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+A級グルメ4 あぶらかす


あぶらかす その1

話は趙博から始まる

 「君が代尽くし」で名をさらに高めた関西の巨人アーティスト趙博(チョー・バク)のその曲が収められたCD「ガーリックちんどん」(パンドラレコードSAMP-20016)のライナーノーツの巻頭言にこうある。

「過去・現在・未来………  この言葉はおもしろい  どのように並びかえても  その意味あいは  少しもかわることがないのだ………」

 この言葉はガキデカで有名なマンガ家山上たつひこの作品「光る風」の巻頭言である。この作品は軍国主義化していく国家を巧みに表現した名作であるが、現在・過去・未来というものが実はいつでも簡単に入れ替わる事ができる、という人間の愚かさを象徴した名言である。

 このライナーノーツの巻頭言に引きづられてこのCDを聴きはじめたのだが、このCDの全曲を一気に聴きとおしてしまったのは趙博の才能に負うところが大であったと思う。国民的歌手だった美空ひばりが国民的歌手であるにもかかわらず!(ここは是非強調したい)反戦歌「1本の鉛筆」を歌っていたことを知ったのもこのCDであったし(ステージでは歌ったが録音には残さなかったらしい)、ナンセンス大賞ものの「自動車ショー歌(星野哲郎作詞)」が4番まであることを知ったのもこのCDであった。

 また、彼はこのCDの中で浪曲復活を訴えていて、かねてより私も同じ思いを持っていたためにこのCDの魅力が倍加したのかもしれない。私の子供期には「素人天狗道場」という人気ラジオ番組があり、一般聴取者が浪曲の喉を競っていたのである。あのNHKの「素人のど自慢」でも浪曲を唸る人は珍しくなかった、それほど浪曲が人気があり一般的な時代があったのだ。

 このCDには、浪曲仕立ての「浪速津や」の一部が収められている。厳密に言えば広沢虎造風なので「関東節仕立て」と言った方がいいかもしれない。(余談になるが偶然美空ひばりも広沢虎造も神戸芸能社=山口組と関係が深い)

 この「浪速津や」は彼と笑福亭伯鶴との合作シングルCD「橋・長らくご無沙汰してるけど」(パンドラレコード SAMP-09512S)でその全貌を聴くことができる。そのなかに次のようなくだりがある。

 「…泥の川で産湯を使いキムチの臭いに誘われて、ニンニク食ってドテヤキ食ってニコゴリを食べてサイボシ食ってアブラカス食って大きくなりやがったぜ110キロ…」

 ここであぶらかすが出てくるのである。

 また、「橋」という曲では「笑い豚」(カシラというか顔)「ソーキそば」「キムチ」と食物が多く出てくる。趙博も私のように食い物にこだわっている人のようである。しかも「橋」が収められているCD「ソリマダン」(パンドラレコードSAMP-09513)のライナーノーツにはその食物の詳しい説明があるのだ。例えば 「笑い豚…特に耳は薄切りにして辛子味噌(チョジャン)や塩、酢味噌で食べる」とか「ホルモンを高級料理にしようとしている輩とは断固闘おう!その意志を鍛えるためには、芦原橋の「八光園」、桃谷の「てんぐ」に行かねばならない。」というようにである。 (尚、CD「ソリマダン」の「橋」はハングル語(ライナーノーツでは「韓国語」)歌詞のみで日本語訳詞はライナーノーツに書かれているだけである。日本語歌詞バージョンはシングルCD「橋・長らくご無沙汰してるけど」で聴くことができる。)

 さらにCDケースには西つばさ氏のほのぼのとした版画「大正のホルモン屋」があり、ライナーノーツには同じく西つばさ氏の版画「だるま食堂」がある。とにかく食物に拘っていることでは類がないと思う。(西つばさ氏の版画に触れるだけでも価値のあるCDである)

 趙博はCDケースに色々仕掛けをする人だが、版画「大正のホルモン屋」の下に次のような一文がはいっている。

When hear music,after it’s over,it’s gone in the air.You can never capture it again. -Eric Dolphy

 1964年に36歳で客死したマルチリードジャズミュージッシャンエリック・ドルフィーが残した言葉である。彼のアルバム「ラスト・デイト」(fontana 822-226-2)の最終曲「ミス・アン」の後に実際に彼の言葉で聞く事ができる。

「音楽は聴いてしまうと中空に消え去り、再びとらえる事はできない」といった意味だが、この当然とも思える言葉がドルフィーの演奏に接すると俄然輝きを放つのである。

 是非エリック・ドルフィーに触れたいのだが、あまりに話題がそれすぎるので敢えてしない。しかし、何も語らないのも不自然なので最後に付録として触れる予定である。

 趙博のCDから山上たつひこ、西つばさ、エリック・ドルフィーと惹起されるイメージは広がる。そのイメージのひとつに「食い物」があるのである。

 趙博の食物に対するこだわりは私と似ているものがあるが、私とは決定的に違うところがある。「月を見ていたあなた」(Garnet Rage 2ndアルバム「爛漫」に収録)などのロマンチックな曲や「夢・葬送」(「ソリマダン」収録)などのエモーショナルな曲も作れるという才である。

出会い

 あぶらかすは被差別地域(以下「ムラ」と言う)の食い物である。ところがムラ特有の食物など実際に存在するのか?という問題もある。ただ単に地域特有の食物ではないのか?という疑問である。確かにその側面もあると思う。現にあぶらかすに関しては食べないムラもあるからである。

 週刊「金曜日」(no.265,p32,1999年刊)で上原善広氏が
「…大きなと場が建つ南部のムラでは非常によく食べられているのだが、北部のムラではその存在自体を知らない人も少なくない…」と報告しているようにと場周辺地域の特有食物であるという言い方も確かに成立すると思う。(と場に関しては岩波新書565「ドキュメント 屠場」鎌田慧著1998年刊が詳しい)

 しかし、西田英二氏が「ひょうご部落解放35号」(1989年6月)に「部落外の人に焼き菜をしてあげることがある。部落外の人も、私達の前ではおいしい、おいしいというてやけれど、ぜったい家ではしない。家ですればC地区になってしまうさかい」という言葉を紹介しているように、ムラ特有の食物は存在すると考えていいとは思う。

 私があぶらかすを知ったのは趙博の「浪曲」を聴くはるか以前である。

 友人たちで同好会を作るほど好きな食物に「煮込」と「もつ(ホルモン)焼き」がある。煮込探検隊と称して東京各地の隠れた名店を探したことがあるのだが、その時に言葉としての「あぶらかす」を聞いたのだ。

 東京都港区六本木にある松本治一郎会館内でNGO活動している女性と食べ物の話題になり、煮込みの話をした時に「ムラにあぶらかすという食物がある」と聞いたのである。その時彼女も名称しか知らなかったため、私はテンカスかあぶらあげの類と思っていたのだが、見知らぬ食物に関心を持ついつもの性癖から調べたり、色々人に聞いたりしても全く情報が集まらなかった。そうこうしている内に興味は薄れて行った。

 しばらく経ってある書籍取扱店の人と話していたときに、偶然その話になった。その店が一般的な書店ではなく人権関係の専門書店だったせいもある。その人はもちろん実物は知らないものの、「たいへんおいしい物である」ことと「テンカスやアブラアゲの類ではなく内臓料理である」ことを教えてくれた。

 内臓料理とはつまり「もつ焼き」に近いはずである。しかも「たいへんおいしい」と言う。俄然興味が沸いてきたのは当然であった。しかもその人は「知っている人を紹介できるかもしれない」と言ってくれた。

