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自らの文章のアーカイブと考えている

レター カナコ 原一男 cinema塾 塾生作品

 今回の作品に与えられたテーマは「家族」である。6本の作品の中で3本がひきこもりをテーマにしていた。ひきこもりがかくも普遍的なテーマになりつつあるという現実に驚きを隠せなかった。

 ひきこもりの原因は単純には特定できない。レターでは父からのDVであったし、カナコでは見つけられない「自分」であったようだ。そしてその2作品に共通しているのは両親の愛情の無い生活であった。

 私はひきこもりにけして小さくない原因を作った存在だった父親も被害者であると思えた。資本主義、効率主義、あるいは新自由主義経済といってしまうのはあまりに安易であるが、第二次世界大戦後の急速な経済発展の中で労働力を搾取され、人間関係の獲得を疎外された「喪失した世代」としての父親像が見えるのである。そして人権感覚を養えなかった、人権教育を受ける機会のなかった世代の被害者としての父親像・家庭内権力像が見えるのである。自らの権利を問えなかったため、他者のそれを認知できない「被害」「悲哀」が見えるのである。あるいは自らの負を代償させる対象として子供・妻(弱者)を選んだという精神構造が見えるのである。

 また、女性(母・妻)の場合はその抑圧の歴史が見える。

 カナコの母親は自己の結婚に関して既存のシステムが決定したものであるので「正しくはなかった」という勇気ある結論を導いたし(彼女はその時点で自己を獲得したように見える)、レターの母親は全く父娘の間に入ろうとしない。夫も娘も避けている。つまり「愛という人間関係」の不存在が作り出したあまりに深い闇に落ち込んでいるのだ。

 そしてひきこもりの本人達に与えられた過度のストレス。両親は大人になってから、あるいは婚姻してからのストレスであるが、子供たちは違う。幼い時からのストレスなのである。おそらく地球上で幼い時からのストレスを与えられた早期の人類サンプルであるのだろう。

 経済システムの、あるいは労働力や時間の搾取、あるいは階層的抑圧の直接の被害者が実は子供だったという実に厳しい現実である。

 心をひらいてのひきこもりの青年は「人肌」(接したい、欲したいという意味)といっていた、この2本の作品のひきこもりの女性達も「愛したい愛されたい」その実感を得たいと訴えていた。悲しみにも実体がなかった、と言ったのは坂口安吾だったろうか…それは人間としての「関係」を求める叫びであるのだ。人間としての関係性を実感したいのだ。「人肌」こそまさしく人間関係の原点である。全ての愛の前に「人肌」があるのだと思う。

 大人達はどうだったのだろう。ある特定の価値観を与えられ、それに向かっていくために犠牲を厭わないことが善とされたのだ。そして労働力と時間と人生と性行動さえも搾取されたのだ。人を中心とした価値観、あるいは自己を中心とした価値観が得られていたら状況はかなり違っていただろう。無論経済的には恵まれなかっただろうが…

 カナコはひきこもりの若者を救出する「レンタルお姉さん」のボランティアで13年間ひきこもっていたある青年の「救出」に成功したが、それは彼女本人がひきこもりであり、自身のひきこもりからの脱出の契機をその「救出」に求めたのである。しかし、その後彼女は「ひきこもる」ことが楽であるという誘惑に常に闘わねばならなかった。そして深く傷つきながらも、父母や兄との「対話」を求めていく。それが彼女の出口となることを観る者は誰もが願った。

 少なくとも映画製作時には彼女が救われなかったことは製作ノートで分かる。

 ひきこもりの実数は統計以上に多いのではないだろうか?この青年達を救わねばならない。その前にひきこもりにならないようしなければならない。そのためには無意味なストレスを除去するべきである。無意味なストレスとは何か、第三者の経済行為に優位になるストレスである。そして競争社会である。受験産業という巨大な産業にどう立ち向かうか、過当競争という差別し差別される闇からどう這い出すか、という過酷な問題なのである。

