leraのブログ -40ページ目

leraのブログ

自らの文章のアーカイブと考えている

旅「関屋 千草 千住」その3 2010年12月29日

 北千住では何度か呑んだことがある。

 死んだ同級生の河方が教えてくれた煮込みの名店「大はし」だ。

 彼と初めて「大はし」に行ったとき、彼は自転車で来た。焼酎(金宮)のウメ割を呑んで、煮込みに舌鼓を打っていたところ、彼は「患者に呼ばれた」ということで、出て行った。不思議なことに戻って来なかった。

 携帯電話の無い時代、もっと人々が、というより酒飲みが、鷹揚だった時代の話だ。

 その後もう一度彼と呑みに行く。その時店の人と「戻らなかった」ことについて話題になって、皆で笑った。すごく大らかだった。

 同級生の河方は勤務先の病院で倒れ、「病院から救急車で出る」という大変貴重な体験をしたのだが、あっけなく急死してしまい、「病院から救急車で出る」というジョークが使えなくなってしまった。


朝の9時からやっている





 駅の反対側に出て、左の方へ進むと、驚くような呑み屋街になっていて、風俗店も多い。そこで、外観で店を決めて入った。だいたい「酒場」とうたっているところにいい店が多い。入って年季の入っているツケ台(カウンター)だったら尚良い。

 その店もカンに狂いはなくいい店だった。

 「大升」という。





 煮込みはモツの入っていない牛肉煮込みタイプで、豆腐が入っている。タイプと味が「大はし」に似ていた。やや期待して焼酎ハイボールを飲んだが、「百尺」や「三裕酒場」などのオリジナルタイプではなかった。もうオリジナルタイプは呑めないのかもしれない。(「三裕酒場」では呑める)

 梅割りを飲んだが、「大はし」の梅わりとタイプが違う炭酸の強いものであった。

 父と息子でやっているようで、かなり年配の父親が絶対的な権力を持っていて、客の座る位置の采配を振るっていた。客はおとなしく父親の指示待ちである。モツの炒めものとジャガ芋煮込みが人気のようで、多くの客が食べていた。  女性客も多い。カウンターが喫煙席、節煙席、禁煙席とわかれている。

 いい酒場の条件のひとつは、静かなことだ。それは酔っ払いが居ない、店主が店全体をコントロールできているという証明である。そして長っ尻(ちり)がいないこと。そして、料理が酒飲みの琴線に触れることだ。

 そこを出ると、いつもの癖でジャズの店に行きたくなった。

 ジャズ喫茶ファンの嗅覚はなかなか鋭く、今まで何軒も見つけてきた。
 呑み屋通りから横道を左に入ると、突き当たりに「Birdland」があった。驚いた。まさしくジャズの店。 (Bird Landはもともとチャーリー・パーカーのために開いたニューヨークのジャズクラブ。パーカーのニックネームがヤードバード、バードだったため。チャーリー・パーカーはクリント・イーストウッド監督により「バード」という映画になっている。観た時、チャーリー・パーカーが動いていた。いい映画だ。)





 ところが「本日お休み」。
 ライヴもやっているようだから、ジャズ喫茶とはやや異なるかもしれない。

 その店の前を通過し、右の路地に入ると今度は「jazz club LEGEND」という看板が目に入った。「コルトレーンレガシー」というビデオ作品がある。まさかこんな短期間にジャズの店が見つかるとは、と感嘆しながら看板をよく見ると、なんだかおかしい。




 延長フリー \3000
 本指名 \2000
 場内指名 \2000
 となっている。
 かなり理解するのに時間がかかった。
 でも、違うということは分かった。しかし、jazz clubとはどうしてだろう…それは是非確認したかった。

 「ぬけられます」ではないが、風俗店の並ぶ路地をいたる所に入ってみた。猫もいた。面白い看板も見た。そこから歩いて1分もかからない、近代的建築物の並ぶ駅前とは対照をなしている。


半個室?