 彼がメールアドレスを教えてくれたので早速メイルをしてみたところ、すぐに返信メイルが来た。その人は部落解放同盟奈良県連合会の人だった。その文面はとても丁寧ではあったのだが、私に対する不審感がにじみ出ていた。それは当然というものだ。突然見ず知らずの人が地域特有の食物についてマニアックに尋いてきたからだ。

 何度かメイルを交換するなかで、狭山事件再審請求について共通の知人(私にとっては先生)がある事がわかり、お互い楽になり話は進行した。

 最初はあぶらかすを扱っている店を紹介してくれるということだったのだが、9月の狭山裁判中央決起集会で東京に来るのでその時に持ってきてくれるという話になった。私も偶然日本基督教団関係(ちなみに私はキリスト者ではない)で参加することになっていたので好都合だった。

 その当日の日比谷野外音楽堂が私があぶらかすと初めて会う日となったのである。

 あぶらかすの原料は牛の腸である。

 牛の腸を輪切りにし牛脂で煎り揚げるのである。煎り揚げたばかりのものに唐辛子をかけて食べるのがおいしいらしい。また、かつては、煎り揚げているとその匂いを嗅ぎ付けた子供達が集まったという。

 構造は二層構造になっている。腸壁と腸壁に付いている脂肪の二層構造なのだが、その脂肪の部分を取り去って食べる食べ方もあるという。それらは料理に使われ、うどんに入れたり、煮たり、お好み焼きのトッピングにしたり…種々の食し方がある。

 私が直接いただいたのは「くろかす」である。

 「あぶらかす」は「いりかす」とも「かす」とも言うが、味付け処理や形態によって三っつに分かれる。二層構造の脂肪部分を除去し、みりん・唐辛子・醤油で味付し直接食べられ、ビールのつまみなどに最適なのが「くろかす」である。煎り揚げただけのものはその形態から「まきかす」と呼ばれる。これは料理に使われる。大腸部分で繊維質というか膠質に富み硬度があり塩味がついているのが「ひもかす」である。

 私に「くろかす」を持ってきてくれたのはビギナー向けという配慮からであった。

 食べてみると、全く抵抗がない。香ばしくパリパリした食感で油分を感じる。ビール片手に入手するいきさつなどを家人と話しながら食べていると、皆がどんどん食べて見る間に少なくなってしまう、というものだった。

 ところが例えようがない食物であることも確かだった。未知の味であった。

煮こみ

 そののち、かくて全く当然のごとく「まきかす」と「ひもかす」を送ってもらった。

 「まきかす」の形態を見てすぐ頭に浮かんだ料理は「煮こみ」であった。(ここで「煮こみ」について述べはじめると遠大になってしまうので、涙をノンデ省略する。)

 調理するにあたり、モノ(肉のみ)でいくかポリ(野菜や豆腐などを入れる)でいくか、スープタイプ(粘度の低いだし汁)にするかソースタイプ(粘度の高いもの)にするか、ウェットタイプ(汁分が多い)にするかドライタイプにするかと考え、ポリ・ソース・ドライを選んだ。これは単に本能的カンからである。(関東圏の人のために説明すると趙博の浪曲に出てくる「ドテヤキ」は、関東で言う「煮込み」である。タイプはモノ・ソース・ドライで、これを串にさしたものである。)

 野菜はゴボウにし豆腐ではなくコンニャクにした。そして「まきかす」は脂をとらないでそのまま使うことにした。小さく切るように勧められたがそうしなかった。味は味噌と砂糖と醤油と生姜でつけ、3時間ほど煮こむ。

 できあがると鉢に盛り付けし、きざみねぎをかける。

 「まきかす」の脂肪の部分に味付けの色がつき、プルルンといった感じで実にうまそうにできた。さっそく食べてみた。

 正直言って驚いた。全然未知の味ではなく、ようく知っている味なのだ。麻布十番(東京都港区)の「あべちゃん」の煮こみとそっくりになったのだ(ちょっとおこがましいが…)。あぶらかすもおいしかったし、自家製煮込みもおいしかったが、これでは「発見」にならない。私や麻布十番周辺地域の煮込愛好者は、煎り揚げはしないものの、あぶらかすと同じ素材を「煮こみ」として日常的に食べていたのだ。これも発見だった。「あべちゃん」では「軟骨」(豚の気管)も美味で、是非塩で食したい。なぜかレモンサワーも一味違う。ホルモン(腸の部分、シロとも言う)を煮込みの素材として使う店は少なくないが、脂肪付でつかうところは少ないかもしれない。脂肪を除去した場合はモノタイプの場合が多いようである。

つぎなるステップ

 お好み焼きのトッピングにすると聞いていたので、もんじゃに入れようと思ったのだ。その発想にはある大いなる野望があった。あぶらかすは関東では知る人の少ない食材である。もんじゃは関西では食べたことのある人の少ない食物である。つまり銀河系で最初の「あぶらかすもんじゃ」を食べた人類になるのでは、と思ったのだ。

 ただもんじゃを作りキャベツを入れ、まきかすを小さく切って本液に投入した。

 食べ初めはけして悪くはなかった。香ばしい香りが濃厚なキリイカを想像させたし、違和感も不自然さもなく驚くほどしっくりいっていた。ところが、時間が経過していくと脂肪分が溶け出してきて、鉄板が脂だらけになってしまったのである。そうなっては食べられたものではなかった。やはりお好み焼きのトッピングのように瞬間芸でなければならなかったのだ。

 考えてみれば当然なのだ…固形化した脂肪が溶解するのは…

 人類初の体験はおいしくなければ意味がなかったのだ。

 それがたとえルサンチマンであっても、人が長い間食べてきたものがうまくない訳がない、という信念があった。「食」は文化であるので、自分の嗜好で判断すべきではない。それこそエスノセントリズムである。

 あぶらかすを送っていただいた方が料理法を書いた紙をいれておいてくれて、それに素直に従って料理を作ってみる気になったのだ。テーマは「うどん」である。

 かつお節でだしをとり鶏肉を用いる。「まきかす」を一口大に切って熱を通しすぎないように入れ、水菜をトッピングし、柚子の皮をちょっと浮かべて完成。水菜は関西ではよく使われる食材であろうが、関東ではそうではない。そのためかかなり高価なものである。しかし噛んだ時の「ハリハリ感」はとてもすがすがしい。

 透明なおつゆのなかで、「まきかす」の脂肪が半透明になっていて、その上に水菜のあおさがあり、なかなか色的にもおいしそうである。

 したごしらえにひや酒を呑んで(これがしたごしらえというのは少々疑問が残るが)、酒が終わったところで「まきかす入りうどん」を食した。

 やはり識者の意見はきくべきである。淡く味わい深くたいへんうまいものだった。似た味はないし、別のものに例えようもないものだった。私は元々濃い味という先入観があったが、それが間違いだったのだ。

 れっきとした、伝統に(もちろん「権威」なるものとは無縁の…)裏打ちされた+A級グルメである。

話は趙博に戻る

 趙博の浪曲のなかに出てきたあぶらかす以外の「ニコゴリ」(こうごり、こんごり、こごり、とも言う)「サイボシ」もムラ、あるいはムラ周辺の食物である。その他にも「たま味噌」「ナカモン」「焼き菜」「きどふ」など多彩で多数ある。それがどんなものか知ると誰でも一度は食べてみたいと思うものばかりである。

