[4]Respect to John Mung/ジョン万次郎をもっと知りたくて | スタジオハーミットサテライトBLOG

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【ジョン万次郎資料館へ】

 

土佐清水の「足摺港公園」に「ジョン万次郎資料館」がある。

 

ジョン万次郎のすべてがここにある。

 

大人440円(JAF会員証提示で350円)でジョンマンの全てを知ることができる貴重な資料館だ。

 

年中無休・AM8:30〜営業。

 

ようこそ〜のポスターの万次郎少年像は資料館隣の公園にある。

 

入ってすぐに館内のフロアマップがある。

受付も入ってすぐにある。

有料エリアも必ず観よう!

 

有料エリア内ではジョンマンのことを模型、ジオラマ、貴重な資料などで出漁・漂流の少年期からストーリー仕立てで紹介している。

館内は写真撮影が自由。

ファンには大変ありがたい!

ごくごく一部を紹介する。

 

出漁、漂流編

 

恐怖の鳥島編

 

ジョン・ハウランド号

 

アドベンチャラー号

 

後藤象二郎

 

漂巽紀畧など貴重な古書

 

{ココがスゴイ!}

パノラマ撮影した万次郎の世界航海誌。

この航海図には万次郎が経験したイラストも描かれている。

レイロー、つまり蒸気機関車。

捕鯨船でのクジラ漁。

カリフォルニアのゴールドラッシュ。

 

1800年前半に日本人として世界二週、七つの海を渡った冒険はだてじゃあない!

[ジョン万次郎2回の世界航路]

 

タイトル文字の背景にある家紋らしきものが。

調べたら、ジョン万次郎の家紋だった!

 

 

【ジョン万次郎少年像へ】

 

資料館と駐車場を隔てて隣接して「足摺港公園」がある。

 

公園といっても、なにもない。

しかしココには有名な「ジョン万次郎少年像」がある。

 

この像だけのために公園にしているかのようで贅沢このうえない。

 

この少年像はジョン万ファンには有名かつ貴重なオブジェだ。

なにが貴重かというと、万次郎が遭難・漂流したときの仲間が全員勢揃いしているのだ。

 

この像の背景の奇岩は鳥島。

ジョン・ハウランド号に救出されるシーンを描いている。

一番若く元気な万次郎が必死に船に向かって助けを呼びに行くシーンなのだ。

「ウォリャーーー! ここだ、ここだぁー! 助けてくれぇーーー!」

シャツを脱いでSOSの旗代わりに振ろうと、まさに脱ぎかけのポーズだ!

生命力に満ち溢れた、躍動感のある万次郎だ。

出漁時はおそらく坊主頭だった髪型。

143日間の過酷なサバイバルで伸びた髪型として正確に描写されている!

 

対して他の4名は悲惨な状況を物語っている。

「ヒィー、置いてかないでくりぃー、た、助けてくりぃー」

「お、おい、船が気づかずに行っちまうぞ、あわわわ」

「うぉーい、ここにけが人がいるんだぞぉー」

「あ、足が…動かね…もうムリ…」

[ジョン万次郎少年と4人の漂流者]

 

ジョン・マンの生涯紹介

 

ジョン万クイズ検定ではないが、ファンであれば漁に出た漂流した仲間を全員知っているだろう。

漁は万次郎含めて5人。

仲間全員のプロファイルが掲載されている碑も珍しい。

石碑に掘られた文字なので陽焼けしてしまうこともない!

 

ここに記載の万次郎の「万」の字の漢字は「萬」だ。

万次郎は「炊係」。

一番下っ端の、雑用、食事係だ。

しかし漂流となれば、これは重要なポジションなのだ!

その後、万次郎は世界の捕鯨船でスチュワードという、当時の船員としては高い地位に上り詰める。

すでに天から与えられていた運命のためなのかもしれない…。

 

万次郎だけがホイットフィールド船長についアメリカホームステイ&マサチューセッツ留学を果たした。

ということで、他の四名はハワイ・ホノルルにホームステイだ。

楽園ハワイと言っても、帰国ができないホームステイなのだ。

ここで生きるしか無いと覚悟するまでは辛かっただろう。

しかし鳥島サバイバルと比べたら、ここはもう、トロピカルアイランド。

慣れたら、それこそ楽しかったのではないだろうか。

 

万次郎を見込んでアメリカを見せてくれたホイットフィールド船長に感謝だ!

