+A級グルメ6 最終回 邂逅と離反から…2001.12.7
この連載を始めてから色々な邂逅があった。私が取材したこともあれば、親切に教えてくれる人もあったからである。
その中で、種々の料理を知り、そして作った。
チークとカンザシ
芝浦のと場の人に「牛肉のほほ肉のワイン漬け」を貰ったのは本当に幸運だった。それはほほ肉(チークとも言う)をゆでてあくぬきをし、生姜の薄切り、ローレルを入れ約1時間ゆで、同量のワインと醤油に一晩漬け込んだものである。薄くスライスし、食べるのだが実に美味であったのだ。サイボシを甘くソフトにした感じである。また、その時にカンザシ(首のスジ肉)で作ったワイン漬けも少量貰った。カンザシには細く幾重にもサシが入っていて、それがゼラチン様となって半透明になるので、見た目も実に美しいのである。これはほほ肉より美味であった。
現在では入手難で数少ない業者さんが珍しく作ったので、その好機に遭遇したのだ。都内の教員のと場見学会の二次会に潜り込んで貰った逸品でもある。中でもカンザシはたいへん珍しく、滅多に口にできるものではなかった。
豚テール
その時に芝浦名物(?)という豚のテールも同時に貰った。豚の尻尾というとあのクルリンとしているところを連想するが、尾骨のところで(つまり体内部分である)大人の指3本分ぐらいのしっかりした骨の周りに肉がついているのである。当然1匹に1本しかない貴重品である。
実は偶然なのだが「大きな森の小さな家」(ローラ・インガルス・ワイルダー作。つまり「大草原の小さな家」)で豚のテールをあぶって食べる所があるのだ。子供たちはそれが手に入ったと知ると歓声を上げ、実においしそうに表現されていたので以前より気にはなっていた。
食べ方はいくらでもあるが、私はローラ・インガルスを連想した塩焼きと、濃い味の焼豚風と、煮込みとの3種類の料理をしたがどれもおいしかった。少しアイスバインに似た食感であるが、肉の骨離れがよく、肉に密着感がありコクがあった。と場の人に言わせると今では食べる人がいないとのことであった。
アンラミスー
沖縄の人にはアンラミスーを教えてもらった。
これは豚肉と味噌と砂糖だけで作る料理でアンラミスーとは「油味噌」という意味である。不安になるぐらい砂糖を入れるのがコツである。これはご飯のおかずでもあり、子供のおやつでもある。これが初めてなのに、なんとも懐かしい味だったのだ。ペースト状になったそれに青唐辛子のスライスを載せサンチュなどの葉物野菜で包んで食べると実にうまいのだ。子供の誕生日にも作り好評を博した。
その時、葉で巻くというテーマから「なんとう味噌」の話を聞いた。「なんとう味噌」は、もち米の粉と黒砂糖と味噌をこねて、月桃の葉っぱ(サンニン)にのせて蒸したもので、いわゆるお餅である。色は黒砂糖のいろだと言う。
カーサームーチー
沖縄では餅といえば、杵でついたものではなく、もち米の粉をねって蒸したものをいう。
もち米を「水びき」(洗って、ぬれたまま粉に挽く)し、木綿袋などにいれて、いったん水を切る。それからよくこねて、月桃の葉に包んで、蒸す。それをカーサームーチーと言う。
葉に包んで蒸す、という方法がアイヌ民族料理のオントレフに似ていると話すと、サツマ芋を使った同様の料理があると教えてくれた。
サツマイモをすりおろして、桶の上に布を敷いたざるをのせ、水でかきまぜながら、でんぷんを下に落とす。
上澄みを捨てて、でんぷんをとり、乾かしてさらさらの粉にしたものを「うむくじ」と言う。布に残ったものは、発酵させ、干して、粉にして使う。これは「うむかし」と言う。
「うむくじアンダギー」にしたり、「うむかしなんとー」にすると言う。
オントレフとのあまりの類似に驚いた。
生まれも育ちも東京の韓国籍の人にサンゲタン風鶏スープの作り方を教わった。(実際にはどうしてもナツメが手に入らず、ナツメ無しのスープになってしまったが…)その時サムギョプサルという料理も教えてもらったのだが、なんとアンラミスーとほとんど同じ料理だったので驚いた。こちらは胡麻油と塩で味付けし、エゴマの葉やサンチュに包んで食べる。
奇縁に感謝した。
みそ
また、アブラカスを羽曳野市の向野から送ってくれる人があって、その時同時にわざわざ作ってくれたコンゴリも送ってくれた。初めてコンゴリを食べることができた。
その時送ってもらったのはアブラカス料理の「代表料理」に「みそ」というものがあり、その作り方を教わったからである。
「みそ」は作るとは言わずに「炊く」という。「みそ」といっても味噌は入っていない。醤油とみりんで味をつけ、その中にアブラカスと小芋(里芋の小さいものだが、本来は親芋についている小さな芋のこと)と大根としろ菜(あるいは水菜)と小米と「だんご」を入れて煮込んだものである。
アブラカスの脂肪部分を除去することもあり、あっさりとした深い旨みがある。特徴は「だんご」で、小麦粉を練って塩味をつけるのだがニンジンのみじん切りを混ぜるのである。(ニンジン入りスイトンと言ったら解りやすいか?)