 「ニコゴリ」は牛や馬の足スジを煮て自然凝固させたもの。正月はテール(「おうね」ともいう)のものも作る。

 「サイボシ」は馬、牛などの燻製肉(鹿肉もあるという)。天日干しの「干しさいぼし」と釜焼き(釜に火を入れてくぬぎの木で燻す)に分かれる。「干しさいぼし」は硬くなり、木槌でたたき火であぶって食べる。(8月の天日に干したものは何年でももつと言われている)釜焼きに限られるが、「サイボシ」はその「美味さ」で現在ではどこでも食べられている。もともと東京では馬肉を食べさせる老舗(「みの屋:東京都江東区」「中江:東京都台東区」等)が何軒かあるため、全く抵抗なく食べられている…と思う。少なくとも私の好物である。生姜醤油がいいと言うが、私はそのままで食べる。

 「たま味噌」は麹を用いない味噌で大豆と水と塩だけで作り、オントレフのように乾燥させ1年以上熟成させたもの。味噌汁や鉄砲漬に用いる。

 「ナカモン」(ナカノモン、ニゴとも言う)はいわゆる牛の内臓で25種類ほどある。主に関西ではホルモンと言い、関東ではモツと言っているようだ。料理としては「スキヤキ」(主にミノ)「大根鍋」(雪鍋ともいい、大根おろしを用いる)「ドテヤキ」「スシ・スノモノ」などがある。「ナカモン」に関しては15種類以上食しているので、「煮込・モツ焼き」の時に述べたいと思っている。

 「焼き菜」は冬野菜(主にカブ、シャクシ菜)に塩をして焼いて食べる。単に冬野菜を用いるのではなく、焼き菜用に収穫期をずらして植えられる。霜や雪にかかった野菜は柔らかくて甘い、と言う。

 「きどふ」は大豆粉を水で練り棒状に延ばし輪切りにし雑煮や味噌汁に入れる。法事などで人が集まり、酒肴の後にご飯ときどふ入り味噌汁と漬物が出て、いくらでも食べられたと言う。想像するに「すいとん」、あるいは「ちくわぶ」のようなものかもしれない。

 のび・しょうじ氏は「食肉の部落史」(明石書店1998年刊)の中で「部落の食文化・食習慣を掘り起こし再構成すること、評価を加えることは畢竟するに被差別民の被差別者としての存在意義、アイデンティティーを土台に据えるということではないのか。」と書いている。(また本書はホルモンの語源の「ほうるもの=すてるもの」説を否定している)

 食は人生のたいへん早い段階に接する「文化」である。また時として所属している(させられている)階層、時代、地域、人との関係を象徴することもある。特に貨幣との交換でしか食物を得にくくなり、あるいは食材を自ら調達する事の少なくなった現代という「食」の態様が激しく変化した時代では、かつての食に対しそれを記録し保存し体験するということはけして無駄な事ではないと思う。さらに、料理本などにけして記録されない「私達の食」「民衆の食」に関しての記録は意味深い。

 その記録されない各地域で語られている食の豊かさは驚嘆に値し、私は羨望するとともに失ってきたものの大きさに愕然とする。グローバリゼーションの代表であるファストフード店の台頭、「食」の市場経済優先性を象徴するコンビニエンスストアの氾濫、HACCPなど新自由主義経済の産業構造の変転、グルメブームなどの商業的ファドや食についてのブランド信仰、そして魚沼産コシヒカリのようにブランド信仰を利用した「嘘」………それらの中で私達の「食」、あるいは「食体験」が奪われてしまったように思えてならない。人としての「時間」を搾取されてしまったように思えてならないのだ。

 インド独立を日本で運動していたビハリ・ボース氏(東京「新宿中村屋」が1927年にカレーを始めたのは彼の指導による)とA.M.ナイル氏(東京銀座のインドレストラン「ナイル」)も「食」に縁が深い。A.M.ナイル氏はインド独立後東京の銀座にインド料理の店を(日本で最初のインド料理専門店と言われている)開き、客に料理を説明し、食生活を説明し、インドの文化を説明し、インドを日本の人々に知ってもらおうとしたと言う。(A.M.ナイル氏は満州帝国大学で教鞭をとった貴重な経歴の持ち主でもある)

 辺見 庸は「噛み、しゃぶる音をたぐり、もの食う風景に分け入って、人びとと同じものを、できるだけいっしょに食べ、かつ飲むこと」と自分に課し、バングラデシュで残飯を食い、ドイツの刑務所内で食い「もの食う人びと」(共同通信社1994年刊)を書いた。残飯食は、なにも長い植民地政策に辛苦し独立戦争に疲弊したバングラデシュだけの風景ではなく、ほんの少し前の「近代化」のとば口にさしかかった日本(東京)の姿でもあったのだ。その風景は「どん底の人達」(原著は草間八十雄著玄林社1936年刊 近著は「近代下層民衆生活誌」明石書店1987年刊に収録)に詳しい。

 そして辺見 庸はその本のあとがきでこう書いている。

「高邁に世界を語るのではなく、五感を頼りに「食う」という人間の絶対必要圏に潜りこんだら、いったいどんな眺望が開けてくるか。それをスケッチしたのが、この本なのだと思う。」

 1969年に大菩薩峠の大量逮捕で解体的ダメージをおった赤軍の逮捕者のひとりに兵士M・Wがいた。彼は2年近い拘留から出所し、赤軍再建のために労働者の町釜ケ崎に入り、そこで労働者を対象にした食堂(ラーメン屋)を始める。

 インスタントラーメンを安価で提供する店を出したのだ。

 その活動の一環として悪徳手配師や暴力団と抗争し、労働者を排除し暴力団を擁護する公権力とも抗争を始める。

 そして、水崎町派出所爆破事件と土田・日石・ピース缶爆弾事件の真犯人証言で再び拘留され、出所するのは10年後である。彼は再び釜ケ崎へ戻り「労働者食堂」を再開するが、今度は党派と決別しアナキストとしてであった。そこで彼は金のない者には、「つけ券」を発行し後払いで食べさせたり、食堂の労働を1時間したら100円の「労働貨幣」を発行して食べさせた。当然赤字である。赤字分は酒もタバコもやらないM・Wの日雇い労働で補ったものの3年しかもたなかった。3年ももったというべきか…

 彼は1989年に挫折し「労働者食堂」を閉鎖し、ペルーに渡りそこで死ぬ。

 彼が運動の中でこだわったことも結局「食」ではなかったのか?と思う。党派論理の先に見えたのが「食」であり、「食」を「生きること」の原点と見ていたのだと思う。

 私はハンセン病療養所入所者、アイヌ民族、在日本外国籍の人々、オーバーステイの人々、沖縄や南の島々の人々、受刑・拘禁者、戦時下の人々、東京下町の人々…その人々が何をどういう風に、どういう思いで食べてきたかに強い関心がある。

さいごに

 私の食に対する「意見」が少しは影響したのか、私にあぶらかすを届けてくれた部落解放同盟奈良県連合会がホームページに「名物料理レシピ」としてあぶらかす料理を紹介するページを作ったのだ。実際には重要な問題が山のようにあり、「食」に関して時間を割くという事ができないだろうし、「食」に関して重要性を見出すこともなかったと思うが、「食」が文化であるという私の意見が反映されたようで、少し嬉しかった。

 また、世の中には頼もしい店もある。
 滋賀県草津市にある「じんじん」ではアブラカス料理を客に提供している。「アブラカスのハリハリ鍋」で、アブラカスと水菜の鍋物であると思う。他にも「アブラカスのもやし炒め」「アブラカスうどん」があるし、ナカモンもミノのてんぷらや天丼がある。滋賀県はその他にもサイボシや鮒鮨も著名であるので、是非機会を作りたいと思う。(鮒鮨は高価なのでA級グルメであるが…)もちろん「じんじん」でもサイボシは食べられる。(店名の「じんじん」は水平社宣言の「人の世に熱あれ、人間に光あれ」からとったと言う)

