小生がかつて、不用意にも「文化水準」という言の葉を口にしたとき、「じゃあ、君は、インターネットで意思を伝達している社会とのろしで伝達している社会と、どっちが“文化水準”が高いというのか?」と碩学から反問され、困惑した。


数多の大芸術家を輩出した西欧のとある老大国、第二次世界大戦下、ヒットラー率いるナチス・ドイツに侵攻されるや、狼狽してナンタラ美術館所蔵の名画の数々を列車で大挙して疎開させるという挙に打って出たそうな。


“人間様”にも先んじて、“文化”を安全圏に退避させるこの大英断を揶揄していたのは、昨年没後50年を迎えた、無頼派作家・坂口安吾であった。


文化の日、文化映画、文化住宅、文化包丁、文化活動、文化村…、「文化」を冠した単語は十指にあまれど、いずれもまた意味するところは判然としない。そういえば、お隣の大国には、かつて「文化大革命」があり、わが国の大法、日本国憲法の条文にも「健康で文化的な最低限度の生活」(第二十五条)との文言が見られる。


全国の諸自治体がまた、「文化条例」制定だの、「文化都市宣言」などに一時期意気盛んであった。


亡くなった経済学者の飯田経夫氏だと思った。「文化」のシノニム(synonym:類語)として、たしか「生き様」という語を何かの著書で用いていた。この「生き様」、いささか品位と優美さにかける言葉で好きになれないのだが、この語で言い換えると、「文化」の語意が鮮明になる。なかなか当を得た言葉である。


日本の文化→日本の生き様、モンゴルの文化→モンゴルの生き様、大阪の文化→大阪の生き様、鎌倉時代の文化→鎌倉時代の生き様…。


なるほど、これならよくわかる。同時に、前出の言葉にこの置換を試行すると、その滑稽さや、論理矛盾も浮かび出す。


生き様の日、生き様映画、生き様住宅、生き様包丁、生き様活動、生き様村…、果ては「生き様条例」から「生き様都市宣言」なんて。


ン? 今日は、“生き様の日”か。


いきおい、「文化」とつければ、その言葉は限りなく無限定で、無内容となる。そして、価値判断から自由になる。ゆえに、批判の対象でなくなる。役所や学校や企業が好んで使いたがるのもむべなるかな。


畢竟、「文化」とは、そこに人間が生きていること。そして、その営みから生ずるものの総体、そして、その様相を呼ぶ言葉であろう。


とまあ、かくなる次第で、今はもう秋。大いに「文化」を語りたいところだが、それは、とりもなおさず、人間がそこに生きていることの意味という遠大なテーマに逢着する。到底、小生の“文化水準”をもってなし得る業ではない。


連日、全国各地でイジメによる学童や生徒の自殺が報じられ、そのたび、周章狼狽した校長先生たちの滑稽な姿が映像に映し出される。これが今やマスコミの最大の演目になっている。


そして、そして…、そんな校長先生たちの姿勢を、同工異曲に「保身」と言って論難している。なるほど、映像に見る限り、本当に「保身」だね。答えることも二転三転、全く一貫性もなく、遁辞に終始している。自分にも、確かにそう見える。


しからば、「保身」とは何か。大辞林によれば、「自分の身体や地位・身分などを守ること」とある。冷静に考えれば、これはことさら怪しむに足らぬ、人間界に普遍の行動様式なのではないのか。これをしなければ、自らの後の人生を不遇なものとし、自らを頼る家族をも悲惨な境遇に陥れる懼れが多分にある。そのとき、誰が助けてくれよう。家族を守るのは、世帯主の義務でもあろう。未成年の扶養家族などいるなら、なおのことだ。ならば、そういう予想される数々の弊害を未然に防ぐための、「保身」こそは危機管理政策なのである。


処世家の鑑である政治屋などは、頭のてっぺんから爪先まで「保身」だらけだろう。会社の課長さんも、部長さんも「保身」する。無論、社長さんも。国家公務員も、「保身」する。この世に人間ある限り、「保身」あり。ところで、ちょっとエラそうにそれを非難するマスコミさんの業界には、「保身」はないんかの?


