PIECE of PEACE 島根教師の会

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私たちのふるさとに残る戦争を伝えよう
平和学習の今とこれからについて情報発信しているブログです

【出雲市立長浜小学校区内の戦時中の状況】
 

〔荒茅小学校〔現・出雲市立長浜小学校〕の太平洋戦争時の様子〕
 出典書籍資料の32-33ページには、当時の荒茅国民学校について次のような記録が記載されています。
昭和16年12月26日
 校庭前の桑畑〔一反七畝:0.14ha〕を曽田吉三氏より借受け「国民学校実習園」とする。
昭和18年5月
 園村妙見畑〔一反四畝〕を大国啓太郎氏より借受け開墾し、決戦農場とする。
昭和20年4月
 校庭前庭、東庭を通路を残し、他は全部畑にする。
昭和20年8月
 村と合同で外園海岸において製塩作業を開始する。
昭和20年8月1日~23日
 県立今市高等女学校〔広島陸軍被服支廠今市学校工場〕の工場として、後館3教室を提供する。
 その期間中、国民学校を疎開させ、地区内で分教室を開設する。
 初等科1年生…下組公会堂
 初等科2年生…上組高円寺
 初等科3年生…荒茅宝納屋
 終戦に伴い、8月27日に分教室を本校に復帰させる。

 各学校で取り組まれていた食糧増産作業の場(決戦農場)として、校区内の空地・無耕作地を学校が借受け、児童生徒によって開墾。サツマイモや麦、大豆等が栽培された記録が残されています。
 また、昭和20年7月28日の空襲被害により、広島陸軍被服支廠の今市高等女学校縫製工場が、荒茅・江南・国富の3ケ所に分工場を設置した記録が記載されています。そのため、分散授業が下学年では実施された記録も残されています。

 初等科4年生以上の記録はありませんので、学校や地域で授業ではなく作業や訓練を続けていたと考えられます。


〔出典情報〕
本文:『長浜学校誌 小学校完全統合五周年記念』長浜学校誌編集委員会 1970年3月刊

写真:『想い出と飛躍』出雲市制施行50周年記念写真出版 1992.3月刊

【太平洋戦争末期製塩作業が行われていた外園海岸】

外園海岸の製塩作業と沈没船

【製塩作業にあたった児童の宿舎になった外園国民学校】

戦時中の荒茅国民学校の校舎と周辺の様子