かけがえの前進 原一男 cinema塾 塾生作品
かけがえの前進では主人公たる精神障害者が体調不良になり撮影の継続の不安があったと言う。さらに映像の中での彼の言動は作品の完成が奇跡だったように思わせる。その過激さの故に…
彼はこの映画の中で「語る自分の場」を見つけたのかもしれない。あるいは危うい意思疎通の現代を代弁したのかもしれない。精神障害者という「群」の存在を幻視の市民という群の中に位置付けたかったのかもしれない。
ここでの観る者にとっての一番の不安は「スタッフと最後までやれるのか?」という作品存在に対する不安である。作品はその不安を十分に蓄積しながらやや唐突なカタチで終わる。この終演もドキュメンタリー映画の「宿命」かもしれない。なぜなら「一生」に近い時間軸でつき合うヒトにはコマギレのドキュメンタリー映画は作れないからだ。
本日は初日であったが(3日間6本のスケジュール)私の観た2作品はどちらも若い女性達がスタッフであった。私が常々思っていた「女性だからこそ撮れるドキュメンタリー作品」だったと思う。猥雑なもの言いかもしれないが、スタッフに好意を寄せるというシチュエーションはそれを物語っていると思う。異性だからこそ語れる言葉もけして少なくないと思う。
若い人たちが1年もかけてそういう作品をつくる、という事に嬉しさを感じた。上映の前のスタッフ挨拶や、作品の終演時に私は惜しみない拍手を送った。その拍手の中で私は涙が出そうなほど羨望していた。
彼女らはデジタルビデオで作品を撮っていた。もし、私の時代にデジタルビデオがあったら…という実に激しい時間に対する羨望である。体力的機能を別にすれば何かをするに年齢が問題となることは有りえないと常に他者に主張しているので、その羨望をあきらかにできないことがさらに涙を誘うのである。
ドキュメンタリー映画の中に自分のドキュメンタリーも観た初夜であった…
2003.6.18
