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自らの文章のアーカイブと考えている

語りと劇による「源氏物語」

原文の語りと、現代語劇

語りと劇による「源氏物語」が7月18日に上演された。

 大学生や留学生や市民で構成されたメンバーで、桐壺から紫の上の死までを、朗読、シュプレヒコール、映像、演劇で表現する。途中休憩があったものの、3時間近い長丁場だったが飽きることはなかった。

 衣装、化粧もちゃんとしており、舞も舞う。

 光源氏を演じたのは和泉淳君。私が気になって何年かパスートしている男優。舞台映えのする人だ。ところがオチがひとつある。先日のコンミスではないが、舞台監督を務めた人が大変近しい人なのだ。これは、やや偶然で、かなり直前になって知ったもの。

 小屋は500人収容の新しいホールで、その「こけら落とし」の意味もあった。

 プロジェクターでの映像に、照明と音響が加わり、朗読者や役者が入れかわるたいへん難しい舞台だったが、スムーズに進んだ。

 終演後、やや興奮していた。すると柴田勝二氏(日本近代文学)と坂手洋二氏(劇団燐光群主宰)と谷川道子氏(ドイツ演劇、ブレヒト研究)三人の「言葉・身体・空間」という題されたシンポジウムがあると言う。聞いていなかった。

 谷川道子氏の話はいつもたいへん面白く、面識もある。その日も劇場内で挨拶をした。  その後の予定(阿佐ヶ谷で呑む約束)を急遽キャンセルし、1時間後のシンポジウムに臨んだ。

 源氏物語の時は、結構人が入っていたのだが、シンポジウムはそうでもなかった。もったいない。

 デビット・ヘアの作品(インタビュー劇)の話や、能楽と現代演劇との関わり、つまり複式夢幻能がインタビュー劇と通底するという話。

 坂手氏は現代能としてイプセンを演っており、チェーホフの作品もあるという。また、谷川氏が言うには「インタビュー劇」により自身が知りたいことをリサーチする方法は、20年代にブレヒトがやっていたとのこと。

 三島の近代能楽集については、能らしい能は避け憑依性が多いもの、例えば卒塔婆小町など、つまり情念をインスパイアした。詩的なものに惹かれたと言っていい。

 源氏物語は、女性が作ったフィクション化された面白さ。

 などなど興味のあるテーマばかりで2時間があっという間に終わった。

 しかし、私が源氏物語にいつも感じるのは「アンモラル」なのだが…

脚本・演出:柴田勝二
美術・舞台監督:石見舟
照明:相馬亜紗子、安藤絢子
音響・映像:重川真紀、田中恵
字幕:コウ・ビカ
広報:ヨ ショウシュウ、大塚ちはや
衣装・着付け:杉山恵美
舞振付:道宗千恵子
協力:日本芸能美術、劇団ダダン、珀牙会

朗読劇「サロメ」
一幕の悲劇

贔屓にしている劇団から朗読劇「サロメ」の招待を受けた。

 朗読劇はアクションがないため、観客に想像力を要求する。つまり、観客の資質や才能を要求するのである。木下順二の「子午線の祭り」は、いい芝居のはずだ、いやいい芝居だ。しかし、私に資質や才能がないため、その芝居の良さがわからない。

 「サロメ」は新人たちに見せるためのもので非公開とのことで、ゲネプロみたいなものかと思っていた。  舞台装置はほとんどないものの、白と黒の衣装はあるし、メイクもしているし、証明もある。ゲネとの予想ははずれた。

 バプテスマのヨハネは孤高を通し、ヘロデ王は鬼気迫るものがあり、ヘロデヤは嫌悪と憎しみを体現し、サロメはその偏執的な美を追及する。ヘロデ王は朗読の本を投げ捨て落胆し、サロメは本を置きダンスを踊る。彼女は人の世を弄ぶ、自分の存在も愚弄しているように思える。ヨハネの地の底から響くような声は観客を安住させない。

 また、首のシーンはどうすのかと思って見ていたら大変工夫されていた。

 オープニングから終幕まで約1時間の公演だったが、あっと言う間の緊張の連続だった。演出の良さだったのだろう。1回しか演じず、さらに非公開とは…まさに一期一会、これだからアマチュア演劇はやめられない。

