映画『デビルズノット』
1993年アーカンソー州ウェストメンフィスで男児3人が惨殺された実際の事件を追った映画。
この映画には普遍的な冤罪の作られ方(つくり方)が示されている。( )内は日本における類似事象の事件名。
1 唐突に出で来る警察協力の目撃者。ここでは被害者少年と親しい少年。これが冤罪の発端。(狭山事件、和歌山カレー事件)
2 自白と事実の違いを些細なこととしてしまう。被害者が縛られていたのは靴紐だが、目撃者も「自白」もロープと言う。つまり通常縛るものならロープだから創作した証言の典型であり虚偽証言であることがすぐ分かる。(島田事件)
3 重要参考人の血液サンプルを警察が紛失する。(飯塚事件では全量消費し再検査できなくした。袴田事件ではネガフィルムの紛失。これは後で検察証拠として出てくる)
4 発達遅滞の青年の共犯証言を誘導する。これが冤罪の補強。(丸正事件。あるいは八海事件の主犯の共犯証言。共犯証言ではないが野田事件)
5 いかがわしい博士という権威者の登場。映画では通販で獲得した学位を持つ者が専門家として悪魔崇拝について証言し補強となる。(E事件のタイヤ鑑定)
6 弁護活動の不備。主人公の調査員(私立探偵)が検察資料しか見ておらず生の証言テープを聞いていない国選弁護士を批判する。弁護士はそれを怒り「判事は我々を勝たせない」と捨て台詞を言う。日本の裁判でも何度も見てきた図。(熱海事件、氷見事件)
7 死刑が強力なツールとなること。
アーカンソー州は死刑復活州らしいが、共犯とされた16歳の少年に主犯格に不利な証言をすれば「死刑ではなく無期にできる」とバーゲニング(司法取引)をもちかける。それを言うのは弁護士。刑事においての「和解」感覚。実際日本で無実と知りながらやったと言えと言った弁護士がいる。(狭山事件。「やった」と言えば死刑にはしないとの約束)
8 偏見による犯人視。音楽(ヘビーメタル)、読書傾向(悪魔崇拝)、服装(黒づくめ)の不良という要素。この犯人視が怖いのはどんな理論も凌駕してしまうからだ。(犯人視ということでは甲山事件、和歌山カレー事件。不良ということでは布川事件)
9 バイブルベルト。敬虔なプロテスタント地域。ある意味キリスト教原理主義。悪魔と天使の存在が具体化している。悪魔に対する過度な恐れが、早く犯人逮捕で安心したいという心理をつくり、それが冤罪に加担してしまう。(北稜クリニック事件は、多くの人が容疑者候補だったため、早く犯人を「決めて」安心したいという心理が働いた。誰もが犯人とされる可能性があった和歌山カレー事件も同じ。宗教ではないが、「何か違う」「嫌われている」といった要素が犯人探しのエンジンになってしまう)
10 「犯人」(冤罪被害者)を貶めようとする証言者の存在。その「犯人」に連れられて悪魔信仰者の集会を見たという証言さえする。(御殿場事件、北稜クリニック事件)
11 ある人物の毛髪のDNA鑑定の不存在。あるいは鑑定結果の秘匿。(小松川事件の場合は、真犯人とは違うだろう冤罪被害者の血液型が公表されていない)
12 状況証拠の積み重ね、つまり可能性だけで有罪を言い渡す法廷。(恵庭OL事件)
事件はどうなったか?
18年後(2011年)、死刑と仮釈放のない無期だったにも関わらず、「有罪」証言という司法取引をして釈放された。しかし完全な自由ではないようだ。
有罪証言をしたために真犯人の捜査はされない。(足利事件)
緊張感を持続させるという点で、映画としてはたいへんよくできている。
また弁護士や判事、町の人々があまりにリアル。
ただ調査員(私立探偵)という職業が日本にはないのでつかみ所が無かったが、証拠へのアクセス権がかなりあるので、羨ましい限りだった。実際に弁護士より証拠の吟味は深かった。
冤罪事件の普遍性などを感じた。
またヒーローが出てきて一挙解決とはならないので、エンドロールのときの心はたいへん重く、体はシートに沈む一方だった。
DEVIL’S KNOT
2013年アメリカ映画
監督 アトム・エゴヤン
脚本 ポール・ハリス・ボードマン、スコット・デリクソン
原作 マラ・レヴェリット
ヘルマン・ヘッセ 翻訳の謎 Braunschweig その3
内陸部にあるブラウンシュバイクがなぜ「海岸」になったのか?
