映画『熊座の淡き星影』
早稲田松竹でヴィスコンティの「ルートヴィッヒ」と「熊座の淡き星影」を観た。「熊座の淡き星影」は初見でクラウディナ・カルディナーレが主演だった。
ヴィスコンティとカルディナーレなら真っ先に頭に浮かぶのは「山猫」である。
映画でも舞台でも主演の「出」は誰もが力を入れる。
またそれに悩むのは演出の快感でもある。
その「出」が最も美しいと思ったのは「山猫」のカルディナーレである。息を呑む美しさだった。
映画は総合芸術であり、総合芸術だからこそできる美しさだと思った。
ならば二番目はなんだろう?
二番目は中平康監督の『狂った果実』の北原三枝がバス停で立っているシーンだ。残念ながら初出ではないが…それも息を呑む美しさだった。
ところが二番目以降はないのだ。
強いて言えば『死刑台のエレベーター』でジャンヌ・モローが顔を車のボディーに映すシーンだ。
それ以外は皆無だ。
『熊座…』はジャコモ・レオパルディの詩から導いたタイトルで、ベースはギリシャ悲劇の「エレクトラ」だと言う。
ユダヤ人強制収容所、遺産相続、というモチーフの中の心理劇としてたいへん優れている。スーパーだけの解釈では厳しいかもしれない。
ヴィスコンティであるので、カメラワーク、美術、セットは大変魅力的である。ちなみにモノクローム。
この作品が1965年、「山猫」が1963年、この2作品におけるカルディナーレは全く別人。
「ルードヴィッヒ」は生涯二度目だが、全然理解が違った。今回の方がはるかに良かった。4時間という時間を感じなかった。ヘルムード・バーガーが鬼気迫る演技は賞賛に値するだろうし、シルバーナ・マンガーノもロミー・シュナイダーの良さを今回理解した。
去年は「ベニスに死す」「山猫」の二本立てで名作酔いした(名作酔いというのは鑑賞後何日もシーンや音楽が脳裡を占めるという状態)のだが、「ルートヴィッヒ」は名作というより、大作。美術、衣装、セット、言葉にできないほどスゴい。
ルートヴィッヒ2世は「永遠に謎でありたい、他人にも私自身にも」と言ったというが、私もそうでありたい(笑)
自分から見て、自分が見え透いた有機体などつまらない。
自分が謎に感じる。
そんな自分でありたい。
映画『陽炎』
最初に任侠映画を作ったのは日活である。
しかし任侠映画の様式を作り、路線を完成させたのは東映である。
本作品は五社英雄監督が1991年に松竹で作った仁侠映画である。
私の最大の関心は主演の樋口可南子が手本引きの胴師であり、藤純子の緋牡丹お龍との比較においてであった。また脚本が高田宏治であることもとても気になった。
樋口は肥後は熊本の二本木出身で「不知火おりん」と異名をとる城島りんである。ちなみに藤は熊本は人吉の侠客の娘矢野竜(龍)子である。
時は昭和3年夏。
りんの父親は流れ者のばくち打ちで、屏風札のイカサマが見つかり娘の目の前で殺されてしまうが、殺した男の背中には不動明王の文身が入っている。ここで復讐譚であることが分かる。
その後りんは八雲という大きな料亭の夫婦に拾われ幼女となるものの、周囲の蔑みから出奔してしまい、気がつくと菩薩の文身を背負った胴師になっていたというわけ。
不動明王の文身を背負っているのは仲代達矢演じるところの「不動の常」で、一流の胴師である。
八雲の実子である一太郎が博打に溺れ、八雲を殺し屋あがりの暴力団に乗っ取られていて、それをおりんが取り戻そうとする。
おりんが引き札を稽古するシーンがあって、水を満たした木杯を右肩に載せて札を繰るのだが、なぜか裸なのである。水か少しこぼれ文身を伝うが、そこに映像美を求めたのだろうがやや不自然。
そこに唐突に仲代が入ってきて「もっと肩の力を抜け」と言う。
そこで御祭礼の花会が開かれるのだが、りんの後見の大阪の難波政組が加わり大花会となる。無論その組の親分(岡田英次)はりんの復讐と八雲の再建に協力しようと思っている。
最終的におりんと不動の常の一騎撃ちとなる。
おりんは胴が「前きり」がどうか尋ねる。すると、不動の常は「天井知らず」と答える。そこで難波政組は100万円という大金を準備する。
張札を音を立てて出すおりん。
すいちである。
かみしたを開く常。目安駒には触れない。合力が「根の二」と言う。
おりんの張札も「二」で、常はおりんの読みを褒め、負けを認める。
常にはマネージャーのような男(川谷拓三)がいて(彼は合力もやる)、負けた責任で指を詰めるがそれでは許してくれない。おりんを殺せと言われる。
そのときに、根が三回続いたのは不自然で、常がおりんの張りを読んだ片イカサマではないかと指摘する男がいる。常がいなければ胴師になっていた川地民雄である。
