分配の不平等について、あるいは幸せについて 2008年01月11日
「分配の不平等」について語ることはそれほど簡単なことではない。
アマルティア・センが「貧困の克服」をはじめとしたいくつかの著書でテーマにしている。
センは、「発展」とはGNPだけではなく、人間の自由と尊厳がもっと拡大されること、と定義している。
また、ジョン・ロールズの「平等論」を批判し、「基本的潜在能力の平等」を提案している。
ロールズの「正義論」は社会契約論(ロック、ルソー、カント)を一般化し正義の普遍的構想を提示した。
「無知のベール」の原初状態で「自由で合理的な人」なら二つの正義の原理を採択するという仮説で、
第一原理は基本的諸自由(選挙権・被選挙権などの政治的自由、言論・集会の自由、思想・良心の自由)の平等な分配。
第二は、基本財(所得・地位)の分配のための機会均等、不運な人々の利益の最大化を図る等の社会・経済的不平等を是正すること、であるとした。(ロールズのベトナム戦争に対する不服従の思想は高く評価されると思うが、ここではそれに言及しない。)
センは、ロールズの「平等論」が西洋近代文化に従属していて、フェティシズムの特徴を持つと批判した。フェティシズム的であるため、財の分配が中心でその財が人のためにどう有用なのかという問題意識が希薄であると指摘。例えば健常者と障がい者に同じ財が分配されたケースをあげる。
センは、個人の基本的なニーズを「基本的潜在能力」とし、例えば「体を使って移動」「社会参加」「衣食住」とし、それらの平等化が重要とする。これらをジェンダー、高齢化、疾病による脆弱性、などに拡大し潜在能力の平等について論じている。(「不平等の再検討」)
また、「潜在能力」とは「人が善い生活や善い人生を生きるために、どのような状態にありたいのか、そしてどのような行動をとりたいのかを結びつける機能の集合」としたが、またそれは「反省能力と批判的判断力を持つ個人が自由に考えて決めること」なので具体例をいくつか示すに留めている。
それは、「よい栄養状態にあること」「健康な状態に保つこと」「幸せであること」「自分を誇りに思うこと」「人前で話ができること」「愛する人のそばにいられること」などである。
センは、生活の質を所得や効用で判断するのではなく、「潜在能力」や「機能」という面から判断すべきとしたのだ。
「潜在能力」の機能拡大こそ発展というものの究極的目標であり、それはまた同時に自由の拡大を意味する。そして、「より多くの自由は人々が自らを助け、そして世界に影響を与える能力を向上させる」と述べている。(「自由と経済開発」)
逆に社会制度(規範)は、「潜在能力」の拡大をいかにサポートしているかによって評価されるべきと言う。逆に 妨害するものであったらその制度は廃止されるべきということになる。
「分配の平等」というテーマの前には、自由や人の個としての尊厳の問題があるのである。またセンの論理は社会のセフティネットにも考えが及ぶ。
地球温暖化 2008年01月09日
今年のテーマは地球温暖化による環境だと言う。
これはなにも現代のテーマではなく、江戸時代にすでに安藤昌益や三浦梅園が言及していたし、ロンドンで産業革命を直視した夏目漱石はその環境破壊を指摘し、ワイルドな資本主義が作った格差社会を「人の可能性を否定するシステム」と批判している。
脱亜欧入で西洋かぶれした明治政府との違いを漱石の批判精神に感じる。
アナキズムでもプルードンやクロポトキンの「相互扶助」はエコロジー思想であるし、現代でもマレイ・ブクチンはそれを強く主張している。
環境テーマとはいうものの、実際にはエネルギー、水、レアメタル、食料など自然資本の占有問題であり、分配の不平等である。新自由主義経済やグローバリズムや植民地主義という鵺の翼の下にいる我々にそれが語れるのであろうか?
例えば携帯電話に使うレアメタルの獲得で戦争が起きている。
例えばバイオ燃料の原料である穀物を作るために多くの森林が焼き払われ、さらに穀物が高騰し先住民族など自然資本に依存していた人たちの食料が無くなった。
サブプライムローンなど金融商品の欠陥のツケは低賃金労働者の解雇で賄われ、かつては違法だった労働力の流動化は法人資本を肥大させるとともにネットカフェ難民を生んだ。
格差社会は社会不安を醸成するため国はハード面では刑法「改定」で、ソフト面では「道徳キョーイク」で対抗する。人々は繋がりを失い、分配の不平等を黙認し、個の利益のみ求める。「もうひとつの社会」はあるのだろうか?2008年頭
今年のテーマは地球温暖化による環境だと言う。
これはなにも現代のテーマではなく、江戸時代にすでに安藤昌益や三浦梅園が言及していたし、ロンドンで産業革命を直視した夏目漱石はその環境破壊を指摘し、ワイルドな資本主義が作った格差社会を「人の可能性を否定するシステム」と批判している。
脱亜欧入で西洋かぶれした明治政府との違いを漱石の批判精神に感じる。
アナキズムでもプルードンやクロポトキンの「相互扶助」はエコロジー思想であるし、現代でもマレイ・ブクチンはそれを強く主張している。
環境テーマとはいうものの、実際にはエネルギー、水、レアメタル、食料など自然資本の占有問題であり、分配の不平等である。新自由主義経済やグローバリズムや植民地主義という鵺の翼の下にいる我々にそれが語れるのであろうか?
