+A(プラスエー)級グルメ2 みずなます 過去ログ転載 | leraのブログ

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+A(プラスエー)級グルメ2 みずなます

 若い時のある限られた時期だけ非日常的な生活を送るという事は多くの人が体験しているのではないでしょうか?それは、山であったり、旅であったり、あるいは学生運動であったりするわけですが…

 私の場合は海でした。

 その「時期」は、ひとつの学校を終え次の学校に入るまでの2年ほどの準備期間の時でした。すでに20歳以上になっていましたし、アルバイトもしていたので、気楽な「時代」だったと思います。

 自由に使える施設が千葉県(外房)の和田浦にあり、アルバイトを終えると電車で直行するという生活でした。

 そんな非日常的な生活をしていた時に出会ったのが「みずなます」です。

 朝、和田浦から館山方面に車で向うのですが、途中に釣り宿があり、運がいいとそこで食べられたのです。運の要素はいくつかあります。まず小鯵があがっている事、作る人がいること、食べる場所があること等です。

 地魚なのでシケになるとあがりません。また、みんなから「じい」と言われている初老の男性が居ないと作る人がいません。彼は時として釣り客をつれて海に出る場合があるのです。釣り客が何かの理由で釣りに出ない時も食事する場所がないので、だめなのです。

 出がけに電話をして、食べられるとなると俄然元気が沸いてきます。食べられないとなると、朝飯を何にするかで少々憂鬱な時間を過ごさねばなりません。

 すでに釣り客が出た静かな家に入ります。他の宿の人は休憩時間に入っています。「じい」が我々が入ってきた気配を察して奥から出てきます。タオルで鉢巻をして、くわえ煙草で小さな出刃包丁を持って我々に説教しながら料理にとりかかります。彼に言わせれば海に来て朝グタグタしている事が我慢ならないのです。

 料理法は小鯵をたたきにするのですが、その時味噌と長ねぎを加えます。しつこくたたいていると粘りが出てきます。そして水気を切り、「つみれ」のように団子状にします。お椀か茶碗に水を張り、氷をひとかけら浮かべたところに団子状になったそれをそっと落とし入れます。使い古るしたスプーンを沿えて完成です。

 水の中に「たたき団子」が浮いている様はかなり不気味です。食べ方の流儀はいくつかあります。スプーンですこしづつくずして、水と一緒に口にいれます。水と一緒に食べるというところが「みずなます」の興趣です。私の最も好きな食べ方はスプーンで豪快にくずしてしつこく練ります。それを温かいご飯にかけて「ぶっかけ飯」にして食べるのです。水がしたたるご飯が想像できますか?しかもまだ融けていない氷がお茶わんにあたってカラカラと音をたてるのです。ところがこれが実に美味いのです。

 さらに運がいいと釣り客の朝食の残りの「ほうぼう」や「めごち」の味噌汁がつきます。当然身はなく、汁だけですが…

 その釣り宿はその後民宿になってしまい、「みずなます」を食べるということはできなくなってしまいました。その時に一緒に行動していた料理の得意な友人が何度か挑戦しましたが、味噌が違う、水が違う…と、結局うまくいかず、あの夏の味を出すことはできませんでした。

 この料理は釣り客には出さないと言っていましたが、この地方の漁師料理というので実際にはそれほど珍しいものではないのかもしれません。

 人の招待を受け、魚の美味い店などに行き、鯵のたたきを食べることがありますが、いつも「違うんだなあ」と思います。その時に「みずまなす」の食感が鮮やかに蘇ります。そしてあの時の時代も蘇ってきます。

 いつも寝不足で、耳の奥にいつも波の音が残っていて、足の指の間にいつも砂があり、体からはいつも潮の匂いがしていて…という非日常の時代です。

 居残る友人達を残し館山の銭湯「吉乃湯」につかり、素晴らしい夕焼けの中を東京行きの内房線の急行の自由席に座る、という幻想的な体験を何度もしました。

 また大勢で遊んでいて、帰りがある女性と二人だけで東京までの車中実に楽しい会話をしてすごせた、そんな「もう取り返しのつかない美しい」時間もありました。

 その時彼女と人物当てゲームをやりました。あらかじめ出題者が共通の友人の名前を紙に書いておきます。それからヒントを書きとめながらいくつか言って行きます。何個のヒントで当てられたかを競いますが、後にヒントの中で不適切なものや一般論的すぎるものは出題者のマイナスとなります。

 実はヒントの検討が「へえ、そんな人なんだ」と思ったりして、このゲームの一番おもしろいところです。

 美しい夕焼けを見る事もなくなり、吉乃湯もなくなってしまいました…そんな時間を再帰させてくれる「みずなます」はやっぱり+A級グルメです。

 非日常的な「時代」と思っているものの、いつかあの時代に帰ると思っている自分がいて、どちらが非日常か不鮮明になっているのも事実です。