危険分子たち Sovversivi 1967年 2002.1
この作品はタヴィアーニ兄弟のデビュー長編である。
イタリア共産党の指導者トリアッティの葬儀を舞台とした作品で、関わる何人かの人々を追った映像である。
ところが大変に難解な映画なのだ。
パンフレットの短い解説では「それぞれの人生と苦悩を描いたドラマ」となっているが、そうは思えない。
もちろんうまくいかない人生は表現されているが、苦悩というとらえ方ではないし、その「苦悩」がトリアッティの死に関係があるようには思えないのだ。
実際の葬儀のシーンが挟まれ、その大きさは分かるし、多くの人々の悲しみも表現されているが、それが直接伝わってくるようには表現されていない。逆に浅はかなもののように表現されている。同時に主要な登場人物の悲しみも、浅はかなものと表現されている。
キャラクターの「苦悩」はあくまで個人的なものであるし、実はそれほど深刻なものでもない。
では受け手(観客)はどう観ればいいのか?それが解らないのだ。だから難解なのだ…
それは受け手が、あくまで与えられることを待っているためにおこる齟齬かもしれない。受け手がその情況の中に入っていく、投企していく、そのことが期待されている作品なのかもしれない。
そう思うと初めて映画のテーマらしきものが観えてくるが、トリアッティの存在を実感として得られない受け手にとっては、はなはだ厳しいことかもしれない。
現に日本未公開である。しかし、奇しくも1967年の製作である。昨晩驚愕の中で観た小川紳介の作品も1967年製作か、1967年にまつわるものだった。
その年がコルトレーンが死んだ年であり、キングが暗殺される前年である、ということも重要なモチーフだと思う。
この作品をネオリアリズモに位置させることはできるのであろうか?プロレタリアの影はないし、スーツにネクタイの革命家が出てくるのだ。このスーツにネクタイの革命家は若い同棲相手の少女との性行為に耽っている。その彼が革命を「しに行く」ベネズエラに帰るために飛行場で支援者と別れる時に「チャオ!」と言う。その少し前にもらった餞別に執着するシーンもご丁寧にある。
その「チャオ!」と共にFine(エンドマーク)となる。与えられることのみを期待している受け手は呆然となる。
タヴィアーニ兄弟は現在でも映画に関し発言を続けている。少なくとも映画史では重要な位置を占めている。ところが私は他の作品は知らない。しかし現在でも精力的に創作していることは事実だ。その兄弟のデビュー長編であるという現実が、私に特別の意味を持たせているのかもしれない。
イタリアや、ファシズムや、イタリア共産党が経験してきた大いなる矛盾や不公平がその原動力となったと思えるのだ。
その背景には「激動」の60年代が紛れもなくあるどあろうし、近代化の荒波が地球レベルで押し寄せる時代でもあったと思う。
ストーリーで描くものはないし、台詞の浅はかさはその矛盾を体現しているようにも思えるが、実は人間の未成熟さを表現しているようにも思える。あるいは単純に弱さか…
共産党の政権があったイタリアを描くのに巨大な偶像(兵士や労働者の)は必要なかった。なぜならファシズムを経験しているからだ。
マルクスも、レーニンも、像としては必要ない訳だ。その中で少なくとも共産主義思想を持つ者の軽薄さを表現することに意味があったのであろう。
ある者は妻の同性愛に悩み、ある者は自分の進む道に(哲学から写真、それから別の道)悩み、ある者は自らの表現者としての存在を脅かす病魔に悩み、唯一革命を目指す青年だけが悩みがない。しかし、彼は未成年の少女との性行為に耽っている。
この軽さは何だろう…この軽さをヒトの存在の軽さと代弁させるのは困難ではない。あるいは思想の軽さと言い換えてもいいかもしれない。厳密に言うなら思想の軽さではなく、特定の思想を信奉する人々の軽さだろう。
諧謔かもしれないが、私はジェンダーバランスの不備を感じた。ジェンダーバランスという表現はいかにも業界的でいやなのだが、わざとそうしたのかもしれない。男性の軽さ、弱さを表現したのかもしれない。
なぜなら同性愛の妻は夫の思想的脆弱性を挑発するし、哲学から写真にうつった男の妻ははるか と年上ながらその男の気持ちを全て受け止めるキャパシティを持っている。映画を作る男には高齢の母がいて、彼女はその男の存在を無言で規定している。
存在の軽さ、男の弱さ、女の重さを表現しているとするなら実にイタリア的なのかもしれない。
そのモチーフがコミュニズムなのだから、ある特定の人々のとっては実に意味の深い作品なのであろう…私にとっても、これほど書けるのであるからそれなりの作品であるのだろう…
その出会いには深く感謝したい。
監督・脚本 ヴィトリオ・タヴィアーニ、パオロ・タヴィアーニ
撮影 ジャンニ・ナルチージ
音楽 ジョンヴァンニ・フスコ

