もんじゃに関しては一度どこかで書きたいと思っていました。また、前もってお断りしておきますが非常にローカルな話しです。
もんじゃという言葉
もんじゃはもんじゃとも言われるし、もんじゃ焼きとも言われますが、私の感覚では「もんじゃ」です。もともと「さけ」と言っていたものを、洋酒の登場により「日本酒」という対抗表現が生まれたように、お好み焼きの対抗表現としてもんじゃ焼きという言葉が生まれたように思っていました。ところが実際には違うことが後に分かります。
かつてもんじゃとお好み焼きが同じ店で食べられる事は皆無だったと断言できます。もんじゃは駄菓子屋の片隅に棲息するものであり、お好み焼きは大人が入る飲食店のものだったからです。その中間的な存在として「どんどん焼き」があったと思います。どんどん焼きは露天で売られる薄いお好み焼きで、ソースをはけでぬったりあるいは甘い味のする赤か緑の材料で線画がかかれていたりしました。主に古新聞にくるまれて渡されます。
子供どうしで日常的に食べるのがもんじゃで、イベント(ハレ)の時に食べるのがどんどん焼きで、大人がつれて行ってくれるのがお好み焼きでした。それらは完全に分離されていて全く異なる種であると判断されていました。しかしなんといっても私はもんじゃが一番好きでした。残念な事にあの当時のお好み焼きをおいしいと思ったことはありません。それはもんじゃの存在の故でしょう…いか天、しょうが天、豚たま天とかを醤油で食べていました。(なぜ「~天」というのか?という問題も興味があります。天カスが入っているから「天」と言うのでしょう。しかしさつま揚げを「天ぷら」と言う事と関係があるのでは、と疑っています。)しかし、昨今広島風などのお好み焼きが登場し、けっこう食べます。
子供の頃はなんら不思議に思わなかったのですが、ある程度大きくなるともんじゃの語源について論議する時間が増えました。それは他地域の人々と接するようになったことも大きな要因だったと思います。その論議の中で種々の「説」に遭遇しました。
●字を書くように焼いたから…文字説
●文字屋(もっともらしい地名付きで)という店が始めたから…店名説
●なんじゃもんじゃ(千葉県の妖怪伝承が語源)から…つまり正体不明の食べ物。…語呂説
それらの俗説について検証する余裕はありません。そしてそれらはもんじゃ体験のある人全員の心の中になんらかの印象を残していると思います。
私はその語源をある偶然で発見しました。資料を調べている時に見つけたのです。もちろんもんじゃの研究をしていたわけではありません。それは社会学的な文献です。
もんじゃの特徴はなんといっても「はがし」にあります。はがしがなければもんじゃは食べられないといっても過言ではありませんが、そのはがしが本来は「一文字べら」という名だったことを知ったのです。たしかに単なる「打ちぬき」で作っていますので、一文字のへらという言い方は言い得ていて妙です。私は次の経過を想像しました。
一文字べら焼き(これはまだ名前がない創世期の便宜的呼称)→一文字焼き→文字(ここは是非「もんじ」と発音していただきたい)焼き→もんじゃやき→もんじゃ!
この「想像」は私を興奮させました。
1893年に刊行された松原岩五郎の都市レポート「最暗黒の東京」(岩波文庫 青174-1、35ページ)の細民の稼業の項の所に「児供を集えて文字焼をなす一文菓子の小店」と書かれている個所に出会い全身が震えるがごとく感動しました。
そこには、文字焼と駄菓子屋(一文菓子屋)について言及しており、特にそれらについてあえて説明をしていないので、すでに説明を必要としないものになっていたと想像できます。なんと100年以上も前から駄菓子屋でもんじゃが食べられていたのです。
ただし、もんじゃに関する研究がどれだけあり、どんな論文があるか全く調べていませんので、私の発見は陳腐なものかもしれません。
もんじゃの流派
もんじゃに流派などあるわけないのですが、月島(東京都中央区)がもんじゃの本場と喧伝してから対抗概念として「流派論」がでてきたようです。月島に対抗しこちらが本場と称した荒川区のお店が「はとバスコース」(都内観光コース)に入り、朝日新聞も取材しかなり世間を騒がせたのは記憶に新しいところです。厳密に言うならば本場を主張したのではなく、月島が本場ではないと主張したので、月島派と反月島派に明確に分離したという言い方が正しいでしょう。
私も初めて月島でもんじゃを食べた時、たいへん違和感をおぼえました。まず食べ方ですが、月島流は具であらかじめ土手をつくりその中に本液を流し込みます。私たちのもんじゃの原点は「ただもんじゃ」ですので、当然土手を作る具など存在しないわけです。
さらにお店の人に調製を頼むと、大きなはがし(正しい名称は「へら」でしょうか?)を持ち出してくるので、どうも馴染めません。やっぱりもんじゃにははがしです。