さればと、校長先生も晴れて「保身」。単なる、普通の人間、普通の大人というだけの話ではないか。しかし、反論も聞こえそうだ。ことは教育の場、教育者たるもの生徒の幸福を至上に据えて取り組まねばならぬ。それが、絶対的な使命だろうと。


ならば、国会議員たるもの、責任を負うべき国民主権者に対する使命を徹頭徹尾貫いているか? ジャーナリストたるもの、視聴者・読者に対して至誠にもとることなかりしか? 報道の使命に全身全霊を傾けているか? この問いに面映さを感じられなければ、それで良い。


しかし、それでなければ、「教育者たるもの」だけにことさら、特別な責任・使命、格別のモラル、たぐい稀な生き方を求めるということだ。その権利は誰にあって、何に由来し、根拠付けられるのだろうか。


その昔、「聖職者」などという、おどろおどろしい言葉があった。またぞろ、聖職者復活待望なのかな。


だが、常人にはとてもできない苦行僧、求道者のような厳格な生き方、高潔な精神をひとり校長先生に求めるとしたなら、校長先生は普通の人とはかけ離れた「特別な人」ということだ。そんな「特別な人」なら、それなりに、社会ももちろん、政治屋やマスコミ業者、経営者などよりはるかに厚遇して迎え、相応の崇敬の念を払う、そして、それに見合う権威と権限を認めるつもりなのだろうね。それでなければ、辻褄が合わない。


平素の「校長ごとき」に、そんなものすごいミッションを担わせるのは酷というものだ。人権侵害にもなりかねない。


外野から野次を飛ばすのは簡単だが、それには、本来、絶えずこんな厳しい反問がつきまとうはずのものである。


マスコミの諸君、頼みますよ。これだけ他人のことを論い、その領分を侵食し、つるし上げ、商売ネタにしたならば、後々のケアまでよろしく願います。イジメなど、そうそうたやすくこの世から消えるものではない。君たちの仕事はまだまだ続く。イジメ根絶まで、忍耐強く、粘り強く、誠実に、この問題を追い続けてくれたまえ。もう十分稼がせてもらったし、もうこのイジメネタじゃ客が呼べなくなったからなどといって、早晩撤退してしまうようなことを、ゆめゆめなさらんように切望する。


して、この問題に取り組む社会全体にそれくらいのまじめさがなければ、イジメ問題など永久に解決しない。なぜなら、これは人間の本性に基づく、根源的な大問題だからだ。



テレビだけではない。新聞も雑誌も読ませない。インターネットも即刻禁止。繁華街も立ち入り禁止。子どもの眼には、一切触れさせるな。


「美しい国」も結構、「教育再生」も結構である。しかし、その実を挙げるためには、以上を決行するくらいの英断にたった政策をもって臨まなければ、とても無理だ。目標など到底達成できはすまい。


大体、この高度な情報化社会、子どもたちにはすべて筒抜けなのだ。大人たちのやっていること、社会の現実が。それで、何が「美しい国」だろう。


テレビはもちろんダメだが、とりわけ、ニュースや国会中継などもってのほかだ。美しさとはほど遠い男がまた醜悪きわまる集団の頭目となって、「美しい国」なんて叫んでいる。タテマエ上社会の指導的地位にある国会議員どもが路上で人妻とキスしたり、年金をちょろまかしたうえ国会でふてぶてしい居直りをしたり、賄賂を受け取るなど、ルール破りを率先してやっている。それで、務まっている。そんなものが、すべて見えてしまう。


経営者だって、インチキなのばかりが儲かっている。まじめに汗をたらして働くものは、ますます冷遇されている。先生はすぐに児童買春するし、女子高生のパンツを盗撮したりしている。


これで、教科書なんかいくら弄り回したってムダであろう。子どもたちには、バレバレなのだ。大体、子どもにとって教科書なんていう学用品がなんぼの影響力を持っていると思っているのか。教科書で“善導”しようなんて、何も知らん奴の考えることだろう。


現代は、「仰げば尊し」「三尺下がって師の影踏まず」の時代ではない。そんな虚構はきれいに滅び去ったのだ。また、虚構を復活させなければ、教育なんて再生しないだろう。それには、子どもから、現実を知らせる一切の情報を遮断しなければ無理だ。



パンパンもどきのことをする女子高生が後を絶たない。

このように考えると、全く、情けない社会になった。


破廉恥教員が連日マスコミの餌食になり、世を騒がしている。堕落のきわみだ。


昔なら考えられない、小泉や安倍のような無教養で無能で不見識なのが、一国の総理になってしまう。世も末だ。


少し前までは、こんな風に悲観的なもの見方しかできなかった、狭い視野しか持ち得なかった自分自身にこのころはいささか慙愧の念を抱いている。物事には功罪両面がある。コインの表と裏の関係だ。ひとたび視点を180度転換するだけで、全く違った世界が目の前に開ける。


女子高生がパンパンをしているのではない。パンパンも高等学校に進学する時代になったのだ。これなら喜ばしいことではあるまいか。教育の機会均等という理念からしても望ましい社会の精華であり、教育の淵源はまさにここにある。彼女らにも、学ぶ権利があるはずだ。