 千住は不思議な街で、北千住と南千住に分かれているが、北千住は足立区で、南千住は荒川区と区が違う。南千住には「南千住」という地名があるが、北千住にある地名は「千住」しかない。

 小岩も同様で、新小岩が葛飾区で小岩が江戸川区である。他にもあるかもしれない。なぜだろう。地名を尊重せずに区区分が出来たのだろうか?

 松尾芭蕉が奥の細道に深川から出立した時、最初の宿泊地が千住だったし、小林一茶とも縁が深い。遊郭もあったし、大門もあった。(現柳町。この遊郭のことは五木寛之が小説「風に吹かれて」に書いている)  足立区になってしまうが、縄文時代の遺跡(伊興遺跡)があるし、古墳(白旗塚)もある。

 また、つげ義春の作品「長八の宿」に描かれた入江長八の鏝絵作品が、橋戸稲荷神社に残っている。雌雄の狐で、雌は子を抱いている。

 連想の旅だった。

 源氏物語、李政美、死んだ同級生、チャリー・パーカーとジョン・コルトレーン

2010年12月29日



 帰り着いて「関屋」について調べるとなかなか面白いことが分かった。

 関屋という地名は、「江戸名所図会」にも紹介され風光明媚な名勝地として知られていた。関東と奥州を結ぶ要衛の地で、後鳥羽天皇の承久年間(1190~98)に、源頼朝が奥州征伐の後、一族の江戸太郎重長に命じて関所を設けたのが地名の起こりで、それから関屋の里と呼ばれるようになったといわれているようである。

 江戸太郎重長は、江戸氏の祖、重継の子で家康や太田道灌のはるか前に江戸の地に居を構え周辺を領有していた。頼朝の再挙に加わった功により、武蔵の国諸雑事、在庁官人ならびに諸郡司を仰せ付けられた。多くの合戦にも加わり、鎌倉幕府樹立の際に右兵衛尉に任じられ武蔵七郷を賜った。

 江戸氏は室町時代の中ごろ太田氏に江戸を追われ木田見(今の喜多見)に移る。その後北条氏、徳川氏に使え陣屋を構えて明治を迎える。

 江戸時代、関東と奥州を結ぶ往還の道は日光街道となり、千住の宿ヘと発展していった。  その頃、関屋の里に天満宮の祠が招来され、関屋天神として「江戸名所図会」にものるほど、人々の信仰をあつめていた。

 祠には片葉の葦があり、千住七不思議のひとつに数えられていたという。

 現在の祠は、千住仲川氷川神社境内にあり、関屋天満宮碑(文化4年1807年建立)がある。新編武蔵風土記稿(1804年から1829年)によると「関屋ニアリシ社ヲ移セリ、故ニ鳥居ニ関屋天満宮ト扁ス。神体官公ノ像ヲ安ズ。」とあり、文化4年(1807)建立の石銘がある。

 関屋の里はまた、道晃法親王がお成りの際に“帰るさに関屋の里は宿もあれな 隅田河原のあかぬ眺めは”と詠じられたほど、江戸の景勝地として有名であった。

 葛飾北斎は千住に住みながら「富嶽三十六景・関屋の里」など3点の浮世絵を描き、二代目歌川広重もまた「江戸名勝図絵・関屋の里」や「隅田川八景・関屋晴嵐」などの名作をのこしている。

千住の七不思議

1.千住大橋の大亀:文禄3年(1594)最初の架橋が難工事だったのは、この大亀のせいといわれている。
2.千住大橋の大緋鯉:大川の主といわれた美しい鯉。
3.牧の野の大蛇:恋人に裏切られ、大川に身を投げた娘の化身。
4.関屋の片葉の葦:弘法大師が関屋を通りかかったところ、その徳を慕って葦がいっせいに大師の方に靡き、そのまま片葉に。先頃まで保存されていたが今は消滅した。
5.子福様(稲荷)と油揚げ:悪さをする狐を祀って禍を福に。
6.金蔵寺のそばえんま:美しい女に化けてそばを食べに行ったえんま様の話。
7.置いてけ堀:魚を釣りすぎると、何処からともなく声が…。

