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自らの文章のアーカイブと考えている


映画『狂った果実』の不思議

 日活には1956年製作の名作『狂った果実』がある。
 この作品は太陽族映画の一環と見られ上映中止になった不幸な作品であるが(ここの事情は拙著『60年安保、日活の時代』に詳しい)、フランスのヌーベルヴァーグに影響を与えた文字通りの名作だと思う。

 中平康の才能が光り、カメラも美しい。

 ところが、もうひとつの『狂った果実』があるのである。
 厳密に言うと「日活」ではなく「にっかつ」になる。
 しかしほとんど同じ会社で、同じタイトルの作品を作ることがたいへん不思議に感じた。しかも、1956年の作品は名作の誉れが高いのだ。
 そして、リメイクでもパロディーでもない。

 1981年「にっかつ」製作の『狂った果実』は日活ロマンポルノの中でも名作と言われている作品であるらしい。
 私はその作品の不思議さ、あるいは謎を体験しようと思い、事前情報を入れずに作品を観た。それはラピュタ阿佐ヶ谷のスクリプター白鳥あかね特集だ。(2014.7.23)

 私はロマンポルノに不案内なため、見方がよく分からない。
 よって唐突にそしてあまりに早いセックスシーンが理解できず、いい作品と思うものが少ない。また、暴力シーンが多いという印象も持っている。ストーリーとの関わりが少ない暴力を伴ったセックスシーンはあまり賛成できない。
しかし、カットを極めて少なくするため1カットでパンをしてムーブしたり引いたりというカメラは面白いと思う。

 昨今、にっかつロマンポルノの特集がされることが少なくない。
 神代辰巳、根岸吉太郎、森田芳光、相米慎二、金子修介らの作品があったり、文章で評価されている作品があり、中々目に出来ないからでもあると思う。
 だから女性客が多いのも特徴だ。
 この日は観客の三分の一が女性だった。

 そしてこの作品の監督は根岸吉太郎である。
 私は『遠雷』や『雪に願うこと』は好きな作品である。
 さて、作品だが私の予想を裏切ってはくれなかった。
 私がにっかつロマンポルノに対して抱いているイメージそのものだった。

 そして56年作品の『狂った果実』との共通点は全く無かった。
 探しても無かった。
 そして登場人物は56年作品とは逆だった。
 56年作品では、戦争で資本蓄積した階層の裕福な師弟たちと、戦争で「逆」になってしまった美貌の女性との話だった。
 本作は地方から出て来た青年が底辺で生きていて、これは56年作品とは違いが多すぎる。

 途中に蜷川有紀が自転車で青年にまとわりつくシーンがあったが、ベルトリッチの革命前夜(Prima della rivoluzione 1964)やゴダールの『女は女である』(Une femme est une femme1961)を連想したが、オマージュとは思えなかった。

 ところが作品を観て行くと、アリスの歌が挿入歌として流れるのだが、その歌詞に「狂った果実」が出てくるのだ。
 観た後に調べると、アリスの歌に触発されて作ったということらしい。

 しかし、同じタイトルをつける感覚が理解できない。

 いまだに…

備考:尚画像は宣伝スチールでそのシーンは映画には無い
「いつか、どこかの物語」 2010.10.8

芝居は小屋に入ったところから始まっている。

 場所はある収容施設なのだが、客席に座るとすでに「俳優」らしき人物がいて、なにかしている。舞台に徐々に人が増えてくるが、台詞を吐くわけではない。「なにか」している。

 その段階で観客は自分が演劇の一部であることを悟る。

 設定は収容施設で「回復」の治療をしている人々の、治療のための演劇の練習であり、劇中劇である。劇は「浦島太郎」。

 人々はその演劇の練習をしながら、湧いてくる疑問を解消しようとする。

 なぜ、勤勉で腕のいい漁師である太郎が竜宮城へ行ったのか?
 それに対し「息がつまる幸せ」と結論づける。

 そして、愛の向く方向を示す。

 愛は、その対象に向くのか?あるいは自己に向くのか?である。

 エピローグはない。
 解決しないからだ…
 今までのダダンの演劇で最もわかりやすい本だったかもしれないが、かなり優れた本でもあった。テーマに重みを持たせない工夫は、芝居を芝居らしくさせ、また深さも持たせた。

