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自らの文章のアーカイブと考えている

カンバス 2008.10

 たいへん寓話性の強い作品である。
 寓話性を定義するなら、ありえない設定である。

 設定、構成はホームレスと非ホームレスとの関係性であるが、ホームレスと非ホームレスの階層的差異は、一方的に不可逆的に階層移動することが憎悪を増大させており、その衝突は悲惨である。その衝突は親子関係など許さない。

 よってこの関係性をテーマにすることは寓話性が強いと言わざるを得ない。

 ヒトとヒトの関係は解体を前提としている。その解体は関係性があることを前提としている。関係性の必然はヒトが個・孤では生存できない有機体であるからだ。解体と関係性の橋梁として家族という幻想が準備されている。

 家族は時として現れ、時として消失する。そんな家族が実は個々の内実にしか存在しない想念であることを証明している。また紐(臍)帯を求めるが、それらがすべて確証を示せない弱さもそれを証明している。

 ヒトは家族幻想の中で社会性を求める。

 それは社会性のみが幻想性を否定し、あたかも実存するかのような安堵を与えるからだ。安堵を求める心は自らの存在の不確実性への恐怖を担保しようとする心理に他ならない。

 だから演者は「強くなりたい」と言う。

 彼らが誰もスケッチ(最後に記念として描かせる)を必要とせずベンチに遺棄するのは、幻想を幻想の棲める場だけに押し込めようとする行為に他ならない。

 幻想だけが確実なものだという逆理がヒトの存在を表現しているのかもしれない。

 ヒトの関係性が幻想であり、その全否定がテーマの芝居だったようだ。

 アシはどこへ行くのだろう…

○ ○ ○

 時間の関係もあると思うがエピローグは予定調和のきらいがないか?という印象を持った。なかなか真理を探れない難解な芝居だった。スケッチ(スケッチブック)、ペンキ(ペンキ缶)、ダンボールのモチーフがヒトを繋ぐプロセスはまるで仮面劇のように複雑だが脚本が整理されていると思う。

 難解だが緊張感を失わなかったのはテーマそのものが不安だったからかもしれない。

 カンバスが一切登場しないのにタイトルがカンバスで暗喩があるのかと悩んだし、「まみや」mamiyaと「まよなか」mayonakaもアナグラムなのかと悩んだ。

 演者たちは(本当のホームレスを「自負」するアシまでもが)帰属を求めどこかに戻ろうとする。結局帰るところなど、戻るところなど、どこにもない。

 なぜなら、どこから来たか誰にもわからないからだ。

 つげ義春の「峠の犬」のラストが浮かんだ。

劇団ダダン定期公演2008.10.17-19 作:倉田真樹 演出:嶋田敬介 舞台監督:四家準平 舞台美術:二藤薫 照明:須藤慎太郎 音響:雨宮真希 小道具:面゛ 宣伝美術:武藤紗英子 出演:面゛、宮本康平、二藤薫、千野ほなみ、池津美香子、和泉淳、嶋田敬介、中野静香



「でろり」…その妄想的拡大

劇団タダン新人公演2009.1.16-18

 ヘーゲルは最初の宗教論『民族宗教とキリスト教』の中で、宗教を客体的宗教と主体的宗教とに分類している。そこで言う客体的宗教とは、知性と記憶力により体系だてられ講義されるものであり、主体的宗教は感情と行動のうちにしかあらわれないもと定義している。

 そして、神学的な客体的宗教を否定している。生活としての宗教からかけはなれた神学上の「知識=理屈」を意外にもきびしく指弾している。理屈としての知識や知性がこころとは無縁のものであり、こころを汚すものとしている。それは日常にたいする「知性」と「記憶力」を問うものとして興味深い。

