったこと
・昭和20年に高学年の子どもは、一週間西浜国民学校へ宿泊して塩作りを行ったこと
等が記されています。

 

 『島根の戦争遺跡』には、乙立地区の笈山陣地について、次のように解説されています。
「乙立の旧乙立小学校の北方、標高300mの頂上付近に陣地が作られている。芝生台陣地と峰は異なるが、やはり「今市町西南方高地帯」の一角にあたる。1945年5月6日に浜田連隊から200名ほどの田中隊が突然来て、乙立国民学校を宿舎に陣地構築作業を始めたという。彼らは銃器も作業用具も何も持たずに来て、村民から鍬、つるはし、スコップ、斧、のこぎりなどを借りて作業する状態だったという。」

 

【笈山陣地跡~『島根の戦争遺跡』より】