落ちこぼれのダメ人間も捨てたものではない。社会の一員として相応の敬意を持って受け入れられ、しかも、教職などという重要な職務を立派にこなしているのだ。


頭が悪くても、経済のケの字、財政のザの字も知らなくとも、国際法のコの字も知らなかろうと、政策などにはまったく暗く無知蒙昧であっても、品がなくても、本人のちょっとした勇気と厚顔さえあれば、一国の首相の座まで見事に上り詰めることができる。社会の模範になれるのだ。彼らは全国民の希望の灯であり、ヒーローである。支持率が高いのもむべなるかな。


このようなプラス思考に転じたとたん、たちまち世界が輝いて見える。何と機会に恵まれた社会だろう。この国は。ジャパニーズドリームの横溢する社会ではないか。何を悲嘆にくれていたのだ。


そして、「美しい国」。自らの美醜を一顧だにすることなく、面映さも覚えず「美」という言葉を堂々と胸を張って叫べる国。この日本は敗戦の屈辱から六十有余年にして、ついに、自由と平等の大地として燦然と世界に輝ける国となった。そして、このような現実肯定のおおどかな精神と、磊落な感性を持てる人々によってこそ、「美しい国」はとわに栄えていくのだろう。



■なぜ、拉致問題か


北朝鮮のことが報道されぬ日はない。そして、機会あるごとに、北朝鮮による拉致被害者の問題がクローズアップされる。この関連ニュースは、年間を通じて多くテレビや新聞に取り上げられる事項の一つである。


それは、なぜか。被害者の親戚でもなく、知人でもない大多数の国民にそれをマスコミも何百回と伝え、政府もそれなりに力を注ぐのはなぜか(もっとも、本当に政府がこの問題にまじめに力を注いでいるというのも疑わしいというような情報も出回ってはいるようだが、それはここでは措く)。


これへの解答は人それぞれだろうが、少なくとも自分の答えはこれ一つである。それが、理不尽な災難であるからだ。つまり、被害者には落ち度もなく、自分の意思に反する他からの実力行使により、言われなき苦痛と被害を受けている。そのような境遇にある国民の救済に政府が力を注ぐのは当然の責務である。えらいことでもなんでもない。あの機関の仕事だ。そして、そのようなこともマスコミが大きく取り上げ、当事者でない国民にまでも訴えることも正当である。


そして、理不尽でない、または、当人にも相当の責任と落ち度があり遭遇した災難、例えば、台風の警告が出ているにもかかわらずそれを無視して強引にヨットで航海に出て海難事故にあった例などでは、国民の同情のレベルが大幅に落ちるのも当然だし、その救済への行政の熱意が減じてもこれは仕方がないということは言えそうだ。


そこまでは、そのとおりである。だが、理不尽な苦痛や災難に遭っている国民、落ち度もないのに被害をこうむっている国民は、拉致被害者だけではないのも事実である。例えば、何の落ち度もなくまともに街路を歩いていて通り魔に襲われ命を落とした人、薬害のため普通の生活が送れない体となってしまった人、企業や自治体の怠慢、不正に起因する事故で命を落としたり体に障害を持つに至った人……、数え上げればきりがない。


そう言えば、オウムの犯罪(サリン散布)により命を落としたり、生涯癒えない障害を負った人がたくさんいることなども、すぐに思い出されるところだ。


こうした理不尽な境遇にある国民(あるいはその家族・遺族)を万難を排して救済すべく政府は力を注がなければならないことは、論を待たないところだろう。それを、この国の政府は十分やっているか? 


あまり、片方だけ熱心にやって、他方がおざなりであったりすると、どうも、目的や意図が他にあるのではないのか? などとの疑念、揣摩臆測がついつい生じてしまうのも致し方ないところである。政府は、これらすべてにまじめでなければならない。全国民に責任を負っているのだから。


国民個人個人にとっては、それぞれ問題に軽重がある。置かれた境遇や立場、住む地域、あるいは体験によってさまざまに異なる。拉致被害者の家族やその友人、あるいは近隣に住む人であれば拉致問題が一番の大事であって不思議はない。また、薬害で半身不随になった人にとっては薬害問題が、公害で重い病を得た人にとっては公害問題が、殺人事件の被害にあった人の遺族にとっては国内の凶悪犯罪が、医療過誤で命を落とした人の遺族にとっては医療事故こそが、それぞれ最も深刻な問題であっておかしくない。しかし、政府はすべてに責任があるのである。


■こういうこともあるのだが…


あるいは、早くも大方の記憶から遠のいてしまったかもしれないが、今年の年明け早々(三が日の最終日、1月3日)、神奈川県横須賀市内で、凄惨な殺人事件があった。早朝、出勤途上の女性が何の落ち度もなく突如襲ってきた暴漢に惨殺されたのである。


バス会社勤務であることから正月にも業務が休みとなることはなく、日本中が休息するこの日に勤勉にも通勤の途につき遭遇した理不尽な災難である。しかも、いかな日の短い冬季とはいえ、夜もすっかり明けた6時のこと、現場は何の変哲もなく、平素はサラリーマンが通勤路に使う街路である。