 大言壮語しすぎたのでこのコーナーは続かないかもしれない…
+A級グルメ3 もんじゃ その2

いしけりへの疑問

 前回「いしけり」について述べた時に、ある人から質問がありました。「どちらの足で蹴るのか?」という質問です。つまり「けんぱ系」(特定された所に石を投げ、それをある定められた方法で取りに行くという石のスローの正確さを競う遊び)の遊びでは石を蹴らないのに「いしけり」と言うからです。

 私が説明した「いしけり」は、「地面に着いている方の足で蹴る」のです。つま先で蹴ったり、横で蹴ったり、あるいは前回にも説明しましたように石を踏むようにして場所を移動させる、という種々のテクニックがありました。

 システムを分析すると「片足で跳びながら石を蹴り、その石を目的の場所に移動させ、しかも石も足も線を踏んではいけない」という遊びになるでしょう。

 こう書いている内に思い出したことがありました。石はどこからか拾ってきて「作る」と説明しましたが、売っていた「石」もありました。それはガラス製の掌大の「おはじき」でした。本来何に使うのか分かりませんが、それは駄菓子屋で売っており、「いしけり」の「石」の代わりに使っていた事がありました。ただすべりが良くストップが効かないという欠点もあったように記憶しています。

 本来なら「もんじゃ」の話をしたいのですが、ついでですので駄菓子屋のれんじ窓から見ることが出来た遊びのなかから「めんこ」と「ベーゴマ」について述べておきたいと思います。

めんこ

 めんこに関してお話するとなると一冊の本になってしまいます。江戸時代の素焼きのめんこからはじまって、鉛めんこ、庄屋券等々…これはたいへんなことになってしまいますので、私がやっていた遊びのなかからいくつかご紹介したいと思います。

 まずめんこの事ですが、紙製で名刺よりふたまわりほど小さくしたサイズのものを「めんこ」と言っていました。それ以外に「かわりめん」と言って形が円形の「まるめん」、厚さが厚い「あつめん」、薄い紙質で写真だった「写真めん」、とありました。「まるめん」には大・中・小とあり小はロウで固められていたため「ろうめん」とも言われていたと思います。私たちはまるめんでめんこをする事はありませんでした。やってみるとわかるのですが、空気抵抗が多くやりにくいのです。ところがまるめんでめんこをやっている古い写真をよく見ますので、場所や時代によってまるめんが中心だったこともあったようです。まるめんの「小」は親指と人差し指で飛ばせる大きさで、めんこ以外の遊びに使われました。

 「あつめん」は「だし」(後述)の「親めん」に使われる事がありましたが、ほとんど使われなかったと思います。写真めんは紙質が薄いので多分めんこ用に作られたものではなかったはずです。その当時の映画俳優などの写真で作られていてブロマイドの代りだったのかもしれません。たまに年上のこどもに「月光仮面」の写真めんをもらったりしましたが、写真めんそのものに関心がなかったため、集めたりはしませんでした。

「おこし」

 さて、初歩的なめんこのゲームのひとつは「おこし」です。順番に打っていって相手のめんこを裏返しにしたら勝ちで、そのめんこを取る事ができます。裏返しにならなくとも、「さば」と言って相手のめんこの下に入っても勝ちでした。わずかに下に入ることを「ちびさば」と言い、時として判定でもめたりしました。また「とんねる」と言って相手のめんこの下を潜り抜けても勝ちでしたが、「さば」も「とんねる」もオプションルールで、始める前に決めます。「さば」はできやすいので、年下の子供がいる場合などは採用されませんでした。

 このルールは多人数でもできますし、二人でもできます。二人でする場合は「かけ」と言ってめんこを何枚か出し、負けたらそれも取られるというルールで、熱くなるギャンブルでした。(その時のめんこの出し方ですが変わった風習がありました。数えて同数出すのではなく、山にして出し上から押さえつけだいたい同じ高さにするのです)1日で菓子箱いっぱいのめんこを失ったりします。その時一番信頼のあるめんこをいつ出すかが、駆け引きでした。「一番信頼のあるめんこ」を失った時の絶望感は筆舌に尽くしがたく(おおげさですね)実に辛いものでした。

「だし」

 「だし」はろうせきなどで円を書き、その中に同じ枚数を入れ、おこさなくてもその円から出せば取れるルールでした。このルールの時に「あつめん」を親めんとして使ったりしました。

「つっけん」

 めんこを出し合い一つの山にします。その山に向けてめんこを打っていきます。はじき出されたら取れます。また、さばのように間に挟まった場合そのめんこから上にあるもの全部が取れました。これは通常の打ち方と違うので、得意、不得意がありました。

 めんこを使った遊びもいくつもありました。誰かが親になって自分のめんこを何枚か裏向きにおき山札を何個か作ります。子は自分のめんこをその山のひとつに賭けます。賭け終わると親は山札を1枚ずつめくっていきます。その山のめんこに描かれた人物の数で勝負を競うのです。乗り物は「のりもの1000人」と言って1000人分と換算されます。滅多に自動車が走っていない時代ですし、ビラを蒔くヘリコプターを追いかけた時代ですから、子供たちの乗り物に対するあこがれを感じ懐かしく思います。

 お笑い三人組やあきれたボーイズなどが出ると嬉しかったものです。

 めんこを強くする方法を教わったり、大きくなって「引退」する人に強いものをもらったり、いろいろドラマがありましたが、それらが駄菓子屋やもんじゃの周辺で起きていたのです。

ベーゴマ

 ベーゴマは高度な技術と体力が必要となるので、最も惹きつけられた遊びだったと思いますが、私の体力がつきだす年齢に「ベーゴマ」そのものが消えてしまったので、私は「ベーゴマライフ」を満喫したとは言えません。

 ベーゴマをプレイする所を「床」と言います。これは道具を言う場合もありましたし、場所を言う場合もありました。道具としての床はつけもの樽に防水シートを被せロープで結わいて作ります。子供たちの床は「でき床」でプレイヤーが集まるとできますが、大人(今から思うと自転車屋や工場の職人さん達がいましたから本当に「おとな」でした)達には「じょう(常)床」があり、夕方になるとその場所でいつもプレイされていました。また、床(場所)によってレベルの違いもあり、徐々に高いレベルの床に挑戦していくという楽しみもあったようです。

 ベーゴマが取ったり取られたりのギャンブルであり、しかもベーゴマが飛んでガラスを割ったりするので、地域の人々には疎まれていたのではないでしょうか?

