《前回からの続き》
引き続き、(“LE MONDE diplomatique ”(「ル・モンド ディプロマティーク」)日本語・電子版の記事〈日本経済の「意外」な回復 〉からの引用。
――少数の日本企業が、米国流を模倣しようとしたのは事実である。しかしながら、その代表格であるソニーの最近の業績は、キヤノンやトヨタのような旧来の企業に遅れをとっている。株価重視モデルが優勢とは言えない状況だ。同様に、堀江氏が不正経理によって2006年1月に逮捕されたことは、彼こそ日本の再起に必要な大胆不敵な起業家だと言っていた人々に打撃を与えた。この事件は、彼を擁護してきた有力者の一人だった小泉首相の評判にも影を落とした。――
つまり、この現象に見る限り、日本経済「回復」の要因が亜米利加流ものまねにあったのではないということ、旧来の日本型経営をいくぶんなりと固守している企業こそが持ちこたえているという指摘であろう。
現在の日本は、1990年代の日本とは違い、経済に関する規制が緩和され、開放が進んではいる。しかし、日本はまだ亜米利加ではない。というのは、産業界にせよ、官界にせよ、日本の主要な経済機構はほとんど変わっていない、と記事は記す。
そして、(米国流への)変化に消極的なのは、何も企業のトップや官僚中枢のような支配階層だけではないというのだ。
――平均的な日本人は、リスクと不平等をひたすら拡大する改革にうんざりしている。この国は、社会的な結束を誇りとしてきた。日本社会の結束は、戦後まもない頃の何十年かに比べれば弱まってはいるが、所得格差を比較すれば分かるように、アングロサクソン社会に比べれば今でも強い。――
それはそうであろう。先祖累代の土地に2000年も住み続け共同生活を営んできたゲマインシャフト(共同社会)型の日本と、たかだか、少し前の世紀に船で異郷の大陸に乗り付け、先住民から土地を詐取・略奪してにわか人工国家をこしらえた、ゲゼルシャフト(利益社会)型の亜米利加では、歴史も伝統も、社会の構造も、文化の成り立ちもあまりにも大きく隔たる。国民の意識や志向も根本から違っていて当然である。
では、日本経済が曲がりなりにも「回復」の基調を見せているその要因は? それが亜米利加型への制度変革でないとするなら、何によるものなのか。
その1つは、怪しむに足らないことであるが、今や最大の貿易相手国となった中国との交易。その他にも、記事はいくつかの諸要因を取り上げる。日本企業がアジア全域で行なった投資がインド始め各地での取引を活発化していること、消費者の信頼が回復されたこと、投資家が楽観論に立つようになれたことによる好循環が回復したこと、などである。
それらから推測しうることは、適切なマクロ経済政策の効果が近年過小評価され、企業組織や産業構造のようにミクロな制度レベルの手直しで根本の解決を図ろうという方向に迷い込んでいたということ。これが記事の指摘するところである。
――米国経済が空前の高成長を遂げた1990年代、この専門家たちはグローバリゼーションが先進国の経済に突き付けた問題に対して、米国流の資本主義こそが最良の解決策であるという不幸な結論を導き出した。しかし、もはや日本、欧州、米国といった特殊なモデルを王道として奉るような段階は過去のものだと考えてもよいのではないだろうか。現在の世界経済において、世界の国々は繁栄へ向けてそれぞれ異なる道を選ぶことができるのだし、実際に選んでもいるのだから。――
実に明快にして、当を得た結論である。
(以下、続く)

