巨大建築物
巨大建築物を見ると、その規模もさることながら、時間感覚の違いに驚かされます。自分が生きている間に完成させられるなんて最初から思っていない感性に畏怖の念を覚えるのです。
莫大な労力と時間がかかるものを造ろうと考える時、最も大切なのは想像力だと思います。何もない空間にいつか現出する建造物を思い描くことができる人のみが、偉大な建築物を構想できるのだと思います。
しかし、テレビなどを見ているとすぐに結論を見たがる癖がついてしまいます。before・after系の番組は多いですが、「この続きはまた来週」なんて言われると裏切られた気分になります。1時間の番組や3ヶ月のドラマが付与する時間感覚は、私達の時間意識に大きな影響を与えていると思います。
自分のやりたい事が人生という時間の枠を超えた時、視界は無限の広がりを見せると信じます。それは、人間のみに与えられた偉大な力だと思っています。
立ち向かうという発明
固いウロコに覆われていて、表面がぬらぬらしていて、ギョロリとした目にピラニアのような獰猛な歯並び。体の所々にとげがあって、油断していると手に刺さってしまう。そんないかにも扱いにくそうな魚をまな板に置き、ゆっくりと確実にさばいていく。その方法は斬新に見えるが、考えてみればそれが最も合理的なやり方であると気付く。徐々にはだかにされていく切り身を眺めながら、その技術に感嘆のため息を漏らす。
内田樹氏の本を読んでいると、そんな気分に包まれます。社会で起こっている様々な問題について、優れた外科医のように腑分けしていってくれます。
内田氏の論理に無理がないのは、「まぁこんなもんだろう」という具合に程よく力が抜けているためだと思います。「女は何を欲望するか」という本の中でも、自分の論理で全てを説明しようとすると、本当は説明できないことについても無理に説明しようとしてしまい、その結果うまく説明できたはずだった論理の足元も崩してしまう、といった記述がありました。そうであるならば、物語を完結させることよりも、不完全なままで終わらせた方が生産的である、としています。
話はそれますが、司馬遼太郎氏の『以下、無用のことながら』の「魚の楽しみ」の中で、かつてノーベル物理学賞を受賞した湯川氏が紹介されています。湯川氏が好きな話にこのようなくだりがあるそうです。
ある日、荘子と恵子という人が橋上から魚を見ました。荘子は、”ごらんよ、魚がおよいでいる。魚にとってはおよぐことが楽しみだというものだ”といいます。それに対して恵子は”魚じゃない君に魚の気持ちが分かるものか”と反論します。
普通は恵子の態度のほうが科学的だとされますが、湯川氏は科学者でありながら荘子の気持ちに共感したといいます。先に述べた科学的態度とは「実証されていないことは信じない」というにべもない態度です。しかし湯川氏は次のように述べます。
”もしも科学者の全部が、この両極端のどちらかに固執していたとするならば、今日の科学はあり得なかったであろう。デモクリトスの昔はおろか、十九世紀になっても、原子の存在の直接的証明はなかった。それにもかかわらず、原子から出発した科学者たちの方が、原子抜きで自然現象を理解しようとした科学者たちより、はるかに深くかつ広い自然認識に到達し得たのである。「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方が窮屈過ぎることは、科学の歴史に照らせば、明々白々なのである(『おりにふれて』)”
魚の気持ちや幽霊の存在以外にも、世の中には完全に説明できないことは山ほどあります。なぜ勉強するのか、自分らしさとは何か、なんのために生きるのか、幸せとは何か等々、説明できないことはいくらでもあります。しかし、志ある人は自分なりの仮説を立てていて、みなそれに沿って(それを実証しようと)行動し、なんとかかんとか生きています。
もう一方で、何も目指さないという生き方があります。「中途半端に終わったり、解決できないような問題なら、頑張るだけ時間の無駄じゃないか」という態度です。しかし天才や偉人と言われた人達は、未知なことを何とか説明しようと試みてきました。ひょっとしたらそれは説明不可能かもしれないし、人生という枠の中で説明するには時間が少な過ぎて、中途半端な結果に終わってしまうかもしれません。
しかし、中途半端や不完全を恐れずに、科学や哲学の難問に立ち向かった先人達の背中は、立ち向かうことの大切さというか、人生の作法を教えてくれているように思います。だとするならば、たとえごまめの歯ぎしりであっても、何かを為そうと夢想し、行動することには大きな価値があると思います。
