「くるくるまわる」 2011.10
何かの函が開く前から人類の最後の病気は「希望」だった。
希望は、そうありたい、と思う気持ちではなく、そうあったはずだ、と言う既視感と自己中心主義に彩られている。故に自己肯定だけが希望であり、それが生へのエンジンなのだ。
人類という複数形表現からは、複数の自己肯定の衝突と、複数の希望の激しい反目を予想させる。それらの集積物が世界と言われる。故に世界は見るには混在であり、在るには反目と衝突の悲愴次元でしなかい。
人は幼い時、人の存在につきその価値と楽しさについて刷り込まれる。
ところが現在の社会に出ると資本主義構造の中で、利用される消耗品であり、消費者としてのみ「価値」があることを知らされる。そして、それが世界だと思わざるを得ない。そこにあるのは人間存在の不存在である。生物は生きて在ることに価値があるという論理が人には当てはまらないという「厳しい現実」だ。
「世界を見る部屋」、これは自己内に展開される空間のようであるが、そこでは目をつぶって世界を見るか、目を開いて世界を見ているフリをするのどちらかしかないという。それは選択を迫られているのかもしれない。ある者は世界のなかで「在る」ことによって「あがきたい」と懊悩する。その迫られている選択は、「在る」か?「在らぬか」という選択かもしれない。演者は罵倒するかのごとく言葉を吐きつづけ、悲愴次元に「在ろう」とする。観客は「お前はどこにいるのか」と迫られているように思う。彼女。彼らは舞うことにより混迷した世界に居ることを表し、突然観客に向かい罵倒のように言葉を吐く。
そして、人はひとつのネジであり、歯車であると唾棄する。「まわるセカイのカケラ」になるのだと言う。しかし、それは少なくとも世界の一部分になりえていることを示している。自己肯定をし得ない者にとってエールのように聞こえるし、社会が…世界が見える瞬間にもなりうる。
変身した、あるいは再生したリユンが結局ジレンマま中へ入っていくのは、希望の獲得なのだろうか?あるいは、それは幻想であり希望を否定したところに新しい「在る」を見出したのであろうか…
配役としてはミンが最も難しい。「世界を見る部屋」が自己内に展開される空間だとしたら、ミンはそこに迷い込んだ存在だからだ。
苦言を呈するなら、テーマを掘り下げる前に、テーマ提示の反復となったところだ。「罵倒」のところではもっと激しく観客に問うてもいいのではないか。
舞台美術、照明、音響などなかなか見せるものがあり、場当たりや稽古の充実さがうかがわれる。もっと可能性を秘めた本かもしれない。
劇団ダダン2011年本公演(2011.10.8-10)
作・演出:小西佳那子
舞台監督・照明操作:辻智之
舞台美術:岡本和樹
照明:朴建雄
音響・音響操作:高橋舞子
小道具:和田直大
宣伝美術:大庭茜
衣装:山澤沙江子
制作:井ノ上理華
出演:山澤沙江子、大庭茜、井ノ上理華、岡本和樹、和田直大、和泉淳、笠原伊織