 私たちは日常をどう確認するのだろうか?知識、知性によってであろうか?記憶によってであろうか?あるいは、こころであろうか?感情であろうか…

 劇「でろり」の一家は非日常に遭遇する。
 それは少なくとも知識・記憶の中にはない非日常である。その非日常の出来の煩雑さからそれを回避しようとする。当初それは「日常」に起こったアンジュレーションとしてのただの「煩雑な事象」でしかない。簡単に消えてしまえば、あるいは忘れてしまえば、「日常」によくある「ほんのすこしの軋み」でしかないはずだからだ。しかし、それがそれほど簡単に消えないと知ると、非日常が実は日常ではないのかと知識と記憶の中を彷徨う。それはたいへん滑稽である。

 その非日常が知識と記憶によって日常に分類できないと分かると、その煩雑さはある種の恐怖に転換する。日常に在るだろうと思っている彼らは、その恐怖から逃避しなければならない。その逃避のひとつの方法が日常に逃避することであり、彼らは記憶を頼りに日常を獲得しようとする。

   プロローグは「変身=ザムザ」を提示し、テーマは「審判=ヨーゼフK」と実にカフカ的迷宮世界を繰り広げる。彼らは恐怖から逃走したいがために、日常を獲得しようとし、その行為が自分たちにとって重要なことが起こっている「ところ」、あるいはその蓋然性からの回避をさせてしまう。

 彼らは理屈によって日常を定義し獲得しようとするが、それはできない。理屈を展開するほどの基盤を日常の中で持ち得ていないからだ。日常は非日常の対照でしかありえない事に気づく。

 ヨーゼフKに「さいご」があったように、日常と非日常の間を彷徨った彼らにも「さいご」がある。それは徐々に示されていた蓋然性の成就のようであり、たいへん単純な「理屈」であったかもしれない。

「とにかく、現状に甘んじること、これが最も賢明な策である」
フランツ・カフカ『審判』本野亨一訳

演出:井上良
脚本:池津美香子
舞台監督:和泉淳
舞台美術・小道具:石見舟
衣装:堀圭太
音響:高橋舞子
照明:安藤絢子
制作:池津美香子
宣伝美術:武藤紗英子
キャスト:池津美香子、石見舟、和泉淳、安藤絢子、面゛、四家準平、高橋舞子、堀圭太
2008.1.16-18


妄想ノミソシル

―欲望・喪失・生きること―

まず「ミソシル」について確認しておきたい。

 「ミソシル」は単にミソを湯に溶いたものではない。各種のダシを用いたり、中に数え切れないほどの具がありその組み合わせも無限にある。その料理の総称である。よって定型化した「ミソシル」はないし、「ミソシル」という言葉でイメージされるものに普遍性は無い。

 「ミソシル」がひとつの情報だとすると、その情報はなにを表象するのか…これは情報の氾濫とその情報性の不存在を表現する言語のように思える。

 これは舞台美術についても言える。アマチュア演劇は小屋に近づくところから芝居は始まっている。小屋に入った瞬間にもう芝居空間であることが少なくない。この舞台を目にした時、はじめは舞台美術が手を抜いたのかと思った。なぜなら舞台上には乱雑におかれたパイプ椅子のみで、壁にはポスターが貼られているだけだからだ。ところがよく見るとポスターの貼り方が「変」なのである。逆さまであったり、一辺がめくれていたり、立ち入り禁止の張り紙があったり、人物の顔のところが隠れていたり…そして見知らぬ言語で「ミソシル」と書かれていたり…

 情報概念で語られる「ミソシル」の定義という一見ナンセンスな行為の後に、そのポスター群は情報の氾濫した空間を提示する。ところがその氾濫した情報はポスターの一部が隠される、あるいは逆転するということである種の規制・統制を受けている。見知らぬ言語もそうである。つまり情報は氾濫し、しかし規制・統制されているのである。

 資本主義社会における情報の多くは欲望を刺激するためにある。資本主義は欲望を欲望するからである。ところがその欲望は情報が統制されると同じ次元で統制されるのである。

 実は欲望は全てコントロールされているのではないか?そんな猜疑心を完全に払拭することは誰にもできない。

 非道徳的で非論理的でリビドーのみ追求するのがイド(本能的自我)で、それはエゴ(社会的自我)へと発達するという。ならばコントロールされているだろう欲望はどちらなのか?