 ベーゴマの原理はいたって単純です。紐でこまを回すだけです。それを床の中に入れ闘わせるのですが、はじかれて外に出たら負けです。同時に出た場合は「ばっかん」と言って引き分けです。はじかれて床の中で逆さまになると「かま」(「おかま」が語源?)と言いそれも負けになりますが、それは「かまあり」「かまなし」と最初に決めるオプションルールでした。あるいは「りき(なし)」と言って床の中で止まってしまっても負けです。

 ふたりですることもありますし、多人数ですることもありました。二、三人でする場合は「チッチのチ」と掛け声をかけ同時に「床入れ」します。それ以上ですと「オッセン」と言って順次床入れします。

 床入れの時に入らなかったら「でめどり」(「でもどり」が語源?)と言い、その回に勝った人のものになりますがオプションルールです。ベーゴマに限らず総てのギャンブルゲームに「ほんこ」「うそんき」がありました。「ほんこ」は本気の事で取ったり取られたりします。「うそんき」は「あそび」とも言い取ったり取られたりしません。ベーゴマに関しては私は幼かったので「うそんき」以外ではさせてもらえませんでした。

 金魚すくいにも「本気」と「遊び」がありましたが、今ではなくなってしまったのでしょうか?「遊び」5円、「本気」10円でした。

 技をいつくかご説明いたしましょう。

 「がっちゃん」…先に入れている相手の上に落とし、はじき出すか「かま」になることを目的としたものです。上手な人の中には自分のベーゴマを回転させないで相手の上に落とすことができました。回転していないと自分がはじき出されにくいのです。しかしすぐ止まってしまうのでかなりの自信が必要だったはずです。

 「つっけん」「ひっちゃき」…「つっけん」は相手のベーゴマの手前に入れること。その逆は「ひっちゃき」です。つっけんは「りき勝負」に自信がある時に用いられます。「ひっちゃき」ははじく事を目的にしますが、床の上端に入れ下に下りていくスピードを利用して相手のベーゴマをはじく技は見事なものでした。

 ベーゴマは改造され色々なタイプがあり、ルール別・タイプ別の戦術がそれぞれありました。高さの高いもの(タカ)、低いもの(ペチャ)、先のとがったもの(ハリケツ)、ひとつの角だけ削ったもの、上から見ると桜の花に見えるもの(サクラ)、楕円のもの、ふたつを重ねたもの(スイショウ)…等々数えきれないほどのタイプとアイデアがありました。水につけてサビをつけてから削ったり、土の中に埋めたり、秘伝の数々がありました。ベーゴマを竹の先につけて道路で削る風景は現在では滝田ゆうの漫画の中だけの光景でしょう。

 紐を巻くのを家で練習したり、強くなるために(ベーゴマやヒモを)改造したり、技を伝授してもらったり…思いでは山のようにあります。

 先月の質問コーナーに寄せられた質問は「ベーゴマの語源は何?」でした。

 ベーゴマの語源は「バイ貝こま」です。バイ貝を紐でまわして遊んだのがルーツです。バイが関東訛りで「べい」となり、バイゴマがベーゴマになった次第です。私がこの説明をした時にショックだったのは、質問者が信用しなかったことです。これは私の説ではなく、普遍的に言われていることなのです。

「日本全国児童遊戯法」大田才次郎編(1901年刊:平凡社東洋文庫122)の甲螺貝廻し(ばいまわし)の項目にこうあります。

「ばい廻しは甲螺貝(ばいがい)をむしろの上にてまわし、互いにその外にはね飛ばしあうなり。故にむしろの中央を押してくぼみあるようになし置けば、互いに触れあいて、勢い強きものは弱きを外にはじき出すなり。さればこの殻中に鉛を溶し注ぎて重量を付する等のこと行われぬ。」

 さらに「…この殻中に鉛を溶し注ぎて…」とあります。100年も前から改造が行われていたのです。数々の秘術や奥義があったはずです。

 さて、もんじゃに話を戻しましょう…

昨今のもんじゃ事情

 かつてこれほどもんじゃが普遍的になると誰が予想したでしょう。私が小さい頃もんじゃは当然有名でしたがそれは限られた地域内のことでした。他地域の人と接するようになってから「ちくわぶ」同様もんじゃもけして一般的な食べ物ではないことを知ります。少なくとも中央区、千代田区、台東区、墨田区、荒川区の駄菓子屋で私は食べた事がありますし、母も1930年代に同様の体験をしています。

 しかし残念ながら一般的に有名な食べ物ではありませんでした。  
 私にはもんじゃが今日の知名度を得た契機、時期についての記憶がありません。ただ駄菓子屋が駆逐されてから随分と経ってから知名度を得たので、もんじゃ空白期間は長かったのではないでしょうか?とにかく気がつくと有名になっていたのです。ところが有名になったもんじゃは駄菓子屋ではなく、お好み焼き屋風の店舗で食べられていたのです。ほとんどの場合お好み焼きのメニューもあります。下手(?)するとヤキソバだの鉄板焼きだのというメニューも併設しているお店すらあります。

 そこで供されているもんじゃには種類があり「なになにもんじゃ」と名打ちトッピングの妙を表現するものもあります。当然価格も高くなり1人前800円だの900円だのと言った価格が珍しくないわけです。43年前のもんじゃの5円は、サイコロキャラメルと同じ値段だったので、現在の50円くらいでしょうか?

 そして月島派のもんじゃではありませんが、食べてみると全く別物です。

 私と私の周囲のもんじゃ愛好家は、外でもんじゃを食べるということを全くしなくなってしまいました。それは外でのもんじゃが食物として失格なのではなく私達が昔から知っているもんじゃとは異質の食物という感覚です。ですから家で食べるようになってしまいました。6人ぐらい座れる鉄板が我が家にあった事もあります。その中で猫が寝ていて、知らずに火をつけあわてて飛び出てきた猫の毛が焼けていた、という彼(猫)にとっては不幸なエピソードもありました。さらにテフロンに使える樹脂製のはがしという新機軸が登場してからもっぱらテフロンの電気グリルを使うようになりました。はがしが樹脂で軟弱なので力が伝わらず心が伝わらないという歯がゆさがありますが、その程度は我慢すべき時代なのでしょう。

 けして冗談ではなく各町内に「名人」がいてホームパーティー(もんじゃにそぐわない単語ですので「寄り合い」と言い換えましょう)や無尽などがあると作ってもらったりしました。名人といわれている両国のK君や畳屋のYちゃんは実在の人物です。

 話はかなり遡ります。ただもんじゃから、キャベツとさくらえびとキリイカが入ったと説明しました。その後に入ったのは「インスタントめん」です。

「♪雨が降ってる日曜日、ぼうやどろんこどうしたの♪」で有名な明星即席ラーメンというインスタントラーメンが世間を驚かせた時、人々はあらゆる食べ方をしました。お湯をそそいで食べることはもちろん、大人はそのままをビールのおつまみに…そして駄菓子屋はもんじゃに入れたのです。オロナミンCをミルクセーキにしたりウィスキーで割ったりしたのと同じムーブメントでしょう。(ミルクセーキの「セーキ」は今で言う「シェイク」のことでしょう…多分)

 それはあっという間にもんじゃ世界に浸透していきました。乾燥したインスタントめんが本液の中で少しづつウェットになっていき、頃合を見計らってジャッ!と鉄板の上にぶちまける光景は胸躍る1シーンでもありました。しかし問題もありました。もともと味のついているインスタントラーメンのため本液が塩辛くなるのです。そこで登場したのが「ラメック」ですが、「ラメック」の登場には10年単位の時間が必要でした。

 即席ラーメンのファドが終息し、駄菓子屋が駆逐され、もんじゃが人々の記憶の中だけに残るようになった時、「ラメック」が登場したのです。これは薄味のベビースターラーメンで現代もんじゃに必須のものとなったのです。ですから「ラメック」をもんじゃに入れる事を発案した人はわかりませんし、本来「ラメック」がもんじゃに使うために開発されたかどうかも定かではありません。しかし現代では「ラメック」の無いもんじゃは考えられません。(「ラメック」の語源はラーメンスナックでしょう…多分)

 外で食べるもんじゃに「ラメック」が入っていれば少しは行ったかもしれませんが…先日新橋(東京都港区)のお店で「ベビースターラーメン入りもんじゃ」という誇らしげなメニューを見かけました。「ちがうんだなぁ」と思いました。ラメックが品切れなのでベビースター…というならわかりますが…

今後について

 その後もんじゃらしき食べ物が各地(埼玉県や神奈川県)に存在する事を知りました。しかし関東近県です。私は個人的に関西の「たこ焼き」がもんじゃの近縁であると認識しています。最近東京でもおいしいたこ焼きが食べられるようになりました。私の思うおいしいたこ焼きというのは、中身が均質でドロッとしたウェットさです。そこにソースとたこの味が加わりますが、実に伝統的駄菓子屋もんじゃと似ていると思います。それに加え魚介類をソースで食べるという状況も似ているのではないでしょうか?