川谷拓三は常はそんなことをする男ではないと言う。
私がつっこみたかったのは「不動の常」なんだから不動で根が三回続いてもいいのでは?というところ。
おりんを慕う女衒を殺され、弟と弟の愛人を殺され、自分も命を狙われ討ち入りとなるが、討ち入りは喪服に素足。
しかし持つものはダイナマイトとピストル。
なんと助太刀は敵であるはずの不動の常こと仲代達矢。
その理由は「オレは惚れた」
仲代は果てるが、なんと樋口と口づけをする。
東映の仁侠映画の様式美と基本的に違うのは直接的なラブシーンがあることと、女性の裸身が出てくるところ。
気付いたこと。
合力が客に張らせるとき「さたせ」あるいは「さあ、たっせ」と言っていた。
胴はかみしたを返さない。つまり札を入れたときの状態を保って置く。つまりかみしたに入れる時の引札の向きは表を向いているということ。
仲代がなかなかかっこよく、樋口もけして無様ではなかったし、勝負のシーンは緊張感があった。
日活ロマンポルノの芹明香が出演していた。
最初に任侠映画を作ったのは日活である。
しかし任侠映画の様式を作り、路線を完成させたのは東映である。
本作品は五社英雄監督が1991年に松竹で作った仁侠映画である。
私の最大の関心は主演の樋口可南子が手本引きの胴師であり、藤純子の緋牡丹お龍との比較においてであった。また脚本が高田宏治であることもとても気になった。
樋口は肥後は熊本の二本木出身で「不知火おりん」と異名をとる城島りんである。ちなみに藤は熊本は人吉の侠客の娘矢野竜(龍)子である。
時は昭和3年夏。
りんの父親は流れ者のばくち打ちで、屏風札のイカサマが見つかり娘の目の前で殺されてしまうが、殺した男の背中には不動明王の文身が入っている。ここで復讐譚であることが分かる。
その後りんは八雲という大きな料亭の夫婦に拾われ幼女となるものの、周囲の蔑みから出奔してしまい、気がつくと菩薩の文身を背負った胴師になっていたというわけ。
不動明王の文身を背負っているのは仲代達矢演じるところの「不動の常」で、一流の胴師である。
八雲の実子である一太郎が博打に溺れ、八雲を殺し屋あがりの暴力団に乗っ取られていて、それをおりんが取り戻そうとする。
おりんが引き札を稽古するシーンがあって、水を満たした木杯を右肩に載せて札を繰るのだが、なぜか裸なのである。水か少しこぼれ文身を伝うが、そこに映像美を求めたのだろうがやや不自然。
そこに唐突に仲代が入ってきて「もっと肩の力を抜け」と言う。
そこで御祭礼の花会が開かれるのだが、りんの後見の大阪の難波政組が加わり大花会となる。無論その組の親分(岡田英次)はりんの復讐と八雲の再建に協力しようと思っている。
最終的におりんと不動の常の一騎撃ちとなる。
おりんは胴が「前きり」がどうか尋ねる。すると、不動の常は「天井知らず」と答える。そこで難波政組は100万円という大金を準備する。
張札を音を立てて出すおりん。
すいちである。
かみしたを開く常。目安駒には触れない。合力が「根の二」と言う。
おりんの張札も「二」で、常はおりんの読みを褒め、負けを認める。
常にはマネージャーのような男(川谷拓三)がいて(彼は合力もやる)、負けた責任で指を詰めるがそれでは許してくれない。おりんを殺せと言われる。
そのときに、根が三回続いたのは不自然で、常がおりんの張りを読んだ片イカサマではないかと指摘する男がいる。常がいなければ胴師になっていた川地民雄である。
川谷拓三は常はそんなことをする男ではないと言う。
私がつっこみたかったのは「不動の常」なんだから不動で根が三回続いてもいいのでは?というところ。
おりんを慕う女衒を殺され、弟と弟の愛人を殺され、自分も命を狙われ討ち入りとなるが、討ち入りは喪服に素足。
しかし持つものはダイナマイトとピストル。
なんと助太刀は敵であるはずの不動の常こと仲代達矢。
その理由は「オレは惚れた」
仲代は果てるが、なんと樋口と口づけをする。
東映の仁侠映画の様式美と基本的に違うのは直接的なラブシーンがあることと、女性の裸身が出てくるところ。
気付いたこと。
合力が客に張らせるとき「さたせ」あるいは「さあ、たっせ」と言っていた。
胴はかみしたを返さない。つまり札を入れたときの状態を保って置く。つまりかみしたに入れる時の引札の向きは表を向いているということ。
仲代がなかなかかっこよく、樋口もけして無様ではなかったし、勝負のシーンは緊張感があった。
日活ロマンポルノの芹明香が出演していた。
先住民族の20年を振り返って、そしてこれから