犯人は、米軍の水兵であった。突如声をかけられ因縁をつけられ、金品を奪われそうになったため女性が抵抗すると路上に殴り倒したうえ、執拗にも近くの雑居ビルに引きずり込み、コンクリートの壁に投げつけ転倒させ、さらには、顔や腹部をさんざんに踏みつけ、蹴りつけ、殴りつけるというあきれ果てた凶行に及んだ。ベンチプレス170kgという巨漢の賊が小柄な日本人女性を蹴り続ける戦慄の光景は近くに設置された防犯カメラが一部始終を捉えており、後の公判では検察側の証拠として上映される。


その残忍な暴行の果て、肋骨数本を折られ、ついには内臓破裂のため女性は収容先の病院で息を引き取った。この女性に、何の落ち度があったろう。


そのときの総理大臣は、小泉純一郎。因みに言えば、犯行現場は小泉の選挙区内である。この赦し難き凶行、理不尽きわまる日本国民の遭難の報を受けた後も、日本政府が、とりわけ最高責任者の小泉が真剣に事後策を講じたり、誠意ある対応を遺族に示したという形跡もない。少なくとも、こちらには何も伝わってこなかった。また、マスコミにとってもあまり客を呼べないネタであったのか、大した報道もしていない。そして、こんな重大な不祥事を起こした後も、横須賀市内では米軍籍の賊らによる犯罪は続発しているのである。


その後、横浜地裁で6月に下された判決は無期懲役であった。こいつを死刑にできなかったのは、痛恨の極みである。

ほどなく、遺族らはこの賊(元米兵ウィリアム・リース服役囚)と日本政府に損害賠償を求める訴えを起こす方針と伝聞した。


日米地位協定に基づく民事特別法は、在日米軍の構成員による公務上の不法行為であれば、日本政府が損害賠償責任を負うと規定している。この賊の犯行は公務時間外のことではあったが、「事件前、連日のように(賊が)飲酒していたにもかかわらず米軍は規制しなかった」ことを遺族側が指摘した。「事件の発生が予測可能ならば米軍は防止措置を取る民事特別法の義務を負う」とした最高裁判例を基に、米軍の監督責任を問うため、日本政府を被告としたということらしい。


誠に、そのとおり。賊のみならず、日本政府の責任を徹底して追及して欲しい。自分も、ささやかながらできる範囲で応援したい気持ちさえある。つくづく、小泉という壊れた男は徹頭徹尾米国の忠犬であり、いっかな日本国民の味方ではなかった。


しかし、思えば、横須賀より大規模な要員の侵略軍基地に県土を占領される沖縄の人々の苦痛や不安はいかばかりなものだろう。そしてまた、そうした在日米軍の基地から出撃する殺人兵器が、自分は何の恨みも持たない他国の人々を殺戮していく。まったく、基地の近くで育った私には、これこそが一大事なのである。




■胎児に聞いたか?


「代理出産」がかまびすしく論じられている。いよいよこの国でも事例が増えつつあり、いっそう現実の問題となったからであろう。推進派はやたらと意気軒昂で勇ましいのだが、あまり元気いっぱいに話されると、よけいに複雑な、そして、鬱蒼とした気持ちにたちまちさせられてしまう。


それは、どのような立場をとろうと、どのような意見をまくし立てようと、畢竟、現存している人間のエゴの域を出ないからだろう。肝心の生まれてくる新たな人間の意思も、意見も、かけらほども反映されていないからだ。反映されないのではなく、聞くことができない。反映するすべもないところがこの問題のまさに本質であり、最大の憂鬱なのである。


芥川龍之介の『河童』を思い出してしまった。上高地で道に迷い河童の国にさまよいこんだ経験を相手かまわず吹聴する癖のある人物が主人公だ。


この人物の“体験談”が次第に読者をワンダーランドに誘い込む。彼は、あまりにも人間の社会に似た、それでいてあまりにも人間社会とは逆さまな、河童の社会で翻弄されまくる。


ある時、河童の国の医者(河童にも医者がいるらしい)と産児制限の話をしていた。そこで、人間社会の産児制限に言及すると、たちまち河童の医者に嘲笑されてしまう。


――「しかし両親のつごうばかり考えているのはおかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね。」


そのあと、河童のお産に立ち会う羽目になる。そこで見た光景は珍奇なものだった。

……現に僕はしばらくたってから、バッグ(主人公が知り合いになった河童の名前=引用者注)の細君のお産をするところをバッグの小屋へ見物にゆきました。河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バッグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してこう言いました。それからテエブルの上にあった消毒用の水薬でうがいをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしているとみえ、こう小声に返事をしました。
 「僕は生まれたくはありません。……その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」