 舞台美術は、どこまでが劇中劇が判然とさせない効果があった。観客も含め、皆が役さがしで終わる、まるで「人生」のような舞台だった。

 場当たりの困難さを感じさせる出入りの多い舞台で、それを照明と音響が支えていた。

 役者のパフォーマンス能力に頼った感はあったが、よくできた舞台だった。

作・演出:井上良
舞台監督:四家準平、和泉淳、辻智之
舞台美術:小西佳奈子、二藤薫、石見舟
照明:真野瑞、泉元知香
音響:千野ほなみ、雨宮真希
小道具:井上良
宣伝美術:大庭茜
衣装:タリナ、山澤沙江子
制作:池津美香子、井ノ上理華
出演:和田直大、和泉淳、大庭茜、石見舟、千野ほなみ、辻智之、井ノ上理華、泉元知香、朴建雄、山澤沙江子、二藤薫、池村直美、四家準平、岡本和樹
2010.10.8-10.10  

「くるくるまわる」 2011.10

何かの函が開く前から人類の最後の病気は「希望」だった。

 希望は、そうありたい、と思う気持ちではなく、そうあったはずだ、と言う既視感と自己中心主義に彩られている。故に自己肯定だけが希望であり、それが生へのエンジンなのだ。

 人類という複数形表現からは、複数の自己肯定の衝突と、複数の希望の激しい反目を予想させる。それらの集積物が世界と言われる。故に世界は見るには混在であり、在るには反目と衝突の悲愴次元でしなかい。

 人は幼い時、人の存在につきその価値と楽しさについて刷り込まれる。

 ところが現在の社会に出ると資本主義構造の中で、利用される消耗品であり、消費者としてのみ「価値」があることを知らされる。そして、それが世界だと思わざるを得ない。そこにあるのは人間存在の不存在である。生物は生きて在ることに価値があるという論理が人には当てはまらないという「厳しい現実」だ。

 「世界を見る部屋」、これは自己内に展開される空間のようであるが、そこでは目をつぶって世界を見るか、目を開いて世界を見ているフリをするのどちらかしかないという。それは選択を迫られているのかもしれない。ある者は世界のなかで「在る」ことによって「あがきたい」と懊悩する。その迫られている選択は、「在る」か?「在らぬか」という選択かもしれない。演者は罵倒するかのごとく言葉を吐きつづけ、悲愴次元に「在ろう」とする。観客は「お前はどこにいるのか」と迫られているように思う。彼女。彼らは舞うことにより混迷した世界に居ることを表し、突然観客に向かい罵倒のように言葉を吐く。

 そして、人はひとつのネジであり、歯車であると唾棄する。「まわるセカイのカケラ」になるのだと言う。しかし、それは少なくとも世界の一部分になりえていることを示している。自己肯定をし得ない者にとってエールのように聞こえるし、社会が…世界が見える瞬間にもなりうる。

 変身した、あるいは再生したリユンが結局ジレンマま中へ入っていくのは、希望の獲得なのだろうか?あるいは、それは幻想であり希望を否定したところに新しい「在る」を見出したのであろうか…

   配役としてはミンが最も難しい。「世界を見る部屋」が自己内に展開される空間だとしたら、ミンはそこに迷い込んだ存在だからだ。

 苦言を呈するなら、テーマを掘り下げる前に、テーマ提示の反復となったところだ。「罵倒」のところではもっと激しく観客に問うてもいいのではないか。

 舞台美術、照明、音響などなかなか見せるものがあり、場当たりや稽古の充実さがうかがわれる。もっと可能性を秘めた本かもしれない。

劇団ダダン2011年本公演(2011.10.8-10)
作・演出:小西佳那子
舞台監督・照明操作:辻智之
舞台美術:岡本和樹
照明:朴建雄
音響・音響操作:高橋舞子
小道具:和田直大
宣伝美術:大庭茜
衣装:山澤沙江子
制作:井ノ上理華
出演:山澤沙江子、大庭茜、井ノ上理華、岡本和樹、和田直大、和泉淳、笠原伊織