国連が定めた「先住民族の10年」が10年延長され、今年でその年限を終えることから表題のシンポジウムが開かれた。
その中でニューヨークで開かれた「先住民族に関する世界会議(WCIP)」が9月23日に採択した40項目からなる成果文書についての報告がされた。
その中のいくつかを紹介したい。
7 国会議員、法曹界、公務員を含む社会のすべてのセクター間での国連先住民族権利宣言についての認識を促進するために、先住民族との協議および協力の下で、立法、政策および行政措置を含む国家レベルでの適切な措置を講ずることを公約する。
この文言は人種差別撤廃委員会で、教科書に先住民族を反映するようにとの日本に対しての勧告があったがそれと同等のものと思われる。
14 すべての先住民族の子どもが、彼あるいは彼女のグループのメンバーと共に、コミュニティの中で、彼あるいは彼女自身の文化を享受し、彼あるいは彼女自身の宗教を信仰および実践し、または彼あるいは彼女自身の言語を使う権利を促進することを公約する。
20 国連先住民族権利宣言に関して、先住民族の土地、領域およびその他の資源に影響するすべてのプロジェクトの承認に先立ち、自由で事前の情報に基づく合意を獲得することを目的として、先住民族自身の代表制度を通じて、当該先住民族と誠実に協議し協力するための国家による公約を承認する。
27 国連先住民族権利宣言の目的に従い、先住民族の宗教的かつ文化的な場所および彼・彼女らの儀式用具と遺骨の返還およびそのアクセスを提供することの重要性を確認および承認する。(略)
現在問題になっているアイヌ民族の遺骨返還問題に明確な指針が示された。
第一義的にまずは返還ありきなのだ。その最大限の努力を払う必要がある。
33 (略)先住民族に影響を与える問題に関して、関係する国連機関の会合において、先住民族代表および機関の参加を可能にする方法を検討することを公約する。
機関ということは、先住民族政府あるいはそれを準国なみに扱うということである。
そのことについては40において以下の文言がある。
40 (略) 先住民族の代表者の国連の参加を促進する方法と手段に関する事務局長の報告を基に先住民族の代表者と機関の参加を可能にする具体的な提案を提出するよう要求する。
(市民外交センター訳)
懸念事項として、先住民族権利宣言30条にあった先住民族の土地の軍事利用の禁止が盛り込まれなかったこと。
これは沖縄に直結する問題である。
だから日本政府はウチナンチューは先住民族ではないと定義したがるのだが…
しかし人種差別撤廃委員会は2014年8月29日に沖縄の人々は先住民族だとしてその権利を保護するよう勧告する最終見解を発表した。そして日本政府が先住民族と認識していないことに懸念を表明した。(委員会の先住民族「認定」は、ユネスコが特有の民族性、歴史、文化、伝統を認めていることが根拠)
また同委員会は2010年に、沖縄への米軍基地の集中は「現代的な形の人種差別」と認定している。
蛇足ながら質疑応答のときに私がこう質問した。
「ウチナンチュが先住民族と自認している割合、あるいは年代による差異、データはないのでイメージで教えてほしい」
国連NGO「琉球弧の先住民族会」の当真さんが応えてくれたところによると、自認している人は極めて少なく、高齢者になるとほとんどいないとのことだった。その理由は、「先住民族」というイメージに「遅れた」「未開の」「野蛮な」というものがあるからだと指摘された。
私は沖縄県という県があるため県民としてのアイデンティティが醸成されているからではないかと思ったが…
さらに私も先住民族とカテゴライズするより(日米2国の)被植民地民族(ヘンな単語だが)と言ったほうがしっくりする感はある。しかし収奪の観点から行くと紛れも無い先住民族だと思う。
ところが当日の配布資料の中に「沖縄県」に関する興味深い資料があった。
それは「琉球処分は国際法違反」というものだ。
その根拠は「琉球国が米国、フランス、オランダなど3国と結んだ修好条約から、琉球は国際法上の主体であり、日本の一部ではなかったから」というものだ。
さらに軍隊や警察が首里城を包囲し沖縄県設置の同意を尚泰王に迫った行為は、当時の慣習国際法が禁じた「国の代表への強制」(ウィーン条約法条約51条違反)に当たると指摘。
その研究者の指摘に外務省は「外務省として確定的なことを述べるのは困難」と否定しなかった。
1893年にハワイ王国を併合した米国に対し先住民族がハワイ王国が欧米諸国と結んだ条約を根拠に国際法違反を追及し、1993年に米議会とクリントン大統領は違反を認め謝罪している。