この謎を解くには言語的アプローチが必要と思った。
ある人から言わせると、ドイツでは海岸線が最北部の一部にしかないから「海」という表現がややこしいと言うのだ。例えばMeerは中性名詞のゲルマン系言語で主に南部で使われるが海でもあり湖としても使われる。Seeもゲルマン系言語だがこちらは主に北部で使われ、男性冠詞だと湖で、女性冠詞だと海なのである。もうひとつギリシャ系言語でOzeanがあるが、これは男性冠詞がつき「大洋」を示す。
Für den Norden und für das Meer hatte Knulp...Braunschweigische gekommen.
その部分の原語は前段に―北Nordenと海Meerに憧れをもっていた、となっており後段で―ブラウンシュバイクまで行った、となっているのだが地名のブラウンシュバイクがBraunschweigischeとなっていて語尾に-ischeがつき形容詞化しているのだ。
これはシンプルに訳すと「ブラウンシュバイクの」となるので、前段の「北」「海」に掛かると考えてしまうと「ブラウンシュバイクの海岸」になってしまう。
その意味で植訳は誤訳と言えるだろう。
私が疑問なのは地図を見るということをしなかったのだろうか?ということだ。
常盤新平がハードボイルド小説でジャックダニエルズJackDaniel’sを「ジャックダニエル印」と訳した翻訳家がいたと本に書いているが時代的限界あるいは情報的限界もあると思う。(知らない人はあまりいないと思うがJackDaniel’sはテネシーウィスキーの有名ブランドである)
「翻訳家には本当の教養が求められる」とはある大家の言葉だか、本当に恐ろしい。
内陸部にあるブラウンシュバイクがなぜ「海岸」になったのか?
この謎を解くには言語的アプローチが必要と思った。
ある人から言わせると、ドイツでは海岸線が最北部の一部にしかないから「海」という表現がややこしいと言うのだ。例えばMeerは中性名詞のゲルマン系言語で主に南部で使われるが海でもあり湖としても使われる。Seeもゲルマン系言語だがこちらは主に北部で使われ、男性冠詞だと湖で、女性冠詞だと海なのである。もうひとつギリシャ系言語でOzeanがあるが、これは男性冠詞がつき「大洋」を示す。
Für den Norden und für das Meer hatte Knulp...Braunschweigische gekommen.
その部分の原語は前段に―北Nordenと海Meerに憧れをもっていた、となっており後段で―ブラウンシュバイクまで行った、となっているのだが地名のブラウンシュバイクがBraunschweigischeとなっていて語尾に-ischeがつき形容詞化しているのだ。
これはシンプルに訳すと「ブラウンシュバイクの」となるので、前段の「北」「海」に掛かると考えてしまうと「ブラウンシュバイクの海岸」になってしまう。
その意味で植訳は誤訳と言えるだろう。
私が疑問なのは地図を見るということをしなかったのだろうか?ということだ。
常盤新平がハードボイルド小説でジャックダニエルズJackDaniel’sを「ジャックダニエル印」と訳した翻訳家がいたと本に書いているが時代的限界あるいは情報的限界もあると思う。(知らない人はあまりいないと思うがJackDaniel’sはテネシーウィスキーの有名ブランドである)
「翻訳家には本当の教養が求められる」とはある大家の言葉だか、本当に恐ろしい。
ヘルマン・ヘッセ 翻訳の謎 Braunschweig その2
クヌルプの邦題の話。
それは自由につけられたと考えられるが「漂泊の魂」(相訳)と「漂泊の人」(芳訳)の「漂泊」は偶然とは思えない。原作を剽窃するならまだしもだが、勝手につけた邦題をコピーするとは何事だろう…
さて、地名として出てくるブラウンシュバイク(Braunschweig)である。
クヌルプが旅好きで、しかも遠方まで足を延ばしているというたとえに使われる地名であり珍しく実在する。ニーダーザクセン州(Niedersachsen)の州都ハノーファー(Hannover)の東にある人口30万人ほどの大聖堂で有名な古都である。
植訳では「ブラウンシュバイクの海岸に達したことがある」となっているが、これがクヌルプの旅を実践しようと思う輩には大問題なのだった。なぜならブラウンシュバイクは内陸部で海岸などなく最も近い海岸までゆうに200キロはあるのである。