同時に、保護者役の筆之丞が万次郎のアメリカ行きを快諾してくれたことにも感謝だ。

 

「やめとけ、やめとけ、メリケンなんてろくなもんじゃねえ、おめえには無理だよ」

などと反対していたら…。

 

いや、もしかしたらすぐにハワイが気に入って、万次郎の保護者感覚が消えていたのかもしれない。

「ん? いいよ、いいよ、いっといで…わりい、これからポリネシアンショー観るんで、この話は終わりな」

みたいな…。

 

そしてドラえもんみたいな名前の「寅右衛門」はハワイで嫁さんをゲット、そのまま永住したのだ。

毎日早朝サーフィンして、パイナップルやココナツジュースやコナ100%コーヒーを飲んだりして幸せな結婚生活にハマってしまったのだろうか。

寅右衛門は、もしかしたら、ハワイ日系人第一号だったのかもしれない。

「重助」は残念ながら早くにハワイで病死。

鳥島漂着・上陸時に足を骨折、それが後々まで後遺症となったとも言われている。

もっとハワイでエンジョイ生活をしたかっただろうに。

 

5人全員が漂流開始より、過酷な試練の連続だったのだ。

生存自体が奇跡の状況だったのだ。

しかしその試練を乗り越えた先に4人には楽園ハワイが。

万次郎には世界一周、捕鯨ツアーとマサチューセッツ留学という華々しい道が開けたのだ。

万次郎以外の4人のプライバシーに多くは触れないことにしておこうと思う。

 

 

【ジョン万次郎のアメリカ留学】

 

万次郎と一緒に凱旋帰国に成功した2名。

とくに筆之丞改め、伝蔵には、やはり感謝の意を評したい。

しかもこの2名もハワイで10年もの滞在経験がある。

彼らは英語はもちろん、ハワイ語(ポリネシア語など)も話せたのではないだろうか。

だとすると、この2名は日本語含めて3か国語のバイリンガル帰国子女(男だが)だ。

10年も滞在していたなら、おそらく日系人として、サーフィンも楽しんでいただろう。

毎日アロハシャツを着こなしてワイキキビーチ通りを散歩したのだろうか。

元祖サーファーだったかも…。

 

ところで「筆之丞」が「伝蔵」に名前を変えた理由。

「筆之丞」は外国人にが発音しにくかったのが理由だとか。

しかしなぜ「伝蔵」なのか?

 

フデノジョー、デイノジョー、デイジョー、デンジョー、デンゾー、

だったのではないだろうか…。

五右衛門は元々、言いやすい名前だったのだろう。

ゴー、エイモォーン…ゴー、カモォーンみたいで言いやすそうだし。

 

もしも万次郎にジョンが付かなかったら万次郎も、

マンジロー、マンジョー、マンゾー、

「万蔵」になっていたかもしれない。

万蔵はちょっといやかも…。

 

こうして万次郎はホイットフィールド船長に見込まれてハワイを後にしたのだ。

漂流から2年後、万次郎はジョン・ハウランド号で捕鯨をしながらアメリカ東海岸に戻ってきたのだ。

一度、ニューヨークの北にあるボストン着。

その後ボストンより少し南下、ニュー・ベッドフォードに帰港。

 

宇佐の浦を出漁してから2年後。

万次郎は初めてアメリカに立ったのだ。

場所は東海岸、ニューヨークのすぐ近くだ。

ググル先生の世界地図にも掲載されている。

[フェアヘイブン周辺 Google Map]

 

万次郎、満16歳。

現代なら高校一年生だ。

重い病気も重大なケガもせずにアメリカ留学生活をスタート。

観るもの、聴くもの、食べるもの、すべてが未知の体験だっただろう。

四国の田舎の漁師生活をしていた万次郎にとって、別の宇宙人の高度な文明の惑星に連れてこられた状況に等しかっただろう。

当時のアメリカでは、まだ州によっては人種差別がひどく、状況によっては万次郎も奴隷となって売られていた可能性もある。

 

幸運なことに、ホイットフィールド船長の故郷のフェアヘイヴンは率先して人種差別反対をすすめていたエリアだった。

「クジラで世界に灯りを!」をモットーに進歩的で経済的にも潤った街だったのだ。

それに加えて、ホイットフィールド船長の人格がとてもよかったのだ。

これはもう、万次郎にとって最良の縁としかいいようがない。

そんな最高の環境で留学生活を開始させてもらった万次郎だが、単に甘んじていたわけではない。

自ら進んで勉強をした努力の人でもあったのだ。

高校生の頃、常に努力を嫌い、中間試験や期末試験前に、徹夜で暗記してその場をしのいだ自分とはえらいちがいだ。

万次郎は日本語の文字よりも先にアルファベット、そして進んだ英語圏で世界最先端の教育を吸収してしまったのだ。

 