国連が定めた「先住民族の10年」が10年延長され、今年でその年限を終えることから表題のシンポジウムが開かれた。
その中でニューヨークで開かれた「先住民族に関する世界会議(WCIP)」が9月23日に採択した40項目からなる成果文書についての報告がされた。
その中のいくつかを紹介したい。
7 国会議員、法曹界、公務員を含む社会のすべてのセクター間での国連先住民族権利宣言についての認識を促進するために、先住民族との協議および協力の下で、立法、政策および行政措置を含む国家レベルでの適切な措置を講ずることを公約する。
この文言は人種差別撤廃委員会で、教科書に先住民族を反映するようにとの日本に対しての勧告があったがそれと同等のものと思われる。
14 すべての先住民族の子どもが、彼あるいは彼女のグループのメンバーと共に、コミュニティの中で、彼あるいは彼女自身の文化を享受し、彼あるいは彼女自身の宗教を信仰および実践し、または彼あるいは彼女自身の言語を使う権利を促進することを公約する。
20 国連先住民族権利宣言に関して、先住民族の土地、領域およびその他の資源に影響するすべてのプロジェクトの承認に先立ち、自由で事前の情報に基づく合意を獲得することを目的として、先住民族自身の代表制度を通じて、当該先住民族と誠実に協議し協力するための国家による公約を承認する。
27 国連先住民族権利宣言の目的に従い、先住民族の宗教的かつ文化的な場所および彼・彼女らの儀式用具と遺骨の返還およびそのアクセスを提供することの重要性を確認および承認する。(略)
現在問題になっているアイヌ民族の遺骨返還問題に明確な指針が示された。
第一義的にまずは返還ありきなのだ。その最大限の努力を払う必要がある。
33 (略)先住民族に影響を与える問題に関して、関係する国連機関の会合において、先住民族代表および機関の参加を可能にする方法を検討することを公約する。
機関ということは、先住民族政府あるいはそれを準国なみに扱うということである。
そのことについては40において以下の文言がある。
40 (略) 先住民族の代表者の国連の参加を促進する方法と手段に関する事務局長の報告を基に先住民族の代表者と機関の参加を可能にする具体的な提案を提出するよう要求する。
(市民外交センター訳)
懸念事項として、先住民族権利宣言30条にあった先住民族の土地の軍事利用の禁止が盛り込まれなかったこと。
これは沖縄に直結する問題である。
だから日本政府はウチナンチューは先住民族ではないと定義したがるのだが…
しかし人種差別撤廃委員会は2014年8月29日に沖縄の人々は先住民族だとしてその権利を保護するよう勧告する最終見解を発表した。そして日本政府が先住民族と認識していないことに懸念を表明した。(委員会の先住民族「認定」は、ユネスコが特有の民族性、歴史、文化、伝統を認めていることが根拠)
また同委員会は2010年に、沖縄への米軍基地の集中は「現代的な形の人種差別」と認定している。
蛇足ながら質疑応答のときに私がこう質問した。
「ウチナンチュが先住民族と自認している割合、あるいは年代による差異、データはないのでイメージで教えてほしい」
国連NGO「琉球弧の先住民族会」の当真さんが応えてくれたところによると、自認している人は極めて少なく、高齢者になるとほとんどいないとのことだった。その理由は、「先住民族」というイメージに「遅れた」「未開の」「野蛮な」というものがあるからだと指摘された。
私は沖縄県という県があるため県民としてのアイデンティティが醸成されているからではないかと思ったが…
さらに私も先住民族とカテゴライズするより(日米2国の)被植民地民族(ヘンな単語だが)と言ったほうがしっくりする感はある。しかし収奪の観点から行くと紛れも無い先住民族だと思う。
ところが当日の配布資料の中に「沖縄県」に関する興味深い資料があった。
それは「琉球処分は国際法違反」というものだ。
その根拠は「琉球国が米国、フランス、オランダなど3国と結んだ修好条約から、琉球は国際法上の主体であり、日本の一部ではなかったから」というものだ。
さらに軍隊や警察が首里城を包囲し沖縄県設置の同意を尚泰王に迫った行為は、当時の慣習国際法が禁じた「国の代表への強制」(ウィーン条約法条約51条違反)に当たると指摘。
その研究者の指摘に外務省は「外務省として確定的なことを述べるのは困難」と否定しなかった。
1893年にハワイ王国を併合した米国に対し先住民族がハワイ王国が欧米諸国と結んだ条約を根拠に国際法違反を追及し、1993年に米議会とクリントン大統領は違反を認め謝罪している。