例えば携帯電話に使うレアメタルの獲得で戦争が起きている。
例えばバイオ燃料の原料である穀物を作るために多くの森林が焼き払われ、さらに穀物が高騰し先住民族など自然資本に依存していた人たちの食料が無くなった。
サブプライムローンなど金融商品の欠陥のツケは低賃金労働者の解雇で賄われ、かつては違法だった労働力の流動化は法人資本を肥大させるとともにネットカフェ難民を生んだ。
格差社会は社会不安を醸成するため国はハード面では刑法「改定」で、ソフト面では「道徳キョーイク」で対抗する。人々は繋がりを失い、分配の不平等を黙認し、個の利益のみ求める。「もうひとつの社会」はあるのだろうか?2008年頭
映画 北辰斜にさすところ 2007年12月27日
作品は旧制七高(鹿児島)と五高(熊本)の野球の100周年記念試合がテーマである。当時のエースだった医師が、同窓会にも記念試合にも不参加で、その理由が戦争体験だったという反戦映画である。
平日の午後(13時40分)にもかかわらず80パーセント以上も観客が居たことに驚いた。しかもほとんど高齢者。
ラストに近い野球の試合では、現実の大学生の姿に戦死した当時のメンバーが重なるというシチュエーションだったが、周りからすすき泣きや嗚咽が聞こえた。頷くように首を上下に振っている人もいた。
無為に死んだ若い魂が観客の胸中に蘇ったのであろう。
声高に反戦は言わない。
しかし、彼らが生きていれば、野球をし、青春を謳歌し、誰かを助け社会に参加しただろうことは想像がつく。
その可能性の否定に涙がこぼれるのだ。
しかも、何の役にも立たなかった死であったからだ…
さらに、加害者としての立場も強制され300万人という「群の死」としてカウントされる。
それを思うと、そんなに不幸なことはなかったと思える。
多くの哀れみが、多くの喪失感が、多くの悔恨の念が人をして落涙させるのであろう…
あの戦争の責任を問う必要がある。
多くの可能性を秘めた若い人たちの「無駄死」「犬死」に対し責任をあきらかにする使命があるのではないだろうか?
私の父は1940年に旧制中学を卒業し一年浪人した後大学余科に入り、繰り上げ卒業し学徒出陣した。叔父はフィリピンのレイテ沖で戦死した。母の友人は慕っていた男性が「出陣」する時の靴音が耳に残って離れないと言う。
けして遠い話ではないのだ。
作品は旧制七高(鹿児島)と五高(熊本)の野球の100周年記念試合がテーマである。当時のエースだった医師が、同窓会にも記念試合にも不参加で、その理由が戦争体験だったという反戦映画である。
平日の午後(13時40分)にもかかわらず80パーセント以上も観客が居たことに驚いた。しかもほとんど高齢者。
ラストに近い野球の試合では、現実の大学生の姿に戦死した当時のメンバーが重なるというシチュエーションだったが、周りからすすき泣きや嗚咽が聞こえた。頷くように首を上下に振っている人もいた。
無為に死んだ若い魂が観客の胸中に蘇ったのであろう。
声高に反戦は言わない。
しかし、彼らが生きていれば、野球をし、青春を謳歌し、誰かを助け社会に参加しただろうことは想像がつく。
その可能性の否定に涙がこぼれるのだ。
しかも、何の役にも立たなかった死であったからだ…
さらに、加害者としての立場も強制され300万人という「群の死」としてカウントされる。
それを思うと、そんなに不幸なことはなかったと思える。
多くの哀れみが、多くの喪失感が、多くの悔恨の念が人をして落涙させるのであろう…
あの戦争の責任を問う必要がある。
多くの可能性を秘めた若い人たちの「無駄死」「犬死」に対し責任をあきらかにする使命があるのではないだろうか?
私の父は1940年に旧制中学を卒業し一年浪人した後大学余科に入り、繰り上げ卒業し学徒出陣した。叔父はフィリピンのレイテ沖で戦死した。母の友人は慕っていた男性が「出陣」する時の靴音が耳に残って離れないと言う。
けして遠い話ではないのだ。