今から42年ほど前のもんじゃ状況を説明しておきましょう。
もんじゃにはまず二つのタイプがありました。最初からソースが入っているものと、そうでないものです。ソースが入っていないものは好みでソースが入れられたのである限定された楽しみはありましたが、最初からソースが入っている店の方が味がよかったと思います。いわゆる「具」がなく、それだけのものを「ただもんじゃ」と言います。
余談になりますがソースの入っていないものの場合入れたソースの塩梅を見るために「生で」味見したりしますが、私の姉が「エキリ(疫痢?)」になった時には母はそれが原因だと信じ込み、しばらくもんじゃを禁止するという悲しい歴史がありました。
中には家から玉子を持ってきて入れる輩もいました。(持ち込み料はとられません)これはお好み焼きに対するコンプレックスの表れで、少なくとも私や私の兄弟はしなかったし、快く思ってもいませんでした。逆を言えば玉子が貴重だった印象がまだ残存していた時代だったのです。確かに子供に人気のあったものは巨人、大鵬、たまご焼き、だったはずです。
夜店の露天で売るベビーカステラ(北海道では「東京ケーキ」)や、ヤキソバの屋台には必ず玉子の殻がところ狭しと「展示」してありました。それは「玉子がはいっているんだぞ!」というたいへん強い自己主張であったわけです。(オモトなどの観葉植物にもよく玉子の殻を乗せていました)
ですから玉子の入っているお好み焼きと入っていないもんじゃを対比させ優劣を感じる輩がいてもおかしくはない時代だったのでしょう。 その当時の値段でお椀が5円、どんぶりが10円でした。
ただもんじゃという単語があるからには「ただ」ではないもんじゃがあったわけですが、そこにはキャベツとさくらえびが入っていました。キャベツはほんの少し、さくらえびは2、3匹です。「ただもんじゃ」と「もんじゃ」のふたつのメニューを準備してあった店は確かにありましたが、いつしかキャベツ・さくらえび入りもんじゃに統一されていったと記憶しています。その後「きりいか」(よく「さきいか」と勘違いする人がいますが…)がほんの申しわけ程度に入るようになり、ただではないもんじゃのプロトタイプが形成されていったわけです。
ですから具で土手を作るもんじゃに違和感を感じたのです。
ではどうやって焼くか…それについて述べていきましょう。
焼き方
まず混ぜます。次にほとんどすべてを鉄板の上にぶちまけます。本液があたかも意志があるかのように低いところを目指して走ります。その逃亡をあわててはがしで防ぎます。気泡が立つようになってからはがしで成形していきますが、ここからふたつの焼き方があります。
粘度の増した本液の下に少々固形化したベースができます。ひとつはこのベースをまだ固形化していない部分にはがしで混ぜ込みます。(図1、2)はがしに微妙に乗る粘度になったらそのはがしを返し本体上部を鉄板につけるようにし、上から火を通すかたちをとります。(図3)これが本道をいく食し方です。
念のために食べ方について説明いたします。当然はがしは熱いので唇をつけると火傷をします。はがしについた熱いもんじゃを歯でこそぎおとすように食べます。
もうひとつの焼き方は、少々固形化したベースの上にのったまだ粘度が増していないそれをすぐ脇にやります。残ったベースの上にスプーンで本液を少しづつ足していきます。この場合初期行動で「すべてをぶちまける」してしまいますとこれができません。ベースは正円に近ければ近いほど賞賛されます。それを丹念に焼き重ねていくのですが、火が通りすぎると焦げてしまいますので、お好み焼きのように裏に返したりしますが、両面を均等に焼いてしまいますと興趣が半減します。どちらかの面が焦げぎみで、もう片面がウェットという感じが最高です。それを焼くことは時間もかかることなので、その間普通にもんじゃも食べます。スプーンで本液を足していくといっても、お好み焼きのように厚くなることはありません。足す事によって表面の凹凸を減らしなめらかにしていくという感じでしょうか…
さて焼きあがったそのものの名称は「おせんべ」といい、おみや(おみやげ)にするのです。お店の人に新聞紙をもらいそれにくるんでポケットにしまいます。冬などは伝わってくるその温かみがなんとも心強く、しかもかわいい存在でした。
ゴム段、どこいき、石蹴りなどで遊んでいる時におもむろにポケットからそれを出して食べるのが楽しかったのです。すると年下の子供達が欲しいとせがみます。そんな子供達を一列に並ばせて「おせんべ」を少しづつちぎって口にほうり込んでやるのですが、それはまるで聖体拝受です。それでみんなで心底からニコニコできた夢のような奇跡の時代でした。
ゴム段、どこいき、石蹴り
