+A級グルメ5 オン・ザ・ロード 過去ログ転載 | leraのブログ

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+A級グルメ5 オン・ザ・ロード 2001年9月

食い物を作る人という存在

 チャン・イーモウ監督の映画作品「初恋のきた道」(原題「我的父親母親」英語題「THE ROAD HOME」2000年)はいくつかの映画賞を獲ったので、観た人も多いと思う。映画は心を寄せる人に一心に料理を作って気持ちを伝えようとする心情をテーマにしていた。その心を寄せる人が家に食事をしに来ることになって、その人が来るだろう薄暮の中の道が見える玄関の所にしゃがんでニンニクの皮を剥くシーンがあるのだが、息をのむような美しさだった。本当に美しい作品だった。

 矢野陽子のひとり芝居「ハルモニの夢」(作 松江哲明、演出 永井寛孝 2001年9月)を観た。ステージにはたくさんの白菜とカメが置いてあり、矢野は舞台の間中白菜を切り、水で洗い、キムチを作り続ける。その間に植民地支配時代、結婚して来日した時、戦中・戦後、経済高度成長期、バブル期…の思いでを語って行く。  矢野はその中でこう言う。 「この手でキムチを作ってきた。この手がキムチを作ってきた…」  そこには食い物を作る人の力強さがあった。

オンザロード

 さて、今回のタイトルは、「オンザロード」である。

 ビートニクジェネレーションの旗手となったジャック・ケルアックに「路上にて オンザロード」という文学作品がある。この作品は放浪旅の過程をモチーフにしているが、ビートニクには不似合いと思われるが食い物がたくさん出てくるのだ。(米を炊くところまである)特に第二部のサンフランシスコに着いたところでは、鼻腔に流れ込んでくる食い物のイメージを長々と羅列しているのだが、そのシーンはもの悲しくあり、切ない。

 しかし、実は今回はそれとは全く関係がない。
 路上における「食い物」について述べたいと思う。

 かつてこの連載で「東京の下町の子供は外で生きていた」と書いたことがある。そこは「もうひとつの世界」で、そこでは多くの物が食べられていた。

 少し離れたところに大きな材木置き場があって、そこにたまに「カタ屋」さんが来た。「カタ屋」さんというのは素焼きのカタを持っていて、子供達は粘土をそのカタにいれ形を作って遊ぶのである。上手なものは色砂を使って色をつけたりする。作ったものをその人に見せると、出来不出来によって点数をくれる。点数を集めるとカタが貰える。大きなカタが展示してあって、それはかなり点数をためないと貰えない。

 今から思うと不思議な商売であると思う。カタは貸しだったので、粘土を売っていたと思うが記憶は曖昧である。

 その材木置き場で時として数人の逞しい男性達が材木を運んでいる場合があった。そこへ自転車に乗った豆腐屋がやってくると、男達がその自転車の回りに集まる。豆腐屋は彼らの掌に豆腐を一丁ずつ載せ、醤油をかける。男達はそれを箸も何も使わずあっという間に食べてしまうのだ。その光景は実に鮮やかなものとして目に焼き付いている。その豆腐は実に美味そうで、一度同じ“儀式”をして同じように食べたいと思っているが、実現していない。

 安西水丸のマンガ作品『青の時代』に逞しい男性が卵を飲むシーンが出てくるが、そのコマはその豆腐のシーンがフラッシュバックしたほど酷似していた。

 紙芝居が来るとほとんどいつも水飴を買っていた。水飴の楽しみは紙芝居を見ながら練るところにあった。練れば練るほど色が白濁してくる。紙芝居が終わった後にその水飴を食べるのだが、よく練られた水飴は空気を含んでいるので舌の上で実にマイルドに溶けるのである。

 売りに来るものには「おでん」「きびだんご」「げんまいパン」があり、屋台でカネを鳴らしながら売りに来る「おでん」はほとんど毎日食べた。しかも毎日「ちくわぶ」だけを食べ続けた。私はかなり歳を重ねるまで、「ちくわ」は「ちくわぶ」の省略名だと思っていたし、ちくわはほとんど食べた事がなかった。そのおでんは関西風の薄味で、ちくわぶに微かに芯があり美味だった。ちくわは今でも自分からは進んで食べない。