 ある関西の人に「昔はたこ焼きは家で焼いたりもした」と聞きましたので、ますますもんじゃとの類似点を見出した思いがしました。

 言葉や遊びと同様に食い物も時代とともに変遷していきます。なにも伝統的駄菓子屋もんじゃが本物で後は似非だ、と言いたいのではありません。もんじゃにまつわる「遊び」も含めてただ懐かしいだけです。それにやっぱりぜったい+A級グルメです。

「あそび」について

 私は今回「あそび」について結果的にこだわることになってしまいました。そしてその「あそび」が実に大切であることも再認識しました。

 「あそび」とスポーツの違いのひとつは「ルール運用」です。

 「あそび」では低年齢の子供のために「おまめ」「おみそ」ルールがありますし、年齢やメンバーや運動能力によって毎回ルールを決める場合が少なくありません。ルールは自分たちで活用し、自分達で運用する、という空間がそこにあります。それはすばらしい事に思えます。「おまめ」「おみそ」ルールがあるからこそ年下の子供や力のない子供から搾取したりしなかったのだと思います。

 もうひとつの違いは「選択、あるいは排除」の論理です。
 ルール運用と重複しますが、「あそび」はルール運用が可能だからこそ色々な人が参加できます。また、参加できるようにルールを変更したと記憶しています。スポーツの場合は与えられた事ができるかどうかが問われ、しかも対外試合などがあるとレギュラーを選別します。これは排除の論理です。さらに運動機能に障碍があると最初から加われません。

 「あそび」とスポーツの決定的な「違い」はここにあるようです。多くの子供達と接していると(私はけして教育者ではありません。子供を集めてゲームをするのが好きなだけです。周りの人は「非教育者」と呼びますが…)その親が「あそび」とスポーツの区別ができていない事が多いことに気づきます。屋外が自動車等で危険で遊ばせられないため、野球やサッカーのチームに入れている、といったようにです。しかし彼女彼ら親の気持ちもわかります。安全な場所は少ないし、小学校高学年の遊びは公園では禁止されているものが多いし、だいたい子供がいません。路地にゴザをひいてママゴトや色水遊びをする光景はこの世から消え去った感があります。「あそび」が失われた時代になっているのです。

 しかし子供もある年になってくると「あそび」では満足できなくなって「あそび」から脱却しはじめます。そこでスポーツの楽しさを知るのです。その年齢は人それぞれ違うでしょう。「どこいき」より110メートルハードルや3000メトール障害が、ゴム段よりハイジャンプが、軍人合わせより将棋や碁が、ビーダマよりパチンコが…それらがおもしろくなる時代がやってくるのです。それは自然にやってきます。「あそび」のステージを終えているからこそその楽しさが判るのだと思います。  
 ですからスポーツは「あそび」の代替行動ではなく、自らが欲して身を投じるべきものです。(かなりおおげさ)

 もっと、もっと「あそび」をしたいと思っています。
 私はいまだに子供たちとカンケリやカクレンボやテンカトリをやっていますが、それは私が勝てるからではなく、楽しいからです。

 最近は私を父とする人(うーん、なんか難解な表現ですね)が子供たちを集めてゲームをやっています。上は中学生から下は幼稚園児までです。その子供たちの未知なる「あそび」に接した時の本当に楽しそうな表情を見ると大切にしたいと思います。ゲームをした後におやつでもんじゃを食べるのですが、ゲームの感想戦をしながらハガシを操る光景は私の貴重な財産となっています。

 ここにはけして失ってはいけなかった時代の痕跡があるようです。(つまり失ってしまったということ…)
+A級グルメ3 もんじゃ その1

 もんじゃに関しては一度どこかで書きたいと思っていました。また、前もってお断りしておきますが非常にローカルな話しです。

もんじゃという言葉

 もんじゃはもんじゃとも言われるし、もんじゃ焼きとも言われますが、私の感覚では「もんじゃ」です。もともと「さけ」と言っていたものを、洋酒の登場により「日本酒」という対抗表現が生まれたように、お好み焼きの対抗表現としてもんじゃ焼きという言葉が生まれたように思っていました。ところが実際には違うことが後に分かります。

 かつてもんじゃとお好み焼きが同じ店で食べられる事は皆無だったと断言できます。もんじゃは駄菓子屋の片隅に棲息するものであり、お好み焼きは大人が入る飲食店のものだったからです。その中間的な存在として「どんどん焼き」があったと思います。どんどん焼きは露天で売られる薄いお好み焼きで、ソースをはけでぬったりあるいは甘い味のする赤か緑の材料で線画がかかれていたりしました。主に古新聞にくるまれて渡されます。

 子供どうしで日常的に食べるのがもんじゃで、イベント(ハレ)の時に食べるのがどんどん焼きで、大人がつれて行ってくれるのがお好み焼きでした。それらは完全に分離されていて全く異なる種であると判断されていました。しかしなんといっても私はもんじゃが一番好きでした。残念な事にあの当時のお好み焼きをおいしいと思ったことはありません。それはもんじゃの存在の故でしょう…いか天、しょうが天、豚たま天とかを醤油で食べていました。(なぜ「~天」というのか?という問題も興味があります。天カスが入っているから「天」と言うのでしょう。しかしさつま揚げを「天ぷら」と言う事と関係があるのでは、と疑っています。)しかし、昨今広島風などのお好み焼きが登場し、けっこう食べます。

 子供の頃はなんら不思議に思わなかったのですが、ある程度大きくなるともんじゃの語源について論議する時間が増えました。それは他地域の人々と接するようになったことも大きな要因だったと思います。その論議の中で種々の「説」に遭遇しました。

●字を書くように焼いたから…文字説

●文字屋(もっともらしい地名付きで)という店が始めたから…店名説

●なんじゃもんじゃ(千葉県の妖怪伝承が語源)から…つまり正体不明の食べ物。…語呂説

 それらの俗説について検証する余裕はありません。そしてそれらはもんじゃ体験のある人全員の心の中になんらかの印象を残していると思います。

 私はその語源をある偶然で発見しました。資料を調べている時に見つけたのです。もちろんもんじゃの研究をしていたわけではありません。それは社会学的な文献です。

 もんじゃの特徴はなんといっても「はがし」にあります。はがしがなければもんじゃは食べられないといっても過言ではありませんが、そのはがしが本来は「一文字べら」という名だったことを知ったのです。たしかに単なる「打ちぬき」で作っていますので、一文字のへらという言い方は言い得ていて妙です。私は次の経過を想像しました。

 一文字べら焼き(これはまだ名前がない創世期の便宜的呼称)→一文字焼き→文字(ここは是非「もんじ」と発音していただきたい)焼き→もんじゃやき→もんじゃ!

