「でろり」…その妄想的拡大
劇団タダン新人公演2009.1.16-18
ヘーゲルは最初の宗教論『民族宗教とキリスト教』の中で、宗教を客体的宗教と主体的宗教とに分類している。そこで言う客体的宗教とは、知性と記憶力により体系だてられ講義されるものであり、主体的宗教は感情と行動のうちにしかあらわれないもと定義している。
そして、神学的な客体的宗教を否定している。生活としての宗教からかけはなれた神学上の「知識=理屈」を意外にもきびしく指弾している。理屈としての知識や知性がこころとは無縁のものであり、こころを汚すものとしている。それは日常にたいする「知性」と「記憶力」を問うものとして興味深い。
私たちは日常をどう確認するのだろうか?知識、知性によってであろうか?記憶によってであろうか?あるいは、こころであろうか?感情であろうか…
劇「でろり」の一家は非日常に遭遇する。
それは少なくとも知識・記憶の中にはない非日常である。その非日常の出来の煩雑さからそれを回避しようとする。当初それは「日常」に起こったアンジュレーションとしてのただの「煩雑な事象」でしかない。簡単に消えてしまえば、あるいは忘れてしまえば、「日常」によくある「ほんのすこしの軋み」でしかないはずだからだ。しかし、それがそれほど簡単に消えないと知ると、非日常が実は日常ではないのかと知識と記憶の中を彷徨う。それはたいへん滑稽である。
その非日常が知識と記憶によって日常に分類できないと分かると、その煩雑さはある種の恐怖に転換する。日常に在るだろうと思っている彼らは、その恐怖から逃避しなければならない。その逃避のひとつの方法が日常に逃避することであり、彼らは記憶を頼りに日常を獲得しようとする。
プロローグは「変身=ザムザ」を提示し、テーマは「審判=ヨーゼフK」と実にカフカ的迷宮世界を繰り広げる。彼らは恐怖から逃走したいがために、日常を獲得しようとし、その行為が自分たちにとって重要なことが起こっている「ところ」、あるいはその蓋然性からの回避をさせてしまう。
彼らは理屈によって日常を定義し獲得しようとするが、それはできない。理屈を展開するほどの基盤を日常の中で持ち得ていないからだ。日常は非日常の対照でしかありえない事に気づく。
ヨーゼフKに「さいご」があったように、日常と非日常の間を彷徨った彼らにも「さいご」がある。それは徐々に示されていた蓋然性の成就のようであり、たいへん単純な「理屈」であったかもしれない。
「とにかく、現状に甘んじること、これが最も賢明な策である」
フランツ・カフカ『審判』本野亨一訳
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演出:井上良
脚本:池津美香子
舞台監督:和泉淳
舞台美術・小道具:石見舟
衣装:堀圭太
音響:高橋舞子
照明:安藤絢子
制作:池津美香子
宣伝美術:武藤紗英子
キャスト:池津美香子、石見舟、和泉淳、安藤絢子、面゛、四家準平、高橋舞子、堀圭太
2008.1.16-18