相訳では「ブラウンシュバイクの地方」芳訳「ブラウンシュバイクのあたり」大御所高橋健二訳(以後高訳)「ブラウンシュバイクまで」となっていて「海岸」と表現したのは植訳だけ。
ここで決定的と思われる文献、日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会が2006年に編んだ『ヘルマン・ヘッセ全集第六巻』を参照した(以後全集)。
ここでは「ブラウンシュバイクまで」となっていた。ところがこの文献にも問題があり、最初に出てくるLächstettenに対しては「レヒシュタイン」(p.157)と表記されているのである。ところが次には「レヒシュテッテン」(p.160)となっていて、なんで?なのである。
ドイツ語そのものに問題があるのか?とも思った。
それはドイツ語は大きく分けて低地ドイツ語、中部ドイツ語、高地ドイツ語と地域語(木下順二にならって方言と言わずに地域語と言う)があり、発音も表記も違う。というよりもっと地域語は多様で、plattdeutsch(平地ドイツ語、北方)、berlinisch(ベルリン)、sächsisch(ザクセン)、thüringisch(チューリンゲン) kölsch(ケルン) hessisch(ヘッセン) schwäbisch(シュヴァーベン) bairisch(ババリア) wienerisch(ウィーン) züri-
tüütsch(チューリッヒ)とあり表記も発音も異なる。
現在「標準」として使われているのは高地ドイツ語(Hochdeutsch)であるが、地域語は各地で尊重され辞書の編纂も盛んである。これはイタリア同様小国の集まりだったからだ。しかしイタリアではおばあちゃんがロマーニャ(ローマ語)で子どもに話すと若い母親から「そんな言葉使わないで!」と怒られるとあるローマ人から聞いた。真偽のほどはわからない。現在は標準イタリア語が中心。
フランスもブルトン語、オクシタン語、カタラン語など地域語でバカロレアを受けられる。
イングランド(対ウェールズ語)や沖縄(対ウチナーグチ)であった「方言札」との関係を考えると興味深い。イングランドのアイルランド支配をテーマとした映画『麦の穂を揺らす風』(ケン・ローチThe Wind That Shakes the Barley2006)では、「反乱」分子として捕えられた抵抗者たちが名前を問われてアイルランド名を言う、結局イングランド名を言わないため射殺されてしまう。これは創氏改名を連想させる。地域語は中央集権や国民国家等政治的な問題につながるのだろう。
またヘッセが書いたのは100年ほど前なのでその時代的問題もあるのかと思った。
ローマ字文化圏では話し言葉を記録するところから表記が始まったから、表記と発音が一体化し時間的経過があっても言葉のかい離があまりないという学者がいる。
反面日本は漢字という輸入ツールを用いたため文言が一致せずほんの少しの時間的経過で言葉そのものが大きくかい離したのだと言う。ただ少なくともヘッセの作品は現代ドイツ語で完全に理解できる。
そこで原書にあたることにしたが、これがなかなか見つからない。やっと見つけたのはSuhrkamp Verlag(ズールカンプ・フェアラーク)の1970年版である。この出版社はFrankfult am Mainにある。このフランクフルトは「有名な方の」で、ヘッセン州(Hessen)の州都で am Mainはマイン川に面しているという意味である。もうひとつのフランクフルトはBradenburg(ブランデンブルグ)州のFrankfurt an der Oder(オーデル川に面した)でポーランド国境に近い人口6万ほどの「何もない」町であるが、劇作家のハインリヒ・フォン・クライスト (Heinrich von Kleist)の生地として有名である。クライストはシラーと並ぶ位置を占めている。
クヌルプの邦題の話。
それは自由につけられたと考えられるが「漂泊の魂」(相訳)と「漂泊の人」(芳訳)の「漂泊」は偶然とは思えない。原作を剽窃するならまだしもだが、勝手につけた邦題をコピーするとは何事だろう…
さて、地名として出てくるブラウンシュバイク(Braunschweig)である。