 この「想像」は私を興奮させました。

 1893年に刊行された松原岩五郎の都市レポート「最暗黒の東京」(岩波文庫 青174-1、35ページ)の細民の稼業の項の所に「児供を集えて文字焼をなす一文菓子の小店」と書かれている個所に出会い全身が震えるがごとく感動しました。

 そこには、文字焼と駄菓子屋(一文菓子屋)について言及しており、特にそれらについてあえて説明をしていないので、すでに説明を必要としないものになっていたと想像できます。なんと100年以上も前から駄菓子屋でもんじゃが食べられていたのです。

 ただし、もんじゃに関する研究がどれだけあり、どんな論文があるか全く調べていませんので、私の発見は陳腐なものかもしれません。


もんじゃの流派

 もんじゃに流派などあるわけないのですが、月島(東京都中央区)がもんじゃの本場と喧伝してから対抗概念として「流派論」がでてきたようです。月島に対抗しこちらが本場と称した荒川区のお店が「はとバスコース」(都内観光コース)に入り、朝日新聞も取材しかなり世間を騒がせたのは記憶に新しいところです。厳密に言うならば本場を主張したのではなく、月島が本場ではないと主張したので、月島派と反月島派に明確に分離したという言い方が正しいでしょう。

 私も初めて月島でもんじゃを食べた時、たいへん違和感をおぼえました。まず食べ方ですが、月島流は具であらかじめ土手をつくりその中に本液を流し込みます。私たちのもんじゃの原点は「ただもんじゃ」ですので、当然土手を作る具など存在しないわけです。

 さらにお店の人に調製を頼むと、大きなはがし(正しい名称は「へら」でしょうか?)を持ち出してくるので、どうも馴染めません。やっぱりもんじゃにははがしです。

 今から42年ほど前のもんじゃ状況を説明しておきましょう。

 もんじゃにはまず二つのタイプがありました。最初からソースが入っているものと、そうでないものです。ソースが入っていないものは好みでソースが入れられたのである限定された楽しみはありましたが、最初からソースが入っている店の方が味がよかったと思います。いわゆる「具」がなく、それだけのものを「ただもんじゃ」と言います。

 余談になりますがソースの入っていないものの場合入れたソースの塩梅を見るために「生で」味見したりしますが、私の姉が「エキリ(疫痢?)」になった時には母はそれが原因だと信じ込み、しばらくもんじゃを禁止するという悲しい歴史がありました。

 中には家から玉子を持ってきて入れる輩もいました。(持ち込み料はとられません)これはお好み焼きに対するコンプレックスの表れで、少なくとも私や私の兄弟はしなかったし、快く思ってもいませんでした。逆を言えば玉子が貴重だった印象がまだ残存していた時代だったのです。確かに子供に人気のあったものは巨人、大鵬、たまご焼き、だったはずです。

 夜店の露天で売るベビーカステラ(北海道では「東京ケーキ」)や、ヤキソバの屋台には必ず玉子の殻がところ狭しと「展示」してありました。それは「玉子がはいっているんだぞ!」というたいへん強い自己主張であったわけです。(オモトなどの観葉植物にもよく玉子の殻を乗せていました)

 ですから玉子の入っているお好み焼きと入っていないもんじゃを対比させ優劣を感じる輩がいてもおかしくはない時代だったのでしょう。  その当時の値段でお椀が5円、どんぶりが10円でした。

 ただもんじゃという単語があるからには「ただ」ではないもんじゃがあったわけですが、そこにはキャベツとさくらえびが入っていました。キャベツはほんの少し、さくらえびは2、3匹です。「ただもんじゃ」と「もんじゃ」のふたつのメニューを準備してあった店は確かにありましたが、いつしかキャベツ・さくらえび入りもんじゃに統一されていったと記憶しています。その後「きりいか」(よく「さきいか」と勘違いする人がいますが…)がほんの申しわけ程度に入るようになり、ただではないもんじゃのプロトタイプが形成されていったわけです。
 ですから具で土手を作るもんじゃに違和感を感じたのです。

 ではどうやって焼くか…それについて述べていきましょう。

焼き方

 まず混ぜます。次にほとんどすべてを鉄板の上にぶちまけます。本液があたかも意志があるかのように低いところを目指して走ります。その逃亡をあわててはがしで防ぎます。気泡が立つようになってからはがしで成形していきますが、ここからふたつの焼き方があります。

 粘度の増した本液の下に少々固形化したベースができます。ひとつはこのベースをまだ固形化していない部分にはがしで混ぜ込みます。(図1、2)はがしに微妙に乗る粘度になったらそのはがしを返し本体上部を鉄板につけるようにし、上から火を通すかたちをとります。(図3)これが本道をいく食し方です。

 念のために食べ方について説明いたします。当然はがしは熱いので唇をつけると火傷をします。はがしについた熱いもんじゃを歯でこそぎおとすように食べます。

 もうひとつの焼き方は、少々固形化したベースの上にのったまだ粘度が増していないそれをすぐ脇にやります。残ったベースの上にスプーンで本液を少しづつ足していきます。この場合初期行動で「すべてをぶちまける」してしまいますとこれができません。ベースは正円に近ければ近いほど賞賛されます。それを丹念に焼き重ねていくのですが、火が通りすぎると焦げてしまいますので、お好み焼きのように裏に返したりしますが、両面を均等に焼いてしまいますと興趣が半減します。どちらかの面が焦げぎみで、もう片面がウェットという感じが最高です。それを焼くことは時間もかかることなので、その間普通にもんじゃも食べます。スプーンで本液を足していくといっても、お好み焼きのように厚くなることはありません。足す事によって表面の凹凸を減らしなめらかにしていくという感じでしょうか…

 さて焼きあがったそのものの名称は「おせんべ」といい、おみや(おみやげ)にするのです。お店の人に新聞紙をもらいそれにくるんでポケットにしまいます。冬などは伝わってくるその温かみがなんとも心強く、しかもかわいい存在でした。

 ゴム段、どこいき、石蹴りなどで遊んでいる時におもむろにポケットからそれを出して食べるのが楽しかったのです。すると年下の子供達が欲しいとせがみます。そんな子供達を一列に並ばせて「おせんべ」を少しづつちぎって口にほうり込んでやるのですが、それはまるで聖体拝受です。それでみんなで心底からニコニコできた夢のような奇跡の時代でした。

ゴム段、どこいき、石蹴り

 少々脱線しますが今出てきた遊びについてお話しましょう。

ゴム段 

 かなり長い生ゴム(2~4m)を用意します。これは「駄菓子屋」で売っています。ゴムを持つ子供を二人決めます。いわゆる鬼です。その二人はゴムを持ち「走り高跳びのバー」の役割をゴムでしていきます。

 ゴムはどのように高くなっていくかというと、解剖学的に高くなっていきます。最初は足首、膝、腰、胸、肩、耳、頭のてっぺん、というようにです。

 跳び手は助走をつけて跳びますが、走り高跳びのように飛び越えるのではなく、足首にゴムをかけて「向こう側」に達すればいいのです。ですから跳ぶ瞬間は後ろ向きになります。

 失敗すると鬼と交代します。失敗とはゴムが足首にかからなかったり、着地の時に踏んだり、両足の間に入ったりです。場所によってはゴムが服に触れるのも失敗としていたところもあり、スカートの女の子などはスカートの裾を下着の中に押し込んでいました。

 当然「おまめ」「おみそ」ルールがあり、腰以上はくぐりぬけるだけでいい、といったものだったと思います。(「おまめ・おみそルール」とは幼年者の救済ルール。「おみそ」は「みそっかす」の省略形…多分)

 胸以上になるとさすがに跳べる子供は限られますが、跳べる子供は「期待の星」で別の町内からやってきた子供達と対戦するときには(もちろん団体戦はありません)皆で固唾を飲んで見守ったものです。

 ただし、この遊びは「女の子」の遊びで、私は姉に連れられ「おまめ」で参加したことがあるにすぎません。

どこいき

 私が好きだった遊びのひとつが「どこいき」でした。滝田ゆうの作品で見た時には本当に懐かしさで胸がいっぱいになったことを覚えています。

 この遊びは「目的地別かけっくら」(「かけっくら」というのは「かけっこ」のことです。)です。地面に図のように書きます。

 分割したマスの中に目的地を全員で協議しながらローセキを使って書いていきます。中央には小さな円を書き「あたり」ということで最も近いところ、あるいは移動しなくてもいいという指示をしておきます。