 バッグはこの返事を聞いた時、てれたように頭をかいていました。が、そこにい合わせた産婆はたちまち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほっとしたように太い息をもらしました。同時にまた今まで大きかった腹は水素瓦斯(すいそガス)を抜いた風船のようにへたへたと縮んでしまいました。――


大正時代に書かれた古い作品だが、実に現代を照射しており、気味が悪くなる。「河童」を「人間」と読み替えるだけで、現代社会に対する痛烈な問いになる思いだ。



■あきらめのない世界


生命の誕生ということについて、かつては人為が関与できる領域が著しく狭かった。そして、無理なものは無理とあきらめるしかなかった。つまり、天命を甘受してきたのである。しかし、人間という欲深な種は、何でも欲しくなる。ことごとく不可能を可能にし、無理を無理でなくし、自然の壁(あるいは、大宇宙の意思)を技術によって打ち破ってきた。いきおい、選択肢は増える。そのたびごとに、「パンドラの箱」が開かれていく。選択肢のいくつかは、また新たに人類に苦悩や災厄をもたらすことに通じるのである。


延命治療なども、その類かもしれない。かつては手を尽くしても助からなければ、それが天命と受け入れざるを得なかった。しかし、今、それが技術的にかなりの程度克服され、とにかく相当期間、生かしておくことだけはできるようになった。すると、その不自然な生がもたらすものは果たして幸福なのかどうか、誰にとっての治療なのか。際限なく、生命倫理に関する新たな課題、難問も人類に突きつけずにはおかなくなる。


例えば、自分の肉親に延命治療を受けさせるかどうか、その選択もかなり残酷なものだろう。そして、いつ延命装置を切るか、これも過酷である。


天命を軽んじる時代、諦観を忘れた時代が、果たして人類に幸福を増大させているのか、陰うつな問いが次から次へとめぐってきてしまう。


■“マスコミ裁き”のお通り


九州の中学で起きた、イジメが誘因と見られる一生徒の自殺という事案(以下「イジメ自殺」と略)をめぐって、マスコミが猛然と群がる。自殺した生徒の家庭を、校長やイジメの原因を作ったとされる教員(以下「当該教員」と略)など学校関係者が訪問し事情説明や謝罪を行なう場面が幾たびも繰り返しテレビ放映された。さすが、プロである。このような演出、ショーアップには年季が入っており、実にうまい。


遺族が激昂する、激越な言葉をこれら関係者に投げかけるのは、ごく当然の感情だろう。異常でもなんでもない。しかし、それを当事者でもないテレビ屋が映像にして全国に垂れ流し関係者をさらし者にしている仕業そのものは異常、まさに私刑(リンチ)である。


この状況の下では言い返す言葉がないのも当然で、校長も当該教員も、遺族の詰問にただ頭うなだれ、しおらしくしている。そして、この場面では、学校側、とりわけ当該教員は“悪い奴”と認定されている。それをもって、“悪い奴”を懲らしめることは“社会正義”だといわんばかりの大義名分がマスコミの手に首尾よく入った。すると、絶えず獲物を求めて猛禽類のように渉猟しているマスコミがにわかに勇み立ち、群がって来襲してくるのは常のこと。


ガギどものイジメが古今不易であるのと同様、また、小・中学校の教員にイカレタのが少なからずいるのとも同様、目新しい光景でもなんでもない。ただ、マスコミ屋、とりわけテレビ屋による、職分の領域を逸脱した暴挙は、ますます増長しているように見える。


情報をきちんと集め、視聴者に正確に知らせ判断に供するという報道の役割を乗り越え、私設審判官や私設刑の執行人にたちまち自ら就任してしまう。冷静に考えれば、この逸脱のほうが恐ろしい。


現在知れるところから推し測れば、この校長や当該教員が大いに問題のある人間であること、責任を追及しなければいけない対象であることはほぼ間違いなさそうだ。しかし、まだ、刑事被告人でもなければ、いわんや囚人でもない。市民権も停止されていない人間である。それを、捜査機関でもなく、刑の執行機関でもない、ただ、野次馬を生業としている営利企業のテレビ屋がなんらの正当な権限を付与されることもなく、ただ、それが赦されがちで、むしろ喝采を浴びるような場の雰囲気を借りて、なんでもありでやってしまう。そんなことを逐一黙過していることが、それこそ恐ろしい社会状況に思える。


どこかの野蛮国の開拓時代みたいに、人民裁判、つるし上げが無原則に際限なく放置される社会、そこにはより恐ろしいイジメ社会が到来することを危惧するものである。そして、当該教員をさらし者にしているマスコミの映像にも、これはこれで一つの立派なイジメのサンプルを見る思いである(余分なことを言えば、政権党や権力者を追及するときは、ずいぶん控えめでおとなしいように見えるのだが)。


