劇団ンダダ 妄想ノミソシル 過去ログ転載 | leraのブログ

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妄想ノミソシル

―欲望・喪失・生きること―

まず「ミソシル」について確認しておきたい。

 「ミソシル」は単にミソを湯に溶いたものではない。各種のダシを用いたり、中に数え切れないほどの具がありその組み合わせも無限にある。その料理の総称である。よって定型化した「ミソシル」はないし、「ミソシル」という言葉でイメージされるものに普遍性は無い。

 「ミソシル」がひとつの情報だとすると、その情報はなにを表象するのか…これは情報の氾濫とその情報性の不存在を表現する言語のように思える。

 これは舞台美術についても言える。アマチュア演劇は小屋に近づくところから芝居は始まっている。小屋に入った瞬間にもう芝居空間であることが少なくない。この舞台を目にした時、はじめは舞台美術が手を抜いたのかと思った。なぜなら舞台上には乱雑におかれたパイプ椅子のみで、壁にはポスターが貼られているだけだからだ。ところがよく見るとポスターの貼り方が「変」なのである。逆さまであったり、一辺がめくれていたり、立ち入り禁止の張り紙があったり、人物の顔のところが隠れていたり…そして見知らぬ言語で「ミソシル」と書かれていたり…

 情報概念で語られる「ミソシル」の定義という一見ナンセンスな行為の後に、そのポスター群は情報の氾濫した空間を提示する。ところがその氾濫した情報はポスターの一部が隠される、あるいは逆転するということである種の規制・統制を受けている。見知らぬ言語もそうである。つまり情報は氾濫し、しかし規制・統制されているのである。

 資本主義社会における情報の多くは欲望を刺激するためにある。資本主義は欲望を欲望するからである。ところがその欲望は情報が統制されると同じ次元で統制されるのである。

 実は欲望は全てコントロールされているのではないか?そんな猜疑心を完全に払拭することは誰にもできない。

 非道徳的で非論理的でリビドーのみ追求するのがイド(本能的自我)で、それはエゴ(社会的自我)へと発達するという。ならばコントロールされているだろう欲望はどちらなのか?

 先ずはたいへん疲れる先入見を形成することを強いられたところから幕は開く。

 この芝居は、生きることは失うことだということを教えてくれる。その喪失に拘る者とそうでないものとに分かれる。喪失に拘る者は喪失を許容できない。人間は有機体としてひとつの個を形成しているよう思っている。しかし、どこから、どこまでが個なのか全く分からない。性染色体の対か、細胞のひとつか、細胞の集合体の臓器か、臓器の集合体のヒトか、ヒトをコントロールしているように見える精神か、どれが個を形成しているのか分からない。

 そんな確認できない個である存在は「変」に決まっている。その「変」を喪失できれば「変」でなくなる…かもしれない。

 面接男は自らの嗜好を絶対的な知と位置付ける。そして知無き者(面接官)に価値を見いだせない。それがたとえ“資本家”であったとしてもだ。

 椅子男は自らの欲望を制御できない。しかしその欲望は他者に迷惑を及ぼすものではない。ただ座ってほしいだけなのだから…他者に迷惑がかからないはずのものである。座布団を用意している彼は自分の「変」に気づいている。その「変」を少しでも希釈するために座布団を用意したに他ならないからだ。ところが彼の努力は受け入れられない。何に受け入れられないのか?他者か、世間か…

 影無し男は自分の存在にとことん拘りたいのだ。確認し、把握し、自分のものにしたいのだ。その困難さは判っているし、その困難さを理解してもらおうとは思わない。逆に自分の存在に拘らない他者の方が「変」なのである。そして彼も誰にも迷惑をかけていない。

 雨男は自分の感性を第一義に考えたいのだ。なぜならそれしか信じられるものがこの世に無いからだ。しかし“世間”の絶対的否定の前で、納得できうる自己を模索する。その姿はあまりに哀しい。彼を惑わすお邪魔男が彼と同じスーツを着ていることが事態を険悪にする。なぜなら“階級的”に同質な存在に思えるからだ。一番タチの悪い存在である。

 ここに登場してくる人々が誰かに迷惑をかけただろうか?逆相を考えてみれば分かる。面接官が他者に嗜好を押しつける、椅子男が人の背に座りたがる、影男が他者に自分の影を確認しろと執拗に迫る、雨男が傘をさしている他者に降っていないからと傘をさすことを否定する…この逆相はあきらかに迷惑である。彼らは誰にも迷惑をかけていないのに「変」なのである。

 考えてみよう。その逆相がいかに世間に充満しているか…

 小生は女性の「変」さがなかったことが残念でならない。世間に女性の「変」が少ないのは抑圧がとんでもなく強いからだ。逆に男性の「変」に金銭でつき合う場合は少なくない。女性の「変」をもっとフューチャーできる力、それが欲しい。

 目を舞台に転じると、脚本の理解の助けとなる舞台美術の難解さについては冒頭で述べた。パイプ椅子に関しても、並びの不統一、生活感のありなし(背に上着のかかっているものがある)、なかなか罪作りな舞台美術である。

 脚本は緻密であり演者がそれに応えている。面接官、デートをしようとしている女性、影。そして、音響と照明、エンディングは音響と照明の効果が大きかった。あの脚本でのエンディングは難しい。なぜなら結論、結果は現代のように存在しないからだ。それを音響と照明がごまかすことなく舞台を作った。 2009.7.4
作:桂川明
演出:
舞台監督:四家準平、辻智之、大庭茜
舞台美術:石見舟
照明:あんじゅ
音響:雨宮真希
小道具:石見舟
衣装:ナリタ←
宣伝美術:
制作:伊田優志
出演:雨宮真希、石見舟、伊田優志、和泉淳、大庭茜、桂川明、四家準平、辻智之、ナリタ←さ