「松根油こそは,神風である」の挙国体制で始まった松根掘り作業 | PIECE of PEACE 島根教師の会

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 太平洋戦争中の各国民学校に残る勤労作業記録として、「桑の皮はぎ」を紹介しましたが、それと同じく「松根掘り・松脂集め」もしばしば目にする作業内容です。
 昭和20(1945)年1月27日付の島根新聞には次のような記事が掲載されています。
 「B29を落とすために松の根を掘ろう。山林島根の名にかけて」
 松根油採取は、昭和17(1942)年から戦力増強運動の一つとして、供出量が各県に割り当てられました。昭和18年からは国有林や保安林も開放されました。
 昭和19年11月、政府は「松根油の緊急増産計画」を決定しています。この年12月から翌年3月までの農閑期における島根県への供出割当は、477万貫(約17,900t)、松根油にして1,020klでした。この割当量は前年の7倍にもなり、全国で2番目に多い割当量でした。ちなみに、全国第一位は広島県でした。
 各市町村ごとに森林組合を中心に「松根油勤労報国隊」が結成され、成人女性・中学生・国民学校高学年児童らが吹雪の山へ入って作業に当たりました。1月末には目標の80%を掘り出したと記録されています。
 松根から油を取り出す乾溜工場は、各市町村に最低1ケ所は設置され、既存の乾溜工場を含め、500基設置されたと言われています。
 フル操業に入ったのは昭和20年2月でした。短時間では乾溜できないため、掘り出された大量の松の根はそのままの状態で終戦を迎えたようです。
 詳細は、『新聞に見る山陰の世相 百年』山陰中央新報社S58.3刊をご覧ください。

【写真 乾溜缶 岐阜県郡上市明宝気良の「明宝歴史民俗資料館」保管】