 昔の足立は、葦が生い茂り、川魚も豊富で鳥も集まり、将軍の“お鷹狩場”だったところ。区名の足立も、葦立ちがアダチに訛ったものとか。




旅「関屋 千草 千住」その2 2010年12月29日

 しばらく行くと「柳原千草園」という表示板があり、とりあえずそこを目的地とした。向島百花園は「百」だが、こちらは「千」なのだ。むろん「千」の勝ちである。ただ、「草」と「花」ではどちらが勝つか、これは嗜好で分かれるだろう。

 かなり歩いてたどり着いた「柳原千草園」は、公園の一部と言った感じのところで、無論向島百花園には負けている。

 園の縁起にこう書かれていた。
「この近辺は、昔「関屋の里」と呼ばれ、葛飾北斎の浮世絵にも描かれたように、風光明媚なところであったようです。また、堀切から牛田にかけて大きな堀があり、「おいてけ堀」の語り伝えがあったとも言われています。」

 北斎のものは「富嶽三十六景 隅田川 関屋の里」だ。
 「おいてけ堀」は本所七不思議であり、歌川国輝が錦絵にしているので、場所が違うような気がしたが、千住七不思議もあるとのことだった。



 柳原千草園では小さな滝があったが、定休日があった。

柳原千草園からは、入ったところからではなく、反対側から出て、さらに彷徨おうとした。

 すると「学園通り」という商店街に出た。「学園通り東通り」「学園通り西通り」とあり、なかなか賑やかである。古本屋などを見ながらさらに賑やかな方を目指していると、なんと北千住の駅に出た。
旅「関屋 千草 千住」その1 2010年12月29日

 26日の日曜日に印刷業者の所に行く用事があった。

 今まではネットだけでのお付き合いだったのだが、年末で急ぐこともあり訪問することにした。

 場所は「関屋」である。

 訪問のもうひとつの動機は「関屋」という駅名にあったかもしれない。

 百人一首に源兼昌の

 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に、幾夜寝覚めぬ 須磨の関守

 がある。現在でも須磨に関屋跡がある。

 また、源氏物語の巻の名(第16帖)でもある。
 源氏が関山の関屋で空蝉(この時にはかつての恋人になってしまっている)と会い昔を懐かしむ。

 新古今集にも藤原良経の

 人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにし後はただ秋の風

 なかなか哀愁のある響きがある。

 関屋とは関所の番人の住む家のことである。

 地下鉄千代田線の町屋で京成線に乗り換え、二つ目の関屋で降りた。
 この駅は「牛田」という駅と向かい合っている。なかなか珍しい。

 京成線はその名のとおり東京と成田を結んでいる線だと思う。私が子どこの頃は「京成電車」と呼んでいた。私の好きなボーカリスト李政美(い・じょんみ)の歌に「京成線」という歌がある。

 関東大震災の時の朝鮮半島出身者たちの虐殺を静かに歌った歌だ。(私にはそう聞こえる)あるきっかけで本人とメール交換する機会があり、その時に「むかし京成電車って言ってましたよね」と言うと彼女も「そうそう」と肯定していた。

 東京は広い。
 おそらく成田空港がなければ、東京人の半分以上は生涯に一回も京成電車には乗らないだろう。

 関屋駅から印刷所へ行き、用件を済まし、もう一度関屋駅に引き返した。
 なぜ駅名が「関屋」というのか知りたかったが、それに関する表示を見つけることはできなかった。そして、京成電車に乗らず、迷おうと思って足を進行方向へ、駅の先へと進めた。

 散歩のひとつの楽しみは、迷い、彷徨うことだ。