この料理談義の中で、私は自分が「小米(こごめ)」を知らない事を知るのである。
小米は(と、説明を始めてほとんどの人が知っていたら失笑ものだが)精米過程で壊れた米の事で、一種の「廃物(食物に対しては不適切な表現であるが)利用」である。
かつては米屋の片隅で売られていたというが私には全く記憶がなく、そのことで「恵まれている」と揶揄された。
そんなところにも食物の「歴史」を感じる事ができる。
ところが昨今は小米が手に入りにくくなったと言う。
ところが「みそ」の主体はアブラカスと小米とだんごなので、その三っつは欠かせないという。そこで、忸怩たる思いと慙愧の念に苛まれながら「小米」を作ることとなった。米を洗いすり鉢で砕くのである。
考えてみればアブラカスも「捨てる」部分であったろうし、小芋は商品にならない部分であり、大根もにんじんも切れ端で十分なのであるから、「みそ」はヒトの知恵の結晶である。食感もすばらしくまさしく絶品である。
この「みそ」を滋賀県では「どろ」と称し牛スジでとったスープで煮る。どろどろになるまで煮たので「どろ」と言うのだという。(余談ながらさくらももこのエッセイの中で東京のおでんには肉スジがないので寂しいという記述があるが、銀座の「お多幸」には昔からあり、私の好物のひとつである)
やっこめ
「小米」の話題から米に関する料理(食べ方?)で「やっこめ」という料理の話も聞いた。これは復元が必要な料理法で、道具の製造から入るという「壮大」なものであった。これに関しては準備が整ったら連絡してくれることになった。
やっこめは、春と秋に作る。
春は、田植えのため種籾を水に漬ける時に少し余った分を隣同士出し合って作る。
秋は稲刈り後の落穂で作るが田の泥にまみれているので洗って用いる。
そして、それを、水に漬け、発芽前に水からあげ、焙烙で炒り、唐臼で踏み、箕で籾殻をとばし、塩をふって食べるのである。
春は「たねやっこめ」秋は「つつぼやっこめ」とよばれるという。
「唐臼」という道具の復元をしなければならないと言う。是非とも食したい逸品である。
再度アブラカス
雑誌の「部落解放10号」(解放出版社刊。2001年9月発売)に、「被差別部落の青春」(1999年講談社刊)の著者である角岡伸彦氏の『ホルモン奉行外伝「油かす篇」』の連載が始まったのである。
そこには「あぶらかす入りのカスウドンが大阪ではブレイクしているのだ」と書かれていた。ほんまかいな?というのが私の実感であったが、ここは真偽を問う場所ではない。
その連載は正直言って驚いたし、記述の全てが興味深かったが、巻末に掲載されていた「油かす取り寄せ先」の紹介には本当に驚いてしまった。そこには大阪の本部生協と京都の業者さんが載っていたが、もう入手するのに苦労はいらないのである。
しかし少々寂しさもあった。私の食へのこだわりのひとつは「つくる」と言う事であり、素材から作るからこそ+A級だと思っていたからである。流通に乗ることの「効率化」が「食」の本来の姿を歪めてしまったという感慨がこの「こだわり」の出発点だったからだ。
私が無定見に料理の話を羅列したのは、種々の邂逅があったことを記しておきたかったからだ。
それから
しかし、事件がおきた。
ひとつはすさまじい暴力(後注)であり、ひとつはBSE感染牛の日本における出現であった。
私はこの連載を場違いなここで始める時、食にまつわる「危険」から書き始めた。そこに危機感を抱いていたからだ。
戦後日本人が獲得した唯一の思想である「拝金主義」は衣食住を利益追求の媒体とし、効率を追求してきた。そこに現在の社会の深い闇があると思っていた。
味覚の馴化で一から作ったスープよりインスタントカップスープの方がおいしいと思う集団がすでに登場しているし、ファストフードの台頭による料理のプレハブ化も深刻な事態だと思ったからだ。
そして料理を作る人の存在の軽さに耐えられなかった。前回の「はつ恋のきた道」でも述べたように料理を作る人も、その心も美しいのだ。
しかしBSEはあらゆる意味でレベルが違う。80年代にイギリスで発生したにもかかわらずその対策をとらず、さらにEUの勧告にも耳をかさなかったこのクニの官僚の責任はあまりにも重い。
「食」に対するすべての思いを遺棄させるにあまりある事件であった。おいしそうに食べる人の顔を思いながら料理を作る人の「心」を無にする行為であった。
この事件を契機に内臓料理の多くや、モツ焼屋や煮込屋やが消えたらその損失は計り知れない。
また、地球上の食料の80パーセント以上を20パーセント足らずの人々が消費している現状は暴力的である。暴力は暴力しか生まない。
「食」は文化である。文化は多様な価値観を共有し共感することにある。利益追求しか眼中にないため労働の本質を見失ったように、「食」も本来性を失いどこかへ行こうとしている。我々の知り得ないどこかへ、行こうとしている…
注
さまじい暴力 9・11同時多発テロのこと