 登校拒否、摂食障害、薬物依存、家庭内暴力、ひきこもり…彼女・彼らがたどる道は我々に対する警告であり、将来の暗示なのだ。

2003.6.19
かけがえの前進  原一男 cinema塾 塾生作品

 かけがえの前進では主人公たる精神障害者が体調不良になり撮影の継続の不安があったと言う。さらに映像の中での彼の言動は作品の完成が奇跡だったように思わせる。その過激さの故に…

 彼はこの映画の中で「語る自分の場」を見つけたのかもしれない。あるいは危うい意思疎通の現代を代弁したのかもしれない。精神障害者という「群」の存在を幻視の市民という群の中に位置付けたかったのかもしれない。

 ここでの観る者にとっての一番の不安は「スタッフと最後までやれるのか?」という作品存在に対する不安である。作品はその不安を十分に蓄積しながらやや唐突なカタチで終わる。この終演もドキュメンタリー映画の「宿命」かもしれない。なぜなら「一生」に近い時間軸でつき合うヒトにはコマギレのドキュメンタリー映画は作れないからだ。

 本日は初日であったが(3日間6本のスケジュール)私の観た2作品はどちらも若い女性達がスタッフであった。私が常々思っていた「女性だからこそ撮れるドキュメンタリー作品」だったと思う。猥雑なもの言いかもしれないが、スタッフに好意を寄せるというシチュエーションはそれを物語っていると思う。異性だからこそ語れる言葉もけして少なくないと思う。

 若い人たちが1年もかけてそういう作品をつくる、という事に嬉しさを感じた。上映の前のスタッフ挨拶や、作品の終演時に私は惜しみない拍手を送った。その拍手の中で私は涙が出そうなほど羨望していた。

 彼女らはデジタルビデオで作品を撮っていた。もし、私の時代にデジタルビデオがあったら…という実に激しい時間に対する羨望である。体力的機能を別にすれば何かをするに年齢が問題となることは有りえないと常に他者に主張しているので、その羨望をあきらかにできないことがさらに涙を誘うのである。

 ドキュメンタリー映画の中に自分のドキュメンタリーも観た初夜であった…

2003.6.18
心をひらいて 原一男 cinema塾 塾生作品

 原一男について、あるいは「ゆきゆきて神軍」については、いつかどこかで語らねばならないと思っていた。

 世の中に「すごい」と形容できる映画があるとするなら、あの映画以外に私は知らない。逆に「すごい」の一言に集約されてしまうかもしれない。しかし、映画の持つ記録性や映像の持つ「力」を実証した功績も私にとっては大きなものだった。

 その原一男が人材育成を目的に開いたのがcinema塾で、その塾生達の作品を公開するのが今回の企画であった。そして、そのテーマは家族であり、そのテーマで若い人達がどのようなドキュメンタリー作品を作ったのかは実に興味があった。(「家族」というテーマがイタリア映画祭2003と同じだったことはある時代性を物語っていたのかもしれない)

心をひらいて

 ドキュメンタリー映画では、映画製作そのものが映画であると思うのは、製作の途中で事件がおこり、それが時として作品の当初の目論見を根底から覆してしまう場合があるからである。もちろん多くの挫折したドキュメンタリー映画があったし、永遠に未完成の作品も少なくないと思う。その事件がスリルを表出し、人が生きていくことがスリルであることを代弁していることに気づくのであるが、故にドキュメンタリーが最も劇的(フィクショナル)である、というもの言いも説得力を持つのである。

 「心を開いて」の中での事件はあまりに劇的であったと言えよう。ひきこもりの青年がスタッフの女性に「好意」を寄せるのである。「恋」ではない。作品内の表現、本人の表現を用いるとしても「好意」というコトバが最も相応しい。

 共同生活をしている青年の自死と、その青年の「好意」が、彼が言う「生きがいを見つけたい」というコトバの周りで迷走する。

 その「好意」は彼の心を開くのか?彼は心を開いたのか?それは分からない。少なくとも彼女がそのスタッフの女性に自分自身の歴史について語ったのは事実である。