持ち前の好奇心、鳥島で生き延びた不屈の闘志、それらを武器に鎖国時代の日本人を追い越し、高度な国際人に成長していったのだ。

そんな留学生活でホームシックになるどころか、捕鯨船で世界の海でクジラ漁をする興味はつのる一方だ。

ホイットフィールド家から正しい教育を受けながら元気に育った万次郎。

渡米後、ホイットフィールド船長が通う教会に万次郎を連れて行ったときの逸話がある。

 

教会の牧師や通う人たちに、万次郎は白人と同席ではなく、別の人種専用席に離して座らせよ、と差別されたそうだ。

ホイットフィールド船長は、ただちに通う教会を変えてしまった。

そして差別をしない教会を見つけると、自分も万次郎と一緒にその教会に通ったのだ。

自分は白人と同等ではないんだ、平等に生きてはいけないんだ…という卑屈な差別感情。

そんな思いをせずに、正しく深い愛情を注がれて思春期を育った万次郎。

これだけでも「カンヌ映画祭に出品」できそうな映画が作れそうな逸話だ!

 

しかしながら、万次郎の留学時代のエピソードの記録はほとんどない。

小説物語としてはいくつかあるのだが、それらは想像物語だ。

思春期のハイスクールである。

英会話には不自由しない。

 

金色の髪の毛のお嬢さんと恋をしてラブレターを書いた、とか。

ラブレターの返事が来て喜んだが、断られて失恋した、とか。

失恋した日は食欲もなく夕ご飯は食べれず部屋で泣いていた、とか。

そうしたら船長の奥さんがオリジナルクッキーを焼いてくれた、とか。

万次郎のお誕生日パーティに好きな女の子を招待した、とか。

でも、一緒に来た他のクラスメートとカップルになってしまった、とか。

ニュー・ベッドフォードの堤防で釣りをした、とか。

釣った魚をその場で捌いて刺し身にして食べたら、周囲にいた船員たちに褒められた、とか。

その船員たちに誘われてバーに連れて行かれてウィスキーを呑まされて二日酔いになった、とか。

ませた同級生が教会で結婚式を挙げたので参列した、とか。

結婚式に参列するので生まれて初めて蝶ネクタイした、とか。

すべて当時の日本では考えられない、想像できないハイスクールの青春時代があったのではないだろうか…。

 

 

【ジョン万次郎世界一周ツアーPART.2】

 

努力を惜しまず、夜もクジラ油のランタンで勉学に励んだのだろうか。

そういう努力をする人を遠目からじっと見ている人は必ずいる。

その努力の結果が万次郎に大きなチャンスを与えたのだ。

万次郎が再び捕鯨船に乗って世界の大海原へ訪れるチャンスが到来したのだ!

それがフラクリン号での捕鯨航海だ。

事実上「第二回・世界一周ツアー」の開催だ。

その捕鯨船はジョン・ハウランド号に劣らぬ立派な船だ。

 

アフリカ最南端の喜望峰を回ってインド洋に出たときのこと。

海面の大きなウミガメを発見。

船員たちが銛(モリ)を使って捕獲しようとするも、誰も捕獲できない。

そんな中、万次郎はためらわずに海に飛び込んだ。

そして素早くウミガメの背中に乗ると、ダイバーズナイフでウミガメの喉に一太刀。

見事、2メートル級のウミガメを捕獲したのだ。

船員たちは拍手の代わりに万次郎にピューピューと口笛で称えたことだろう。

航海中、このようなエピソードは多数あったにちがいない。

このような万次郎の活躍が、船員たちの注目を集め、大きな信頼を徐々に勝ち取っていったのだ。

アメリカ人は、まず自己アピールをせよと教育される。

万次郎も、控えめな日本人ではなく、アメリカ留学でしっかりと自己アピールすることを身につけたのだろう。

 

