太平洋戦争中の各国民学校での勤労奉仕作業の記録が残っています。
 どの学校の記録にも記されているのが「桑の皮はぎ作業」でした。
 ほとんどの地域で5月後半から6月にかけての奉仕作業になっています。
 春カイコの給餌の世話が終わり蔟(まぶし)へ登るようになると、桑の葉は必要なくなります。

 その頃(5月下旬頃)から桑の枝を伐採し、皮をはいで乾燥させ8月下旬~9月に学校から供出したようです。
 
『神西誌』には、「昭和3年島根県蚕糸業統計要覧」の資料から「昭和3年繭産額番付」が掲載されています。
 それを見ると、いかに出雲部での養蚕業が盛んであったかが分かります。

 繭生産量上位地区のベスト10を並べてみると次のようになります。


 1.簸川郡荒木村61,351貫(230t)
 2.簸川郡 園村56,139貫(210t)

 3.八束郡二子村46,294貫(174t)
 4.八束郡波入村36,842貫(138t)
 5.隠岐郡海士村33,480貫(126t)
 
6.簸川郡高松村29,904貫(112t)
 7.八束郡片江村29,328貫(110t)
 
8.簸川郡遥堪村26,590貫(100t)
 9.簸川郡塩冶村25,879貫(97t)
10.簸川郡神西村25,396貫(95t)


 上位10地区のうち6地区が当時の簸川郡内の地区で、この6地区で産出される繭量は、島根県全体の13.5%にあたるほどでした。
 しかし、
戦争が激化するにつれて、桑園は食糧生産に、製糸工場は軍需工場に転換され、蚕糸業は壊滅的な状態に追い込まれていきます。

  【子ども達による桑の皮はぎ作業の様子】

【カイコに繭を作らせる蔟(まぶし)】