クヌルプが旅好きで、しかも遠方まで足を延ばしているというたとえに使われる地名であり珍しく実在する。ニーダーザクセン州(Niedersachsen)の州都ハノーファー(Hannover)の東にある人口30万人ほどの大聖堂で有名な古都である。
植訳では「ブラウンシュバイクの海岸に達したことがある」となっているが、これがクヌルプの旅を実践しようと思う輩には大問題なのだった。なぜならブラウンシュバイクは内陸部で海岸などなく最も近い海岸までゆうに200キロはあるのである。
相訳では「ブラウンシュバイクの地方」芳訳「ブラウンシュバイクのあたり」大御所高橋健二訳(以後高訳)「ブラウンシュバイクまで」となっていて「海岸」と表現したのは植訳だけ。
ここで決定的と思われる文献、日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会が2006年に編んだ『ヘルマン・ヘッセ全集第六巻』を参照した(以後全集)。
ここでは「ブラウンシュバイクまで」となっていた。ところがこの文献にも問題があり、最初に出てくるLächstettenに対しては「レヒシュタイン」(p.157)と表記されているのである。ところが次には「レヒシュテッテン」(p.160)となっていて、なんで?なのである。
ドイツ語そのものに問題があるのか?とも思った。
それはドイツ語は大きく分けて低地ドイツ語、中部ドイツ語、高地ドイツ語と地域語(木下順二にならって方言と言わずに地域語と言う)があり、発音も表記も違う。というよりもっと地域語は多様で、plattdeutsch(平地ドイツ語、北方)、berlinisch(ベルリン)、sächsisch(ザクセン)、thüringisch(チューリンゲン) kölsch(ケルン) hessisch(ヘッセン) schwäbisch(シュヴァーベン) bairisch(ババリア) wienerisch(ウィーン) züri-
tüütsch(チューリッヒ)とあり表記も発音も異なる。
現在「標準」として使われているのは高地ドイツ語(Hochdeutsch)であるが、地域語は各地で尊重され辞書の編纂も盛んである。これはイタリア同様小国の集まりだったからだ。しかしイタリアではおばあちゃんがロマーニャ(ローマ語)で子どもに話すと若い母親から「そんな言葉使わないで!」と怒られるとあるローマ人から聞いた。真偽のほどはわからない。現在は標準イタリア語が中心。
フランスもブルトン語、オクシタン語、カタラン語など地域語でバカロレアを受けられる。
イングランド(対ウェールズ語)や沖縄(対ウチナーグチ)であった「方言札」との関係を考えると興味深い。イングランドのアイルランド支配をテーマとした映画『麦の穂を揺らす風』(ケン・ローチThe Wind That Shakes the Barley2006)では、「反乱」分子として捕えられた抵抗者たちが名前を問われてアイルランド名を言う、結局イングランド名を言わないため射殺されてしまう。これは創氏改名を連想させる。地域語は中央集権や国民国家等政治的な問題につながるのだろう。
またヘッセが書いたのは100年ほど前なのでその時代的問題もあるのかと思った。
ローマ字文化圏では話し言葉を記録するところから表記が始まったから、表記と発音が一体化し時間的経過があっても言葉のかい離があまりないという学者がいる。
反面日本は漢字という輸入ツールを用いたため文言が一致せずほんの少しの時間的経過で言葉そのものが大きくかい離したのだと言う。ただ少なくともヘッセの作品は現代ドイツ語で完全に理解できる。
そこで原書にあたることにしたが、これがなかなか見つからない。やっと見つけたのはSuhrkamp Verlag(ズールカンプ・フェアラーク)の1970年版である。この出版社はFrankfult am Mainにある。このフランクフルトは「有名な方の」で、ヘッセン州(Hessen)の州都で am Mainはマイン川に面しているという意味である。もうひとつのフランクフルトはBradenburg(ブランデンブルグ)州のFrankfurt an der Oder(オーデル川に面した)でポーランド国境に近い人口6万ほどの「何もない」町であるが、劇作家のハインリヒ・フォン・クライスト (Heinrich von Kleist)の生地として有名である。クライストはシラーと並ぶ位置を占めている。