少々脱線しますが今出てきた遊びについてお話しましょう。
ゴム段
かなり長い生ゴム(2~4m)を用意します。これは「駄菓子屋」で売っています。ゴムを持つ子供を二人決めます。いわゆる鬼です。その二人はゴムを持ち「走り高跳びのバー」の役割をゴムでしていきます。
ゴムはどのように高くなっていくかというと、解剖学的に高くなっていきます。最初は足首、膝、腰、胸、肩、耳、頭のてっぺん、というようにです。
跳び手は助走をつけて跳びますが、走り高跳びのように飛び越えるのではなく、足首にゴムをかけて「向こう側」に達すればいいのです。ですから跳ぶ瞬間は後ろ向きになります。
失敗すると鬼と交代します。失敗とはゴムが足首にかからなかったり、着地の時に踏んだり、両足の間に入ったりです。場所によってはゴムが服に触れるのも失敗としていたところもあり、スカートの女の子などはスカートの裾を下着の中に押し込んでいました。
当然「おまめ」「おみそ」ルールがあり、腰以上はくぐりぬけるだけでいい、といったものだったと思います。(「おまめ・おみそルール」とは幼年者の救済ルール。「おみそ」は「みそっかす」の省略形…多分)
胸以上になるとさすがに跳べる子供は限られますが、跳べる子供は「期待の星」で別の町内からやってきた子供達と対戦するときには(もちろん団体戦はありません)皆で固唾を飲んで見守ったものです。
ただし、この遊びは「女の子」の遊びで、私は姉に連れられ「おまめ」で参加したことがあるにすぎません。
どこいき
私が好きだった遊びのひとつが「どこいき」でした。滝田ゆうの作品で見た時には本当に懐かしさで胸がいっぱいになったことを覚えています。
この遊びは「目的地別かけっくら」(「かけっくら」というのは「かけっこ」のことです。)です。地面に図のように書きます。
分割したマスの中に目的地を全員で協議しながらローセキを使って書いていきます。中央には小さな円を書き「あたり」ということで最も近いところ、あるいは移動しなくてもいいという指示をしておきます。
描いた円から何メートルか下がったところに線を引きます。それは石を投げる場所でもあり、「かけっこ」のスタートでもあります。子供達はその線から円に向けて石を投げます。この石は「いしけり」に用いる石です。その石が入ったところが目的地となります。
全員がそれぞれの目的地が決まったところで、スタートラインに集まります。スタートラインに並んだ子供たちはてんでんばらばらの方向を向いていて、それが楽しいのです。誰かの号令でスタートし、各自定められた目的地にタッチして戻ってきます。一番最初に戻ってきた子供が一番となり、次のプレイに入って行きます。このように説明すると、何がおもしろいのか解り難いと思います。目的地が違うのですから距離の違う競争で、おのずと順位は決まってしまいます。
おもしろさのひとつは「自分だけが知っているルート」です。例えば他の者と目的地が一緒になった場合、そのルートを知られないようにスタートをわざと遅らせたり、逆の方向に走り出したりします。(もちろんその「秘密」はすぐにわかってしまうのですが…)そのルートを使い目的地が同じ相手より早く帰って来たりするのが愉快なのです。
私はある家の裏を通るルートを開発していました。竹の垣根の下が破れていて潜り抜けられるようになっていたのです。ある時いつものようにそのルートを使い垣根の下に走り込んだら、ごみ箱でふさがれていていやというほど頭を打ちつけた事がありました。その家の人は子供に優しかったので、猫などの侵入に備えたものだったのだと思います。
場所決め(円に記入する場所)、石投げ、ルート秘匿等々駆け引きのたくさんあった「多人数ソロプレイゲーム」だったと今では分析しています。
いしけり
「いしけり」は概ね女の子の遊びだったと思います。私には姉がいたので、いしけりはたいへんよくやった遊びのひとつでした。たいへんたくさんのルールとバリエーションがあったと思いますが、よくやったふたつをご説明したいと思います。
ひとつは初心者用で図のように地面にローセキで描きます。まず一に石を投げ入れ、次に片足で跳ねながら(その当時は「ちんちん」と言っていました。後に「けんけん」という言い方があることを知ります) 一に入り、自分の石を蹴って二に進み、次に三四と進んでいき、四までいったら石を手にとって雲に跳び、今度は二に石を投げ入れ二からスタートとなります。それが四までできれば「あがり」です。石が外に出てしまったり、線の上に乗ってしまったり、また自分が線を踏んだり、もう一方の足が地に着いてしまったりすると「失敗」となり、次の者の番になります。