 先ずはたいへん疲れる先入見を形成することを強いられたところから幕は開く。

 この芝居は、生きることは失うことだということを教えてくれる。その喪失に拘る者とそうでないものとに分かれる。喪失に拘る者は喪失を許容できない。人間は有機体としてひとつの個を形成しているよう思っている。しかし、どこから、どこまでが個なのか全く分からない。性染色体の対か、細胞のひとつか、細胞の集合体の臓器か、臓器の集合体のヒトか、ヒトをコントロールしているように見える精神か、どれが個を形成しているのか分からない。

 そんな確認できない個である存在は「変」に決まっている。その「変」を喪失できれば「変」でなくなる…かもしれない。

 面接男は自らの嗜好を絶対的な知と位置付ける。そして知無き者(面接官)に価値を見いだせない。それがたとえ“資本家”であったとしてもだ。

 椅子男は自らの欲望を制御できない。しかしその欲望は他者に迷惑を及ぼすものではない。ただ座ってほしいだけなのだから…他者に迷惑がかからないはずのものである。座布団を用意している彼は自分の「変」に気づいている。その「変」を少しでも希釈するために座布団を用意したに他ならないからだ。ところが彼の努力は受け入れられない。何に受け入れられないのか?他者か、世間か…

 影無し男は自分の存在にとことん拘りたいのだ。確認し、把握し、自分のものにしたいのだ。その困難さは判っているし、その困難さを理解してもらおうとは思わない。逆に自分の存在に拘らない他者の方が「変」なのである。そして彼も誰にも迷惑をかけていない。

 雨男は自分の感性を第一義に考えたいのだ。なぜならそれしか信じられるものがこの世に無いからだ。しかし“世間”の絶対的否定の前で、納得できうる自己を模索する。その姿はあまりに哀しい。彼を惑わすお邪魔男が彼と同じスーツを着ていることが事態を険悪にする。なぜなら“階級的”に同質な存在に思えるからだ。一番タチの悪い存在である。

 ここに登場してくる人々が誰かに迷惑をかけただろうか?逆相を考えてみれば分かる。面接官が他者に嗜好を押しつける、椅子男が人の背に座りたがる、影男が他者に自分の影を確認しろと執拗に迫る、雨男が傘をさしている他者に降っていないからと傘をさすことを否定する…この逆相はあきらかに迷惑である。彼らは誰にも迷惑をかけていないのに「変」なのである。

 考えてみよう。その逆相がいかに世間に充満しているか…

 小生は女性の「変」さがなかったことが残念でならない。世間に女性の「変」が少ないのは抑圧がとんでもなく強いからだ。逆に男性の「変」に金銭でつき合う場合は少なくない。女性の「変」をもっとフューチャーできる力、それが欲しい。

 目を舞台に転じると、脚本の理解の助けとなる舞台美術の難解さについては冒頭で述べた。パイプ椅子に関しても、並びの不統一、生活感のありなし(背に上着のかかっているものがある)、なかなか罪作りな舞台美術である。

 脚本は緻密であり演者がそれに応えている。面接官、デートをしようとしている女性、影。そして、音響と照明、エンディングは音響と照明の効果が大きかった。あの脚本でのエンディングは難しい。なぜなら結論、結果は現代のように存在しないからだ。それを音響と照明がごまかすことなく舞台を作った。 2009.7.4
作:桂川明
演出:
舞台監督:四家準平、辻智之、大庭茜
舞台美術:石見舟
照明:あんじゅ
音響:雨宮真希
小道具:石見舟
衣装:ナリタ←
宣伝美術:
制作:伊田優志
出演:雨宮真希、石見舟、伊田優志、和泉淳、大庭茜、桂川明、四家準平、辻智之、ナリタ←さ