【荒野の少年イサム】
自分はいつからジョン万次郎に興味を持ったのだろうか。
1970年初頭。
自分はまだ小学校の低学年。
当時、マカロニウェスタンと呼ばれた西部劇が流行りだった。
クリント・イーストウッド、ジュリアーノ・ジェンマ、チャールズ・ブロンソン、ジェームス・コバーンなど。
一時代を担った西部劇俳優らがウェスタン映画で大活躍していた。
ジョン・ウェインの駅馬車からアラン・ラッドのシェーン、カンバーック、ダジャレで有名なOK牧場の決闘、などから引き継がれた次世代西部劇ブームが巻き起こった頃だ。
日本でも、大の大人がモデルガンを腰に下げて、早打ちガンマンごっこをする社会現象も起きたくらいだ。
そんな中、少年漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」が頭角を現し始めた。
当時、緻密な絵で、劇画からお笑い系までこなす人気の漫画家に「川崎のぼる」がいた。
「巨人の星」「いなかっぺ大将」の作者といえばわかりやすいだろう。
その「川崎のぼる」が「原作:山川惣治」とタッグを組んで挑んだ西部劇漫画。
「荒野の少年イサム」の連載が週刊少年ジャンプで始まった。
連載開始から大人気となり、何度もジャンプの表紙を飾った。
広島原爆をテーマにした「はだしのゲン」の作品もこの時代にジャンプ掲載が開始された。
ギャグ漫画では「トイレット博士」が大人気だ。
原爆と西部劇とトイレが読める週刊漫画雑誌って…。
小学生低学年の自分も少年イサムの活躍を応援した。
イサムにあこがれて西部劇の虜になった。
なけなしのお小遣いを使って、怪しい通販カタログからガンベルトやウェスタン銃、保安官バッジを買ったものだ。
この頃の通販カタログには必ずブルワーカーという健康器具販売の告知漫画が載っていた。
「私は貧弱な体だった…ブルワーカーを買った…すごいわね…いまでは誰もが羨ましがるからだに…」
あれはいったいなんだったのか?
この荒野の少年イサムの冒頭に、舞台となった歴史背景が語られている。
そこに「ジョン万次郎」の名前も紹介されていたのだ。
荒野の少年イサムは12巻で完結。
1974年前後の時代に少年ジャンプでの連載は終了。
我が家には奇跡的に1冊だけ、11巻が残っていた。
しかも初版版だ。
荒野の少年イサムはデジタル漫画サービスサイトを探せば、有料でクリーンな絵で読むことができる。
今読んでもとてもおもしろいので、大変おすすめの漫画だ!
思えば、この少年イサムとイサムの父親の運命は、どことなくジョン万次郎のアメリカ苦労体験をフラッシュバックさせる。
そして自分の父親もまた、ジョン万次郎にリスペクトしていた一人だったのだ。
昭和一桁生まれの父親。
少年期は鬼畜米英を撃滅せよと教育されて育った。
米軍のB29爆撃機が東京を空襲。
焼夷弾の落ちる音を聞きながら東京の街を走り、生き残った一人だ。
そんな父は1950年代にサンフランシスコ大学に留学している。
当時はまだプロペラ機で約5日間以上かけて太平洋を渡ったそうだ。
米国に到着した頃にはプロペラエンジン音のせいで、しばらく耳なりがひどかったらしい。
戦後10年も経たない当時のこと。
よくぞ、そんな時代にアメリカ留学に行かせてもらえたものだ。
当時の米国に、サンフランシスコに留学する日本人はほとんどいなかったらしい。
2年半の留学中に出会った日系人は5人未満だったそうだ。
そういう環境だから、現在の留学環境とは異なり、英語力はイヤでも身についたそうだ。
そんな渡米で苦労した父が、ジョン万次郎をリスペクトするのもうなづける。
米軍は鬼畜だ、と教育されて育った父が、その米国人にとても良くしてもらったのだ。
日本が米も尽きて、畑の細い芋を食いつないでいた頃。
アメリカの一般家庭にはすでに電子レンジも冷蔵庫も普及していたことを知った父。
本土決戦で上陸してくる米軍に立ち向かうため、町内会で竹槍訓練をしていた頃。
アメリカ人はオーブンでクッキーを焼いて、冷蔵庫からキンキンに冷えたオレンジジュースを飲んでいたのだ。
父いわく、そんなアメリカに竹槍で勝てるわきゃあない!