 「きびだんご」は自転車の荷台で売りに来た。蒸し器の中に串にさしたきびだんごが入っていて、それにきな粉をたっぷりかけてくれる。蒸し器のふたを開けた瞬間に蒸気がモウモウと立ち昇り期待を一挙に高めた。きびの香りときな粉の甘さとほんの少しの塩味がなんともいえず美味かった。

 屋台だが移動しないのでこちらから買いに行くものに「お新粉細工」があった。練った新粉で色々な形を作り色素をつけ、それに蜜をつけて食べるのだ。「鶏とひよこ」とか「犬と猫」とか、今から思ってもすばらしい造形だったと思う。  さすがにこれは路上では食べなかった。家で鑑賞した後に家で食べた。

竹の子の皮と梅干

 さて、本題に入ろう。

 ある旬の食べ物が一瞬にして広がって行く、という現象があった。

 竹の子の季節になると、家の人が竹の子の皮に梅干を包んでくれたのだ。それを持って外に出て舐め始めると、この季節になったことを悟った子供達が家に帰り同じ物を作ってもらい、数時間後には皆が舐めている、という現象があった。竹の子の皮を分けたり、あげたりしていたと思う。

 作り方だが、まず竹の子の皮を湯通しし、包丁で表面の毛をとる。それを3角形に切り、梅干を真中に置き、中華チマキのようにきれいに三角形になるように包み込む。包みがゆるいと途中で解けてしまうし、梅干が移動してしまうので、織り込むようにしっかりと包む。すると角の部分を持っても安定がいい。

 舐め方には二通りあった。

 ひとつは三角の角から吸うようにする方法で、これはすぐに梅干の味が楽しめる。しかし小さい子供には梅干が「直接すぎて」刺激が強いのだ。

 もうひとつの方法は、三角の辺の部分の皮の上から舐めるのである。もちろん最初は味が全くしない。かなり舐めていると梅干の味が皮を通してしみてくるのだが、その時に丁寧に毛を取っておかないと舌がザラつく。竹の子の皮を通してくる梅干の風味が竹の子の皮の香りとあいまって、なんとも言えず美味いのだ。しかもしまっておけば何日も楽しめる。これは+A級グルメだった。

 どの地方にどの時代にあったものか全く分からないし、誰が考えたかも分からないし、名前もわからない。

外という世界

 子供達は屋外で色々な遊びをし、色々な物を食べていた。というより食べ物を貰ったらわざと外で食べていたと思う。祖母が夕ご飯をたく前に残りのご飯で味噌のおにぎりを作ってくれ、それは外で遊びながら食べられるようにとごく小さい焼きおにぎりだった。

 外に出れば必ず誰かいた。だから雨降りの日は寂しかった。レンジ窓の前で雨脚をいつまでも見ていた記憶がある。誰かがお使いで傘をさして通りすぎるとすかさず声をかけたりした。雨の音や匂いだけが鮮明な記憶となっている。雨をそれほど凝視する時間はその後には全くなくなる。

 また、外が近かった。靴や下駄を履き、引き戸を明けるとそこは「外」だった。また外から少し声を出せば誰か大人の耳に届いた。大人達もよく「外」に居た。共同水道で洗濯したり、洗濯物を干す場所は「外」だった。野菜や荒物の行商人もよく来たし、道具を修理する職人もよく来ていた。豆腐屋も豆腐と納豆と味噌豆を持って朝夕来ていたし、アサリ・シジミを売りに来ていた人も毎日来ていた。みんな路上で買い物をしていた時代があったのだ。

 夜になって晩ご飯を食べた後も外に出ると誰かがいた。商店の前の明かりのあるところでメンコをしたり、マンホールを土俵にして相撲をとったり、縁台に座って手遊びをしたり、実によく遊んだ。誰かが借りてきた貸し本は皆で外で読んだし、読んでもらった。床屋ですら混んでくると外に椅子を出して散髪していた。

 町や路地から子供が消え始めたのはテレビの登場からだ。テレビが登場し、人々は家に入り窓を閉めた。コマーシャルでインスタントラーメンを知り、コカコーラを知り、オリエンタルカレーを知り、「水飴」からも「きびだんご」からも「おでん」からも決別したのだった。

 そして車やバイクが路地にも入り込んで来た。お祭りも肝試しも夕涼みも屋外の映画上映会も(町内の人が写したスライドの上映会ですらあった)、みんななくなってしまった。そして、遊びからも決別してしまったのかもしれない。2001.9