もっとこの問題は、きちんとした場、機関を設けて徹底的に、構造的に、継続的に、根気よく原因を解明し、対策を講ずるべきだ。日常的、永続的な取り組みこそが求められる。イジメが惹起する自殺のような社会問題を本当にまじめに解消したいと願うなら、当然そうなるはずだ。マスコミなどは、しばらくして飽きれば、これで客が呼べなくなれば、たちまち他のところへ行ってしまうものなのだから。こんな私刑(リンチ)が、問題の抜本的な解決に結びつくものではない。


一朝一夕で解決するようなものなら、イジメなどとうに地上からなくなっている。人類あるところイジメあり。これは、最も根源的、普遍的な問題なのだ。



■当該教員に関する仮説


それにしても、マスコミの餌食にされている当該教員の答え方がいかにも稚拙である。何の理念も、信念も、指導方針もなく、ただ気分で漫然と職場にいたということを告白しているようなものだ。もう50歳に手が届く年、しかも、管理職だろう?


自殺した少年の遺影の前で、遺族の厳しい糾問にさらされている。(うちの子供をいじめたのは)「嫌いだからか!?」。すると、首うなだれて力ない声で、「からかいやすかったと言えば、そうかも知れないと思います~」というような答だった。もう少し、何かないものか。

すると、果たせるかな、「からかいやすいから、からかう!? それじゃ、ガキと同じだ。あんたは」と、お父さんから一喝される。それは、そうだろう。もう少し、言葉はないものか。


例えば、「いや、教え子に対して、嫌いだとか、憎いという感情は決してありません。教育的効果を考えて、本人の奮起を促すため行なってきた指導のつもりなのですが、それが全く逆の効果を生んでしまって、本当に教育者としての自分の未熟、判断の甘さを恥じざるを得ません。そして、それがこんな思わぬ悲惨な結果を招く誘因になってしまったとするなら、誠に申し訳ない気持ちでいっぱいです」くらいのことは思いつかないのだろうか。なぜ、自分の動機の不純さ、職務上の責任感のなさを、いきなり全面的に吐露するような回答になったのだろう。


そこでまた、いくつかの仮説が成り立つ(あくまで、仮説である)。


◎当該教員は、突然の予期せぬ結果に気が動転し、しかも、遺族の激しい憎悪感を前に、萎縮して思考が停止した。

◎当該教員は、自己の判断としてはこれがベストの回答だと思った。

◎当該教員は、(国語科の教員であるにもかかわらず)表現力に乏しい。

◎当該教員は、もともと判断する能力の水準が低い。

◎当該教員は、正直者である。


これも、容易に検証ができない問題である。


■見慣れた風景から


九州のほうで、また、中学生の自殺があったと報じられている。インターネットの新聞記事で見る限り、イジメを苦にしてのものらしい。教員がまた、そのイジメに一役買っていたとの記述も見られる。


しかし、自分の記憶をたどると、こうしたことは私の小・中学時代からよく見られた風景なのだ。いや、自殺がではなく、イジメまでの話だが。


大体、ガキなんてものは古今東西すこぶるタチが悪いのが常だろう。弱い者を見ればいじめたくなる。ちょっと毛並みが変わっている者がいると仲間はずれにしたくなる。身体上の弱点を持っていたり、貧しい家庭環境にあったりする者はからかって面白がる。今日的現象でもなんでもない。


“蛙の子は蛙”。人間の子どもが、そうそう立派なはずもない。昔の子どもはもっと天真爛漫で、心根がよかったなどといっている人がいるとすれば、よほど記憶力の弱い人か、特殊な事例のみに接していた人だろう。自分には、そうとしか思えない。


それと、教員。今回、これもこのイジメに参与しているらしい。生徒をイチゴやジャムになぞらえて等級をつけたり、「人権無視の暴言」を繰り返していたように記事では見られる。しかし、これとて

決して斬新でない。



■人類の歴史と伝統・イジメ


そういえば、少し話は脇にそれるが、最近、秋田のほうで幼児殺しか何かの嫌疑で逮捕された女の容疑者がいた。これは、20年くらい前の高校生だろうが、その高校卒業時の記念寄せ書きである。その中で、同女に対して同級生たちの激烈な悪罵がつづられていたことをマスコミは報じた。


「会ったら殺す」だの、もう故郷に帰ってくるなだの、(いずれ同女は)自殺・詐欺・強盗…殺人で有名になるだろうというようなものまで、唖然とする内容のものばかりである。


私の記憶もこの点はあいまいだが、たしか、マスコミは高校在学中から同容疑者が周囲に嫌われ危険人物視されるキャラクターであるという主張を補強しようとしてこの事実を報じていたような印象がある。しかし、私などは、それ以前にこの同級生たち、そしてまた、こんな寄せ書きを平然と卒業アルバムに掲載していた学校のほうがより異常であると思えてくる(当の容疑者よりも)。


教員たちは、何をしていた。


人間など本性のままに任せておいたらとんでもないことになるから、それを禁圧し、偽善の力の行使により感化し矯正するのが学校という滑稽な建物の唯一の社会的使命だろうが。


すべての番組をつぶさに見たわけでないから断言は避けるが、その視点であまりマスコミは論評していなかったような印象がある。容疑者悪しのストーリーをひたすら構成するに、目的に沿わないから捨象されたものか?


