歴史の意義
歴史を勉強する意義は、現在の問題を解決するヒントになることだと思います。
個人単位で考えれば、過去の失敗・成功体験が歴史ということになります。他人から見れば違和感のある選択でも、本人からすれば十分筋が通っていたりするのは、それぞれの過去(歴史)に基づいた判断をするからです。他者理解のためにその人の過去を知る必要があるように、異文化理解のためにもその民族がどのような歴史をたどってきたのかを知ることが重要になると思います。歴史を把握することは、人類の将来の選択にとってなくてはならないものだと思っています。
というのが、この前生徒に「歴史を勉強する意味なんてあるんですか?」と聞かれた時の答えなのですが、教科書がつまらなすぎるので、こういう質問をする生徒の気持ちは良く分かります。
つまらない歴史教科書で歴史への興味を無くさせることは、数々の失敗によって人類が築き上げてきた財産を無価値なものにすることと同じだと思います。採択項目を削って内容を深化させた方が、教える側も教わる側も今より歴史に関心を持てると思います。
自分の中での現在の歴史教育のイメージは、部屋に散乱した洋服や本や家電を一つずつ手にとって、「これは~と言って~に使います。○○年につくられました。それで、これは~って言って---」と、延々と憶えさせるといったものです。その一つ一つには興味深いエピソードや教訓が含まれているのですから、それを生かす学習指導要領が歴史の有効利用につながると思います。
個人的には、↓のような内容を重視するべきだと思います。
・ 歴史の活用によって回避できた危機、得られた成功
・ 歴史の誤認・不勉強によりもたらされた不幸
・ 歴史が政治に悪用された例
このような主張に対するお決まりの反論は「教師による歴史認識の解釈・説明は、偏った教育につながりかねない」であり、そのような批判を避けるため、現在のようなつまらない教科書が採択されています。しかし、人類共通の財産である”歴史”というものを、つまらないと感じさせている現状の方が、よほど偏っていると感じます。
歴史に興味を失った国が、よりよい選択をできるとは思えません。歴史に興味を持たせることこそが、教育の重要な役割だと思います。
商売上手
小学生の頃、商売の鬼才、S君がいた。
当時はスーパーファミコンが流行っていて、友達の家に集まってゲームに熱中していた。遊ぶ友達は大体決まっていたが、S君はあらゆるグループに出入りしていた(ちなみにS君は上級生)。
S君はいつもピクニックカゴのようなものを持ち歩いていて、その中にはずらりとスーパーファミコンのソフトが並んでいた。S君が来るとソフト交換が始まる。S君の持っているソフトと、友達の家にあるソフトの貸し借りを行うのだ。S君は相当な目利きで、S君の持っている人気ゲーム・新作ゲームを借りるためには、2~3本のゲームを渡さなければならないこともある。それでも交渉が成立するほど、S君の商品ラインナップは魅力的だった。
交換が終わると、S君はA君の家に遊びに行く。実はこのS君、スーパーファミコンの本体を持っていなかったのだ。なのでS君は、A君の家で借りてきたばかりのゲームをプレーする。夕方になるとS君は家に帰るのだが、ピクニックカゴはA君の家に置いて帰る。そのため、A君は思う存分S君のゲームを楽しむことができる。
ちなみにS君自身のゲームソフトは1本しか無かった。S君はその1本を元手に、うまく交渉を繰り返し、ピクニックかごを一杯にするまでに至ったのだ。S君に貸したソフトは他の友達の元へ行くことになるが、S君の采配によってトラブルになることはなかった。
スーパーファミコンを買ってもらえないという逆境をチャンスに変えたS君。彼のピクニックカゴには、今何が入っているのだろうか。
いなり
大学の時によく立ち食いそばに行っていたのですが、いつも80円のいなりを付けるかどうかで悩みました。今では平気でペットボトルの水を買っていますが、昔だったら確実にいなり代に回しています。
お金があることによって、大切なものとそうでないものとを判断するときの感度や、商品を得たあとの満足度が低下している気がします。商品を選ぶ目も、携帯電話のプラン見直しも、公共施設の有効活用も、お金があるとついいい加減になってしまう気がするのです。
健康が維持できるレベルの衣食住さえ整っていれば、金持ちが思うほどお金がないことは不幸ではありませんし、お金がない人が思うほど金持ちは幸福ではないと思います。むしろ、そこそこ余裕があるなと思う収入よりも、ちょっと足りないなと思うくらいの方が幸福度が高いような気がするのです。
有効に使えるお金の上限は存外低いのではないかというのを、最強のコストパフォーマー、魚肉ソーセージを食べていて感じました。