失敗や成功、勝ち組や負け組、年収や格差社会など、現世の価値観の柵内で議論するというのは、非常に滑稽なことなのかもしれません。たとえ周りの承認が得られなくても、その先にあるものが何かわからなかったとしても、何かに一生懸命取り組む姿こそが、人類の最大の発明品なのではないかと、知の巨人たちの文章を読むと感じるのです。
ナイトハイク
小学生の頃ボーイスカウトに所属していたのですが、毎年冬にナイトハイクという行事がありました。夜7時から深夜1時くらいまで街をひたすら歩くという行事です。4時~6時半までのサッカーの練習を終えてから参加していたので、ナイトハイクのスタート時点で既に疲れ切っていました。同じくサッカーとボーイスカウトをやっている友人が2人いたのですが、普段ははしゃぎ回っている彼らがあれほど静かになっている姿を見たとき、「こいつらにもこんな一面があるのか」と変な感慨を持ったのを覚えています。
最初はガヤガヤ歩いていたメンバー達も、時間が経つにつれて無口になります。真冬の夜の静けさは、小学生の自分にとっては深海のような不気味さと魅力がありました。「今頃みんな寝てるんだろうな」と思うと、自分達だけが特別なことをやっているような得意な気持ちになりました。
行程を半分ほど終えると休憩ポイントがあります。公園にレジャーシートが敷いてあり、お兄ちゃんにくっついてきたものの疲れたり眠くなったりしてぐずり始めたちびっ子達が回収されます。そこでは大人達がカップラーメンを用意してくれていて、そのおいしさが半端ではありません。そこから再びゴールを目指して歩くのですが、ゴールでもう一回あのカップラーメンが食べたいとばかり考えていました。カップラーメンへの想いが強すぎるあまり、ゴール時の達成感を邪魔していた気さえします。
そんな経験があるためか、冬になると無性に夜中の街を歩きたくなることがあります。そして、あのカップラーメンの味を思い出します。
私家版・ユダヤ文化論
ノーベル賞受賞者の統計を見ると、ユダヤ人の突出ぶりがわかる。2005年までの医学生理学賞のユダヤ人受賞者は48名(182名中)、物理学賞は44名(178名中)、化学賞は26名(147名中)。それぞれ26%、25%、18%に相当する。ユダヤ人は世界人口の0.2%に過ぎないから、この数字は明らかに異常である。
ユダヤ人がこのような数字を叩き出せるのは、ユダヤ人にとっては”普通”の思考パターンを我々が”知性的・革新的”だと判断しているからである。これはちょうど、白人にとっては普通の身体的特徴である、顔の堀が深い・肌が白い・目が青い・金髪などといったことを、日本人(というかアジア人)がことさら高く評価して、憧れることに似ている。
ユダヤ人は、数千年前からあらゆる場所で迫害を受け続けてきた。そもそもユダヤ人とは、ユダヤ教を信じている人やイスラエルに住んでいる人だけのことではなく、遺伝的な共通性を持った人達でもない。ユダヤ人とは、ユダヤ人だと名指しされ、自他ともにそれを認めざるを得ない状況に立たされた人達のことである。
ユダヤ人がその他の民族とかけ離れた思考パターンを持ち得るに至ったのはなぜか、どのような人達がユダヤ人と指定されるのか、ユダヤ人はなぜ迫害されるのかという問いに、解を求めて斬り込んでいくのが本書です。
30年以上ユダヤ人について研究する筆者も、この問題に答えは出せないと言いきっていますが、”ユダヤ人とは何か”について考えるには非常に分かりやすい教材だと思います。
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千利休 無言の前衛
町にひそむ無駄なもの、意味不明なもの、面白いものを見つけ出し、それをクローズアップして面白がることを路上観察学と呼ぶそうです。そんな路上観察学を愛する筆者が、千利休の茶の湯について語っているのが本書です。
千利休や茶の湯というと、どこか老人的でワクワクとは無縁な印象を受けます。しかし千利休という人は、お茶や茶器やその周辺物のさりげなく面白い部分を見つけ出し、ひとつの思想にまで昇華させました。普通は見過ごされがちなものに着目し、それを面白がる感性こそが利休の茶の湯にもつながるそうです。
ところで、筆者が紹介した路上観察学なるものに非常に興味を持ちました。「ブラタモリ」「ちい散歩」「モヤモヤさまぁ~ず」「ぶらり途中下車」など、路上観察学に通底する番組は数多くあります。もしも利休が生きていれば、そういう番組を面白がって見ているかもしれません。
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