むしろ、この点では、私はこの容疑者に同情さえする。一番多感な年齢の頃、しかも、卒業・就職が決まった“門出”の時期にこんな言葉を投げつけられる環境に育ち、そうそう健やかな精神がはぐくまれるわけもなかろう。人間社会でのイジメなど持ち回りの営みだが、不遇にも、その標的にされてしまったその非運に同情するのである。やはり、犯罪者を生み育むのも人間社会か。まさに、悪の連鎖である。そして、イジメは、実に普遍的現象であり、根強い伝統なのだ。



■そこで残る疑問


話は戻るが、ことほどさように、クソガキなどいつの時代も残忍で、非情で、陰湿なものなのだ。私はこの容疑者よりもっと前の世代だが、イジメは日常茶飯事として周囲にあったし、それを助長している教員もいた。学業不振の生徒をバカにしたあだ名などつけて授業中もそれを連呼し、普及に努めていたような奴もいた。いきおい、同級生は教員に倣って、その生徒をそのあだ名で呼んで侮辱するのが日課となった。


他にも例は枚挙にいとまがない。今回の案件でも教員が一役買っているようだが、教員にロクでもないのが多いことも、昔からのこと。今日的な現象ではない。


ただ、ここで思いつくのは、当時は(少なくとも私の周辺に)自殺者がいなかったことだ。この論議には、精緻なデータの裏づけが必要となる。いずれの機会にか、調べてみたいとは思う。一体、イジメは昔からありながら、少なくともそれとの因果関係が認められる自殺というのは、実際、増えているのか。それとも、かつてはマスコミがネタにしなかったために目立たなかっただけなのか。


もしも、本当にそれが増えているとするならば、いくつかの仮説が成り立つ。

◎昔の子どもは押しなべて忍耐力が強靭だったが、今の子どもは脆弱になった。

◎昔は、(イジメ被害者を)救済する社会的機能が何らかの形で働いていた。

◎昔は、理不尽なことや社会の不当な扱いをも弱者はひたすら受忍するという社会的心理ないしは暗黙の規範があったが、今はそれが喪失している。    

◎文化の変容の中で、今は子どもの「生に対する執着心」が希薄化しつつある。


これは実に難問で、容易に検証ができるものではなかろう。

■世にも不思議な好景気


景気回復だ、景気回復だと、最近マスコミが報ずる。どこの国の話かと思ったら、どうやら他ならぬこの日本のことらしい。それにしては、自分の周りに景気のいい顔をしたのが1人もおらず、皆一様に「大変だ」「ますます生活が苦しくなった」と、不況をかこつものばかり。地元の飲み屋街など、閑古鳥が鳴いている。日本といっても、おそらく飛行機か新幹線に乗って行くくらいの遠いところの出来事だろう。(ここは首都圏だが、そんな好景気に見舞われたところがどこかにあるなら移り住みたい)。


ウソの多いマスコミのこととは思っても、この話には一応確かな裏づけがある。内閣府が発表する景気動向指数を見れば、実際、景気は好転している。対前期比で57ヶ月も拡張し続け、戦後最大の好景気と言われた「いざなぎ景気」すら抜き去ろうという勢いではないか。


しかし、それでいて、生活保護世帯は104万世帯を超え、1992年度以来増え続ける一方(厚生労働省「社会福祉行政業務報告」より)。実に、何とも、不思議な、不思議な好景気だ。


そう言えば、トリッキーな芸風で鳴らした先代の総理芸人が、自分のお陰で経済は持ち直したとでも言いたげな言葉を残して退場していった。あの変わった男が生み出した〝好景気〟なら、やはり、一風変わった好景気であっても怪しむに足らないのかもしれない。



■民を救わぬ「経済」


景気がかくも回復途上にあるとされる時期にほぼ相当する2001年から04年の間に、労働分配率は低下しているということを知らしむるデータもある。労働分配率とは、ごく大雑把に言ってしまえば、企業の儲けに占める労働者への分け前であろうが、今、景気が上向いたといわれる中、それが減っているのだ。


