『日本人はなぜナメられるのか』という書名だから、日本人が「ナメられてはいない」という認識に立つ人は読む必要がない本であろう。また、「ナメられている」と自覚しつつも、それでよしと諦観し、あるいはそれを受容している人にとっても無用の本である。しかし、確かにナメられている、しかも、ナメられているのはいけないと思う自分にとっては、関心の深い設問である。同時に、このような本が書かれるモチーフも、まさにナメられている、ナメられるのはよくないというところに根ざすものと推察できる。
「ナメられる」という事象は、ナメる側(主体)とナメられる側(客体)の双方があって初めて成り立つ。そこで、客体の側から主体の側に向って「ナメるのをやめろ」と態度の変更を求めてみても、それはおそらく限りなく徒労に近いことだろう。恫喝してもムダに違いない。さりとて、実力を行使してその目的を達しようとするならば、もはや戦争しかあるまい。そして、その争いに敗れれば、またぞろ、ますますナメられる。さらには、「ナメないでください」と哀願するのも無効である。
されば、客体の側が自己啓発・自己変容により、ナメられない、あるいは、ナメられにくい資質を得る、ナメられ難い条件を整え、“抗ナメ”環境を作り上げる、なすべきことはこれに尽きよう。
著者は臨床社会学出身の日本人論研究者であるというが、本書はおそらくその成果を踏まえての日本人のナメられやすさ考察であろう。そして、著者が加えるナメられやすさの要因分析の結果は、おおむね次のように要約できようか。
●日本人はだまされやすい ⇒ 個人間のレベルにおいても、だまされやすい者が他者からナメられやすいのは理の当然である。
●日本人はダブル・スタンダード(「ホンネとタテマエ」)の使い分けがあまりに無自覚である ⇒ 対して、日本人をナメる主体の側(以下「主体側」)はダブル・スタンダード(「原則と例外」)の使い分けを実に意識的、意図的、戦術的に行なう。となれば、主体側からつけ込む余地は大きい。
●だまされやすいにとどまらず、だまされたがり ⇒ 自分の判断を留保して多勢に従いだまされているほうが、後の結果に対して直接責任を取らされることを回避できるから。このだましてくれといわんばかりの態度は、主体側の思う壺。
●日本人はおだてに弱い ⇒ 劣等感(とりわけ白人に対する)に起因する。白人の書く本で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと持ち上げられるとたちまち有頂天になる。同時に、自分より劣勢のものに対しては優位を誇示したがる。そんな情緒は、まぎれもなくスキをつくる。
●日本人は無能な指導者が好き ⇒ 主体側はそのようなものを代表に立てれば、自国の国益や民族の将来に大きな損失と危険を招くことをシビアに考える。
●日本人はだます‐だまされるの力学が弱い ⇒ 指導者自身も知らずにだまされていることが往々にしてある。つまり、誰がだましているのかもあいまいな風土の中にいる。これに対し、主体側にあっては、だます-だまされるの間に強度の緊張関係があり、これまた自覚的である。
●日本人は妄想にとらわれやすい ⇒ 主体側はリアリストであるので判断も客観的で行動も現実的。
●日本人はすぐに「水に流す」 ⇒ 主体側は恨みを容易に忘れることなく、あくまで執念深い。
●日本人は有史以来「平和ボケ」 ⇒ それは多分に地勢的、歴史的に規定されるところ。一方、主体側は百戦錬磨のツワモノぞろい。
などなど、一読する限り、まあ、こんなところであろうか。かなり的確ではなかろうかと思う。
ところで、日本(客体)をナメている主体であるが、先ずは米国、そしてユダヤ、欧州諸国、それにロシヤ、中国を加えてもよいかな。大方そんなところではなかろうかと、自分は思っている。こうしたところが、とりわけ日本ナメの主要メンバーであろう。著者の見方も、ある程度これに重なる模様である。
興味深い考察はさらに続くのだが、長くなるので今日はこのへんで擱筆する。
- 中山 治
- 日本人はなぜナメられるのか