 しかし、あのワイルドの言う悲しみとはなんなのだろう。疑問は深まる…

作 オスカー・ワイルド
訳 福田恆存、日夏耿之介
編 石見 舟
演出 SoJin Cho(チョ・ソジン)
作曲 橋本かおる
出演:高橋里奈、石見舟、雨宮真希、和田直大、千野ほなみ、大庭茜、和泉淳、井上良 2010.7.8
ばんゆーいんりょく 2009.10

妖精の恋

劇団ダダン 2009年度本公演

 人々の名前が形骸化するほどの関係性の空虚な時代に棲息している。また場所は、群れるところでありながら、結局は人との関係が不確かでよく分からない。それは、自分ですらわからないからだ。

 群れる人々がもつ共通言語は「フツー」である。「フツー」であり、「フツー」にし、「フツー」の人と見られることで関係性を維持できる。「フツー」を身にまとうことが保身になり、それのみが関係性を維持するツールに見える。しかし人間関係に「フツー」などない。

 妖精になるべく妖精見習が登場する。

 こんなことは現実にはありえない。ところが妖精見習に出会った青年は、日常の現実感を感じる。独り暮しの部屋に帰ってくると、(待っていてくれる?)人がいる、という他者存在によって自己存在が証明される古典的システムによってである。

 女は好かれることにより、あるいは「好きだ」と言われることで自分が居ると感得できる。青年にとってその女はけして幸せではない。それは彼がその女を好きになったから発現する心情ではなく、普遍的な心情としてである。普遍的心情ほどやっかいなものはない。特に関係性が希薄な時代と空間ではなおさらである。それならよっぽど恋愛感情の方が御しやすい。なぜならそれは自分独りで完結できるからである。

 また、女は痛みで日常性を実感する。痛むことが求めるものを得る代償行為だからだ。あるいは、ようやくつかみかけてきた自分から遠ざかりたくないという気持である。

 妖精は、見習いであるが故に彼らの群れに入りこむ。

 これは迷い込んだのかもしれない。そこで妖精見習いは自分が担当している以外の人と会う。彼はそこで人が営む「恋愛」という心情に直接的に晒される。はっきりはわからない。彼は恋をする。

 彼の目的は見習いから卒業するために、人に希望をひとつ叶えることだと言う。

 ところがその段階で妖精見習いは力を失っている。彼は闇の中で「力が…」と絶句する。

 青年は妖精見習いの計らいで力が得られなかったと思う。力が得られなかったからこそ、恋という心情を伝えられる。そして関係性をも獲得する。それは自己完結的な恋愛感情とも違うし、発情でもない。普遍的心情による関係性の構築である。

 妖精見習いが力を失っていたからこそ、青年に力を与えられなかった。妖精見習の恋。

 妖精見習いは妖精となり、羽根を得る。
 彼は課題が成就したからこそ羽根を得たのだ。しかし成功したかどうかは分からない。そして、羽根を得た妖精は寂しげな後姿を見せる。その妖精の哀しみだけが舞台に残る。そして彼だけがばんゆーいんりょくで引きつけられなかった対象であることを知る。

 ならば、他の人間たちはばんゆーいんりょくで何に引きつけられたのか?

* * * 本がたいへんよく書かれている。見習いの被り物のアイデアや白樺会の性格の描写なども秀逸。照明も色彩とタイミングで舞台に呼応していたし、音響も「見習いの歌」を背後で流すなど努力が伝わってきて気持がよかった。(見習いはウクことを使命としているので)見習い以外のキャスト全員が実によくハマっていた。残念ながら苦言が見つからないほど完成度の高い舞台だと思う。あえていうならDV男の服装はフツーの学生っぽいもののほうが凄みが増すと思った。

劇団ダダン 2009年度本公演
演出:井上良
脚本:池津美香子
舞台監督:和泉淳、宮本康平
舞台美術:二藤薫
照明:あんとん、泉元知香、真野瑞、安藤絢子、須藤慎太郎
音響:高橋舞子
小道具:面゛
衣装:タリ
宣伝美術:小西佳那子
制作:伊田優志
2009.10