追い越し野郎 Il sopasso(1962)
ロードムービィーである、と思えばそうでもないのかもしれないが、とても不思議な映画である。内気な学生(ロベルト)と一緒に旅をすることになる中年男性(ブルーノ)が、現実の存在として見えないからである。しかし彼には幻想的な背景が設定されているわけではなく、逆に実に現実的な背景が用意されているのだ。仕事の相手先や別居中の妻や中年男性と付合う娘、などである。しかし、彼の存在に実在を求めるのが困難なのだ。
ロベルトは現実そのもので、私であるかもしれない。ロベルトの中の何かがその男を表し、その男がロベルトに働きかける、というように見えるのだ。げんにその男はロベルトを裏切るように確実に見えるにもかかわらず、ある説明のつかない「期待」をながながとひきづるのである。その「期待」はロベルトの期待でもあるが、観客の「期待」にもなってしまう。
その男性ブルーノが現実の存在となる時が来る。ラストの額から出血するところである。彼はロベルトとの関係を尋ねられ「昨日知り合った」と言うのだが、その時こそブルーノが存在として表れる瞬間でもあった。
ではロベルトはどこへ行ったのか?誰にもわからない。ロベルトは居たのか?それすら自信がなくなってしまう。子供の頃の思い出話などが彼の痕跡となるだけなのである。
監督 ディーノ・リージ 原案 ロドルフォ・ソーネゴ 脚本 ディーノ・リージ、ルッジェーロ・マッカリ、エットレ・スコーラ 撮影 アルフィオ・コンティーニ 音楽 リズ・オルトラーニ
ポケットの中の握り拳 I pugni in tasca (1965)
カメラは異様なほど観客に緊張を強いる。そして暗示的なシーンと台詞の数々。ところが、それほど緊張を強いておきながら、何も起こらない。厳密に言えば何も起こらないわけではない。少なくとも殺人が2回、殺人未遂が1回起こるのだから…ところが、それらの行為は緊張に値する行為ではなく、カメラはもっと別な所に観る者の緊張を強いてやまない。
殺人、殺人未遂のシーンは逆にたんたんと、あるいは日常の必然的な出来事のように描かれる。地方生活者と都市生活者、解体を前提としている家族、といったモチーフはあるものの根底にあるのは普遍的な「孤独」であるかもしれない。その「孤独」の映像的表現が緊張を強いているのかもしれない。
どちらにしろ語る言葉が見つからない。
監督 マルコ・ベロッキオ(原案・脚本) 撮影 アルベルト・マッラーナ 音楽 エンニオ・モリコーネ
労働者階級は天国に入る La classe operaia va paradiso (1971)
この作品は疎外と孤独の記録である。
マルクス的に言うなら4つの疎外を完璧に実現している。
1 労働生産物は資本家のものとなるから労働者とは疎遠となり、労働者が隷属させられてしまう。
労働生産物からの疎外。
2 労働生産物との疎外があるため、労働者にとって労働は苦痛であり、労働は労働者の成長よりは、肉体的消耗と精神的頽廃をもたらすことになる。
労働過程における疎外。
3 人間は類的存在であり、労働は肉体的欲求から自由となり、意識的なものとなる類への参加形態の1つであったが労働の疎外は類生活を単に自己の肉体的生存のための手段とし、人間本質を疎外する。
類からの疎外。
4 人間が相互に他の手段となり、疎遠なものとして対立的に存在せざるをえなくなる。
人間の人間からの疎外。
そして、その疎外の後にあるのは深い孤独である。自らの存在に対する疑義が用意するあまりに深い孤独である。実はマルクスの喝破した「疎外」をすべて具現し「証明」したとしても、マルクス主義を声高に唱え労働運動に入っていくわけではない。
主人公(ルル)の労働運動との関わりは、矛盾に直面したからではなく、自らの存在を問うためだ。
彼は、人を訪ねることで、その疎外の本質に迫ろうとする。
精神病院にいるかつての活動家、不払いの養育費を請求している別れた妻子、同棲相手の子供、しかしその中で知るのは自分がどこにも居ないという現実だけである。
彼を規定し、彼を証明し、彼を彼と自覚させていたのは賃労働だったと確認するだけであるのだ。その賃労働はマルクスの言う「疎外された労働」であるため、結局自分に労働以外の何があるのかが全く分からない。精神病院に入院しているかつての活動家にこう尋ねられる。
「作っている部品が何に使われるか知っているか?」
それは彼自身への問いかけでもある。
そして人との出会い。学生運動家、処女だという若い女性、その出会いはことごとく不毛である。なぜなら自分の存在が疎外された労働以外では確認できないからだ。
精神病院にいるかつての活動家はしきりに壁を壊そうとする。その壁の向こうに「天国」があると言う。復職したルルは、その壁が壊れた夢を見る。その壁の向こうには白い霧がかかっていたと言う…
ラストの復職したルルが、放歌し夢の話を延々と続ける行為を狂気と見ることができるのかもしれない。それは結句帰らざるをえなかった世界であるのだが、復職した今度は以前の世界ではなく壁の向こうの世界であり、「気づいた世界」である。
監督 エリオ・ペトリ
脚本 ウーゴ・ピッロ
撮影 ルイージ・クヴェイレール
美術 ダンテ・フェレッティ
音楽 エンニオ・モリコーネ
出演 ジャン・マリア・ヴォロンテ