実はフランクリン号での航海中。

なんと、万次郎は一度、日本上陸をしている。

正確には琉球エリアの島だ。

本船から上陸用小舟に乗って、万次郎はたしかに日本に上陸したのだ。

そこで島民とも会って会話をした記録が残っているそうだ。

ではなぜ、そのときに正式に日本に帰国しなかったのか。

そこは「マンビコシン」という名の謎めいた島だったのだ。

会って話をした日本人、琉球人と言葉が通じ合わなかったのだ。

万次郎はその島が日本だという確証を得ることができなかったのだ。

ただ、その島の名前がマンビコシンということは把握できた。

結果的に、島民らに体よく追い返されて、やむなく日本帰国とはならなかったのだ。

後にわかったことだが、どうやらそこは沖縄本島のエリアだったそうだ。

「摩文仁(まぶに)」の「小渡濱(おどはま)」という場所だったらしい。

現在の糸満市だそうだ。

琉球の方言、ナマリ、発音で「マブニ」が「マンビコシン」だったのだろうか。

そしてこの一時上陸体験は、本格的な上陸時に役立つ伏線となったのだ。

 

フランクリン号の捕鯨航海でも運命は万次郎に味方をする。

グアム付近を航海中、デービス船長が精神病、つまり「うつ病」になってしまったのだ。

外洋のど真ん中で、船長がブツブツと不気味な独り言を言うようになったらさぞ不安だろう。

うつ病は重症になり、ついには船長は暴れ出すわ、なにをするかわからんわ、船員にとっても危険極まりない。

これでは船長としてまともな判断もできないし、リーダーシップを取ることは不可能だ。

全員一致で、船長を拘束、軟禁したのだ。

しかしそうなると誰が船の舵をとるのか?

そこは民主主義の国、アメリカだ。

 

「新キャプテンは誰に?」

の人気投票ならぬ、新キャプテン選挙が行われたのだ。

 

現在のクルーの中で、船を任せられるキャプテンは誰が適任か?

誰なら安全に船の舵を取って目的地に操船できるのか?

誰が一番リーダーシップに適しているのか?

さあ、全員で投票だ。

[フランクリン号復元・帆船模型]

 

{ココがスゴイ!}

結果、万次郎ともう一人の船員が同票で選ばれたのだ。

惜しくも年齢が年下だったという理由で、万次郎は同票だが次点として副キャプテンとなったのだ。

(スチュワードという役職だが、実際にはキャプテンと二人三脚で、副キャプテンとして活躍したそうだ)

これは、船員誰もが、万次郎を実力、人格ともに認めたという証拠だ。

ウミガメ捕獲エピソードなども選挙のポイント加算の要因になったのだろう。

新キャプテンも万次郎を尊重、ほぼ二人キャプテンとして二人三脚、無事に航海を続行。

しかも捕鯨ノルマも達成。

 

一般船員がいきなりスチュワード昇格するのは異例の大出世だ。

給与も数倍どころか、数十倍に跳ね上がったらしい!

 

船上では人種差別はなく実力主義の世界だったのだろう。

万次郎がアメリカナイズされた世界で堂々と自己アピールをしながらら生きていたという証拠だ。

 

{ココがスゴイ!}

フランクリン号の捕鯨航海から無事にフェアヘイブンに帰国した万次郎。

ときは1849年のアメリカ(カリフォルニア)ゴールドラッシュに突入。

万次郎は金をゲットする目的で単身、西部に向かったのだ。

そしてサクラメントの金山で帰国のための資金を確保したのだ。

(約600ドル、当時換算で250万円くらい)

 

ゴールドゲットのエピソードには、保存食の豚の干し肉を携帯したり、護身用の銃を二丁懐に忍ばせたりしたそうだ。

目的地までの旅路も、安全かつ、コスパのよい交通手段を自分で計画・手配したそうだ。

蒸気船や蒸気機関車に当たり前のように乗った万次郎。

日本ではその当時、まだ殿様が偉そうに人力の籠に乗っていたのだろうか。

当然、蒸気機関の内燃機システムによる移動手段などは夢の時代だ。

いや、長崎あたりではオランダ人から情報として伝わっていたかもしれない。

 

ゴールドラッシュのカリフォルニアには一攫千金を夢見て、野心に燃える様々な人種が集まっていた。

当然、奪い合い、窃盗、殺し合いも横行していたのだ。

護身用の準備はしていたが、特に護身術の訓練をした記録は無い。

運がよいと言われるが、その裏には果てなき挑戦心と不屈の諦めない精神力、そして好奇心が強かったことがある。

計画能力にも長けていたという証拠だ。

これらの経験によって、万次郎はゲットした金を旅行資金として日本帰国の成功を成し遂げたのだろう。

 

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