そんな歴史のギャップも肌で感じながら、中身の濃い留学・青春時代を過ごしたのだ。
そして仕事も貿易商の会社に勤務、得意の英語力を駆使してよく渡米出張していた。
そんな父が、ジョン万次郎にリスペクトしたのは当然だろう。
読書好きでもあったそんな父が持っていたジョン万次郎の本。
当時モノの書籍を、ジョン万次郎資料館で見つけることができた。
【万次郎オフィシャル書籍】
中浜明 著「中浜万次郎の生涯」
これが自分が最初に見知った、出会った、ジョン万次郎である。
漫画しか読まない自分だが、なぜか、父に勧められて読んだ記憶がある。
アメリカに渡ってからはジョンマンジロウはジョンマンの愛称で呼ばれたのだ、と父から概要などを聞いた。
おそらく荒野の少年イサムとリンクするものがあったのかもしれない。
イサムと同じ時代に、本当に日本人がアメリカに渡っていたのか。
そうでもなければ、小学生低学年の自分が分厚い文字だけの書籍は読まなかっただろう。
中浜明さんは、中浜家の家系図からすると万次郎の孫にあたる方ではないかと推測される。
いずれにしても、この書籍が自分が出会った最初の本格的なジョン万次郎だったのだ。
この時期、小学四年生に進級、満10歳のとき。
私の通う私立の小学校のクラスに一人の転校生がやってきた。
彼は親の仕事で幼稚園卒業後、3年間渡米していたそうだ。
小学四年生になると英会話を教える授業が増えた。
日本語がほとんど話せないアメリカ人の女性英語教師が担当。
助手も通訳も付けずに、当時としては珍しい授業体制だ。
そんな状況で、先生が授業で話すネイティブ英語など、だれもわかるはずがない。
当然、授業はまったく進まない。
ちょっとなに言ってんだかわかんないを連発しながら、ふざけたり騒ぎ出す輩も増えてくる。
外人の女教師も何度も大きなため息を吐く。
西洋人特有の大げさなお手上げねポーズのジェスチャー連発だ。
ちょっとどころか、ぜんぜんなにいってんだかわからない…のだ。
先生のイライラ感がピークに達したときだった。
突如、その英語教師にペラペラと語りかけるクラスメイトがいるではないか。
そう、転校生はネイティブイングリッシュを余裕で話せたのだ。
自分にとって、この瞬間は衝撃的だった。
万次郎が見せたネイティブ英会話も、多くの日本人にこんなインパクトを与えたのではないか?
突如、先生との英会話がクラス中に響き渡る。
未来からやってきた同級生が異星人とファーストコンタクトに成功しているかのような強烈なインパクトだ。
ミニ万次郎到来か?!
転校生の独壇場だ。
先生はもはや、転校生しか相手にしていない。
いや、転校生に頼るしか無いのだ。
そして転校生の彼は先生の通訳をすることになる。
まるで万次郎が日本政府の通訳をしているのと同じではないか。
そう、これはまさに自分たちは鎖国当時の外国人に免疫のなかった日本人と同じ心境なのだ。
彼の通訳によって授業はスムースに流れ始めたのだ。
それからというもの、そのアメリカ人女教師はいつも上機嫌だ。
教室に入ってくるときも鼻歌まじりだ。
なんせ、対等に話せる小さな通訳者がいるのだからうちのクラスの時間だけは楽ちんだ。
当時クラス内ではその転校生に対する評価は賛否両論だった。
転校生のくせに生意気だ。
得意に英語なんか話しやがって。
あいつが余計なことしなければ、授業はサボれて楽ちんだったのに。
やっかみからか、いじわるするやつも少なくなかった。
しかし自分の彼に対する評価は高かった。
好感度と尊敬する目で彼を見るようになった。
とても興味がわき、積極的に転校生と仲良くなった。
お互いの家に遊びに行く同士の仲良しにもなった。
そんなこともあったからだろうか。
分厚い、父の書物「中浜万次郎の生涯」を読破できたのは…。
しかし、西部劇ブームも去り、スーパーカーブームが到来。
少年ジャンプも「サーキットの狼」が大人気だ。
小学生での後半3年間、とても仲良しになった転校生。
今の自分だったなら、リトル・マンジロウ、またはリトマンなどとあだ名で呼んだだろうか。
その仲良し転校生とは中学生受験のため、お互いの進路が変わり別れてしまう。
中学生になり、新しい環境に置かれた自分は、徐々にジョン万次郎を忘れていってしまった…。
還暦が近づくにつれて、なにかをやり残している気持ちが強くなった。
年をとると、なぜか歴史や歴史上で活躍する偉人らをあらためて勉強したくなる。
そして気がつくと、近代史をよく調べるようになっていた。
中濱博 著「中濱万次郎」アメリカを初めて伝えた日本人。
これを新たに読んで、再びジョン万次郎熱が再燃したのだ。
この書籍は直系子孫でもある著者ならではの、執念と努力により「ジョン万次郎の集大成」辞書と言っても過言ではない。
他にも複数の関連書籍を読破した。
「中濱万次郎 アメリカを初めて伝えた日本人」。
高知県訪問を決めたきっかけはこの書籍のおかげだ。
今回の聖地巡礼のバイブルと言っても過言ではない。
米国・フェアヘイヴンには行く機会があるだろうか。
今のところは未定だ。
趣味のスキューバダイビングを兼ねて、沖縄の万次郎帰国・上陸の地はいずれ行こうと思う。
沖縄の万次郎上陸記念の銅像は見たいと思う。
そこがかつての「マンビコシン」なる地だったのだろうか…。
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