次は発展したものです。図のように地面に描きます。石を一から入れて行きます。折り返し地点まできたら「めそちあと」に向って石を投げます。「め」は「目をつぶる」、「そ」は「空を見る」、「ち」は「ちんちんで」、「あ」は「歩いて」、「と」は「跳んで」です。投げられた石が外に出たり線上に位置したりすると失格です。
石の入ったところまでちんちんで行き、石を拾って指示に従いスタート地点まで戻ります。それが1ターンで、次には二に石を投じて第2ターンへと入って行きます。
今から思うと「目をつぶって」や「空を見て」の場合、他の競技者が助けてくれないと目的は成就しませんし、実際に随分助け合っていました。その点からも「いしけり」は他者と競うのではなく、やはり多人数ソロプレイの性格が強いと思えます。「めそちあと」以外にも「あめりか」というものもありました。「あ」は歩いて、「め」は目をつぶって、「り」は両足跳びで、「か」は駆けて…だったと思います。
「あしがえ」(蹴っている足を途中で変える事)の「あり・なし」や、石が割れた場合大きい方を「生き」にする、など色々オプショナルルールもありました。まだ下駄や板裏草履が珍しくない時代でしたので、みんな器用に石蹴りで遊んでいました。
先の「どこいき」でもそうですが、ポイントのひとつは石の選択にあります。投げた石が転がってはどこへ行くかわかりませんので駄目です。割れやすい石もだめです。つま先で蹴りやすいように平板に近いものがいいのです。今から思えば不思議ですが、色々な種類の瓦がいたるところにありました。それを利用したのです。本瓦ですと重いので扱いにくく、薄い平板の瓦がありました。それが人気がありました。その瓦を割り、適当な大きさのものを他の石を使って成形します。これにもある程度の技術が必要だったと記憶しています。
これらの遊びが淘汰された一番大きな理由は「土」の存在ではないでしょうか?舗装された道で、石を投げると、石が跳ねたり割れたりします。また石の存在でしょう。今では石はなかなか見つかりません。
さて、話しを「もんじゃ」に戻しましょう。
お店と時期
もんじゃをやっている店は駄菓子屋です。大抵ガラスの引き戸があり、入ると土間があって駄菓子が所狭しと並んでいます。壁には「あてもの」天井からは組みたて飛行機などの玩具が吊り下げられています。
小さな子供達は「ちょうだいな」と言いながら入っていきます。小学校に入り何年か経つと「おくれ!」と言って入るようになります。その分岐点はお祭りで山車から神輿に変わる時期と近いかもしれません。子供達は店の人に最初にお金を渡します。それから駄菓子の物色を始めます。駄菓子を取って行くとお店の人が渡したお金から引いていってくれます。子供達は「あといくら?」と尋ねながら駄菓子や玩具を買っていくのです。多くの子供を同時に相手し、その計算をするのは今から思えば熟練のなせる技だったと思います。 あの時の買い物する時の安心感はその後体験することがありませんでした。自分の許容量をゆだね、足りなかったら足りないと言ってくれる環境は素晴らしかったと思います。今ではクレジットカードや「恋人のように親身になってくれる」ところがあるので、「あといくら?」とは聞けない怖い時代になっています。
その土間の先に上がりかまちがあり、履物を脱いであがると2、3畳の部屋があり、そこに鉄板が置いてあるのです。鉄板はお好み焼きの物とは違う場合が多いようです。もんじゃの鉄板の辺縁には塀があり液体が下にこぼれおちないようになっていますが、お好み焼きのそれは塀がなく、逆にこげを落とす穴まで開いていたりします。
その鉄板は夏は閉鎖され、かき氷を食べるちゃぶ台に変身します。その当時の大人達もビールは夏にしか飲まなかったと思いますし、冬にアイスキャンディーはありませんでした。夏休みが終り、衣替えが終ったあたりから子供達はお店の人に「もんじゃ、いつから?」と聞きます。お店の人は「そろそろ始めようかね…」と言い子供達は歓声を上げる、ということが年中行事のように繰り返されていました。時代や季節によって食生活に変化があった懐かしくも充実感のあった時の話しです。暖房と冷房が完備されていくとともに失ったもののひとつでしょう…
あの当時のいわゆる下町の子供達は屋外で「生きて」いたので、幼稚園から帰ると誰を誘うともなく駄菓子屋へ行きもんじゃを食べました。小学生が来るまでのその時間は鉄板が大きく使える自由なる時間でした。しばらくすると小学生達が鞄を持ったままやってきます。考えてみればめんこもビー玉もベーゴマも買った記憶がありません。ほとんど駄菓子屋で知り合った小学生達に貰ったものでした。将棋も教えてもらったし、中学に入ったばかりの餓鬼大将に英語を教わった記憶もあります。
駄菓子屋の前の路地は土でしたので、その前で色々な遊びをやっていました。その遊びをれんじ窓越しに見ながらもんじゃを食べるのもひとつの楽しみだったのかもしれません。