この議論は実は複雑な要因が絡む。景気動向指数の読み方にしろ、労働分配率の数値の意味にしろ、一言ですんなり結論を言えるような代物ではないのだが、やはり、働く者、広く国民各層がこの“好景気”を享受していないという事実を示唆するには足りよう。


「経済」という言葉、近年ではしばしば悪い意味で使われる。「経済至上主義に反対!」「経済優先の開発を見直そう」などと。経済にとっては、受難の時代だ。しかし、本来、「経済」とは「経世済民」の謂いで、まさに「世を経(お)さめ、民を済(すく)う」ことであったはず。“Economics”に「経済学」の訳語を当てたのも、そんな価値と理想を追求する志の表われであったことだろう(中には、「理財学」なんて訳語を考えた人間もいたようだが)。


「経済」が民と対立する時代、それは、実におかしな、そして、民にとって不幸な時代だ。そのおかしさと不幸は、おかしな男に託した〝壊れた5年〟の間に、ますます増幅した。その壊れ具合がいっそう大きく発現するのは、いよいよこれからだろう。


(一旦、おしまい。この項、いつかに続くかも知れず)






■わからないことだらけ


北朝鮮が、核実験をやったらしいですね。テレビも盛んに報じています。世界が、というのはあまりに漠然とした言い方で、米国、中国、韓国などの諸国が非難の声を上げたようです。


核の問題をめぐっては、不思議なことがありすぎます。まず、非難するほうの“資格”ですが、なぜ、亜米利加が非難できるのでしょう。亜米利加が一番たくさん持っていますね。しかも、実際に人の頭の上に落としたのはこの国だけです。亜米利加はいくら持ってもいいが、他の国は金輪際持ってはならない、この理屈がどうしても理解できずに困っています。学校でも習った記憶がありません。


例えば、北朝鮮や、イランのような国に持たせると危ないから? それは、そうでしょう。しかし、では、現にもう人の頭の上に落とした実績がある国が持っていて、なぜ、危なくないのでしょうね。ますます不思議です。


テレビに、亜米利加人タレントが出て、やはり、勇み立つような面持ちで非難の言葉を投げかけていました。ハァ~~? という気になります。亜米利加は核兵器投下という大罪を過去に犯した唯一の国です。「核」の話、「核」の「カ」の字でも出たときは赤面してうつむいてしまうものと思いきや、なかなか意気盛んにまくしたてます。


もっとも、核兵器使用について、あの国は一度も反省の意を表明したことはなかったですね。ということは、よいことをしたと思っているのでしょう。“よいこと”なら、またいつやるかもしれませんね。


■1つだけわかったこと


核の問題は、ことほど左様にわからないことだらけですが、1つだけわかりそうなことがあります。それは、弱い国、小さな国、発展途上国が核を持ちたがる動機です。思い起こせば、やたらとよその国に因縁をつけて、いきなり爆弾やミサイルをぶち込む、亜米利加という危ないならず者でさえ、核武装をした国には攻め込んだ実例がないのです。ならば、後発の国が核を持ちたくなる動機は想像に難くありませんね。


わかりはじめると、少しずつですが、霧の中に閉ざされたような難問への解答の糸口も見えてくる思いです。亜米利加が、なぜ、核の拡散をあれほどまでに嫌うのか。それは、皆が持ってしまうと、もう戦争ができなくなってしまう。おそらく、これだ。それ以外には、考えられない。あんな戦争好きの国が、「世界平和を願って」なんてことは、万に一つもあり得るとは思えませんから。


核を持つ国が増えることに、日本人が嫌な感情を持つことはよくわかります。何分にも、世界唯一の被爆国ですから。しかし、一旦そこから離れると、今のように一部の国だけが核兵器を保有している状態と、すべての国が核武装してしまう状態。果たして、このどちらが戦争を根絶するより確かな方法なのか。これはこれで、思弁の対象となることでしょう。


亜米利加のような国がある限り、とても国際社会の“善意”などというものに期待ができないことは明らかなことです。



■とても心配です


日・米・中・韓、足並みをそろえて仮に非難声明をしたとしても、その腹の内はさまざまです。一枚岩でなど、まずあり得ない。「同床異夢」でしょう。亜米利加なんていう腹黒いならず者国家のいうことなどを額面どおりに受け止めるほどおめでたいことはないし、中国だって、煮ても焼いても食えないしたたかな国です。単純なのは、日本だけ?


それぞれの思惑で、それぞれ、無論、自国の利益のために(もちろん、他国が日本のことなど案じてくれるはずもない)、国際社会で老獪な互いの腹のうちの読み合い、熾烈な駆け引きがこれを契機に展開していくでしょう。その中に、安倍みたいな細胞の数が少なそうなのが出てって、だいじょうぶなんですか? 


それだけが、心配です。