 描いた円から何メートルか下がったところに線を引きます。それは石を投げる場所でもあり、「かけっこ」のスタートでもあります。子供達はその線から円に向けて石を投げます。この石は「いしけり」に用いる石です。その石が入ったところが目的地となります。

 全員がそれぞれの目的地が決まったところで、スタートラインに集まります。スタートラインに並んだ子供たちはてんでんばらばらの方向を向いていて、それが楽しいのです。誰かの号令でスタートし、各自定められた目的地にタッチして戻ってきます。一番最初に戻ってきた子供が一番となり、次のプレイに入って行きます。このように説明すると、何がおもしろいのか解り難いと思います。目的地が違うのですから距離の違う競争で、おのずと順位は決まってしまいます。

 おもしろさのひとつは「自分だけが知っているルート」です。例えば他の者と目的地が一緒になった場合、そのルートを知られないようにスタートをわざと遅らせたり、逆の方向に走り出したりします。(もちろんその「秘密」はすぐにわかってしまうのですが…)そのルートを使い目的地が同じ相手より早く帰って来たりするのが愉快なのです。

 私はある家の裏を通るルートを開発していました。竹の垣根の下が破れていて潜り抜けられるようになっていたのです。ある時いつものようにそのルートを使い垣根の下に走り込んだら、ごみ箱でふさがれていていやというほど頭を打ちつけた事がありました。その家の人は子供に優しかったので、猫などの侵入に備えたものだったのだと思います。

 場所決め(円に記入する場所)、石投げ、ルート秘匿等々駆け引きのたくさんあった「多人数ソロプレイゲーム」だったと今では分析しています。

いしけり

 「いしけり」は概ね女の子の遊びだったと思います。私には姉がいたので、いしけりはたいへんよくやった遊びのひとつでした。たいへんたくさんのルールとバリエーションがあったと思いますが、よくやったふたつをご説明したいと思います。

 ひとつは初心者用で図のように地面にローセキで描きます。まず一に石を投げ入れ、次に片足で跳ねながら(その当時は「ちんちん」と言っていました。後に「けんけん」という言い方があることを知ります) 一に入り、自分の石を蹴って二に進み、次に三四と進んでいき、四までいったら石を手にとって雲に跳び、今度は二に石を投げ入れ二からスタートとなります。それが四までできれば「あがり」です。石が外に出てしまったり、線の上に乗ってしまったり、また自分が線を踏んだり、もう一方の足が地に着いてしまったりすると「失敗」となり、次の者の番になります。

 次は発展したものです。図のように地面に描きます。石を一から入れて行きます。折り返し地点まできたら「めそちあと」に向って石を投げます。「め」は「目をつぶる」、「そ」は「空を見る」、「ち」は「ちんちんで」、「あ」は「歩いて」、「と」は「跳んで」です。投げられた石が外に出たり線上に位置したりすると失格です。

 石の入ったところまでちんちんで行き、石を拾って指示に従いスタート地点まで戻ります。それが1ターンで、次には二に石を投じて第2ターンへと入って行きます。

 今から思うと「目をつぶって」や「空を見て」の場合、他の競技者が助けてくれないと目的は成就しませんし、実際に随分助け合っていました。その点からも「いしけり」は他者と競うのではなく、やはり多人数ソロプレイの性格が強いと思えます。「めそちあと」以外にも「あめりか」というものもありました。「あ」は歩いて、「め」は目をつぶって、「り」は両足跳びで、「か」は駆けて…だったと思います。

 「あしがえ」(蹴っている足を途中で変える事)の「あり・なし」や、石が割れた場合大きい方を「生き」にする、など色々オプショナルルールもありました。まだ下駄や板裏草履が珍しくない時代でしたので、みんな器用に石蹴りで遊んでいました。

 先の「どこいき」でもそうですが、ポイントのひとつは石の選択にあります。投げた石が転がってはどこへ行くかわかりませんので駄目です。割れやすい石もだめです。つま先で蹴りやすいように平板に近いものがいいのです。今から思えば不思議ですが、色々な種類の瓦がいたるところにありました。それを利用したのです。本瓦ですと重いので扱いにくく、薄い平板の瓦がありました。それが人気がありました。その瓦を割り、適当な大きさのものを他の石を使って成形します。これにもある程度の技術が必要だったと記憶しています。

 これらの遊びが淘汰された一番大きな理由は「土」の存在ではないでしょうか?舗装された道で、石を投げると、石が跳ねたり割れたりします。また石の存在でしょう。今では石はなかなか見つかりません。

 さて、話しを「もんじゃ」に戻しましょう。

お店と時期

 もんじゃをやっている店は駄菓子屋です。大抵ガラスの引き戸があり、入ると土間があって駄菓子が所狭しと並んでいます。壁には「あてもの」天井からは組みたて飛行機などの玩具が吊り下げられています。

 小さな子供達は「ちょうだいな」と言いながら入っていきます。小学校に入り何年か経つと「おくれ!」と言って入るようになります。その分岐点はお祭りで山車から神輿に変わる時期と近いかもしれません。子供達は店の人に最初にお金を渡します。それから駄菓子の物色を始めます。駄菓子を取って行くとお店の人が渡したお金から引いていってくれます。子供達は「あといくら?」と尋ねながら駄菓子や玩具を買っていくのです。多くの子供を同時に相手し、その計算をするのは今から思えば熟練のなせる技だったと思います。 あの時の買い物する時の安心感はその後体験することがありませんでした。自分の許容量をゆだね、足りなかったら足りないと言ってくれる環境は素晴らしかったと思います。今ではクレジットカードや「恋人のように親身になってくれる」ところがあるので、「あといくら?」とは聞けない怖い時代になっています。

 その土間の先に上がりかまちがあり、履物を脱いであがると2、3畳の部屋があり、そこに鉄板が置いてあるのです。鉄板はお好み焼きの物とは違う場合が多いようです。もんじゃの鉄板の辺縁には塀があり液体が下にこぼれおちないようになっていますが、お好み焼きのそれは塀がなく、逆にこげを落とす穴まで開いていたりします。

 その鉄板は夏は閉鎖され、かき氷を食べるちゃぶ台に変身します。その当時の大人達もビールは夏にしか飲まなかったと思いますし、冬にアイスキャンディーはありませんでした。夏休みが終り、衣替えが終ったあたりから子供達はお店の人に「もんじゃ、いつから?」と聞きます。お店の人は「そろそろ始めようかね…」と言い子供達は歓声を上げる、ということが年中行事のように繰り返されていました。時代や季節によって食生活に変化があった懐かしくも充実感のあった時の話しです。暖房と冷房が完備されていくとともに失ったもののひとつでしょう…

 あの当時のいわゆる下町の子供達は屋外で「生きて」いたので、幼稚園から帰ると誰を誘うともなく駄菓子屋へ行きもんじゃを食べました。小学生が来るまでのその時間は鉄板が大きく使える自由なる時間でした。しばらくすると小学生達が鞄を持ったままやってきます。考えてみればめんこもビー玉もベーゴマも買った記憶がありません。ほとんど駄菓子屋で知り合った小学生達に貰ったものでした。将棋も教えてもらったし、中学に入ったばかりの餓鬼大将に英語を教わった記憶もあります。

 駄菓子屋の前の路地は土でしたので、その前で色々な遊びをやっていました。その遊びをれんじ窓越しに見ながらもんじゃを食べるのもひとつの楽しみだったのかもしれません。