前回の続きです。)
 
司馬氏による治療の方針
 Kさんはもともと自分の気持ちを表現することが得意な方ではありません。小さい時の様子を細かく聞いていくと、ASDの受動群のタイプのようです。指示が分かっていれば、言われたようにするけれど、分からないとできなくなってしまうのです。また、人に助けてほしいと頼むことができないので、困っていてもそこからどうにかすることができません。更に、親の育て方のため、またKさんとは対照的に自分の気持ちをはっきりと言える妹の存在のために、益々自分を表現できなくなってしまいました。
 
 これからの生活では、少しずつ自分で決めてみることを提案しました。迷う時に人のアドバイスを参考にしていいから時間をかけて、また、いろいろな考えの中からどれかを選ぶ時には、もっと主体的に取り組めるようにしていくことを助言しました。
 Kさんは大学を続けたいと希望していたので、大学に関する相談は大学の学生相談室を利用することを提案しました。発達障害についての知識と理解のある学生相談室の担当者とKさん本人が定期的に面談し、課題の進捗状況を確認してもらったり、必要な場合によっては共感とのコミュニケーションの橋渡しをしてもらうように勧めました。親が相談すると、これまでの習慣から、自分で決めないで親に判断をゆだねたり、自分が違う考えを持っていても、親に押し切られたりする可能性があるためです。
 また、大学生活以外のことについては、クリニックの臨床心理士と2週間に1回話し合いながら、自分の人生の方向を考え、日々の人付き合いやコミュニケーションの難しさからくる課題について一緒に解決していくことにしました。
 今後、家族としてどのようにKさんをサポートしていけばいいのかのビジョンが見えないため、お母さんも別の臨床心理士とカウンセリングをすることにしました。お母さんには、失敗が続いた時についネガティブな声掛けをしたり、ため息をついたりしていたのをやめてもらい、Kさんの頑張りをしっかりと認めてもらうことにしました。また、時間がかかっても本人がいろいろと決断していくのを母親が支えていくことを提案しました。
 
Kさんはその後、こう変わった
 大学の相談室でカウンセラーの支援を受けながら、少しずつ単位を取り、学年も進んでいきました。どんなスケジュールで課題に取り組み提出すればいいのか、タイムスケジュールの作り方をカウンセラーから教えてもらい、だんだん自分でもできるようになってきました。決まった手順に従えば、試験勉強にもうまく対応できるようになりました。
 人付き合いについては臨床心理士と日常の困ったシチュエーションを振り返り、どのようにふるまうか、どんなコミュニケーションをしたらいいかを考えて整理していきます。ASDの人は、「No」と断れないために、頼まれるままにアルバイトをぎっしり入れてしまったり、好きでもない異性から付き合いを求められても断れなかったりしたりすることがあります。そこで、相手の言うままにいろいろな仕事や役割を抱えてしまうのではなく、すぐには返事をしないで家に帰ってからよく考えたり、カウンセラーなどと相談してから返事をするようにしました結果、少しずつスキルを身に付けていきました。
 
【感想】
   ADHDという先天的な障害を疑った母親でしたが、まさか、自身の過干渉・過保護(この二つの違いは、本ブログ記事「『過保護』より深刻な『過干渉』~危険ゾーンはどこから!?~」参照)による養育が原因だったとは驚きだったでしょう。
「大学生になったんだから、自己管理もある程度できるようになったと期待していたのにショック」と母親は思っていたようですが、大学生になってさえ自己管理できない子どもに育てたのは、高校までの“18年間”という長い時間をかけて行ってきたご自身の養育のためであったというのは、何という皮肉な結果でしょうか。
 
乱れやすい大学生活
   大学では、高校までのように、時間割があらかじめ決まっているわけではなく、何をいつ学ぶかは、自分で考えて判断し決定しなければなりません。そのため、今回のKさんに限らず、自分で意思を決定する経験が少なく育った子どもにとっては、大学での生活が乱れがちになります。
   そのため、友達同士で相談しながら履修科目を決める学生が多いのですが、乳幼児期から親から放任的、否定的な養育を受けてきた「回避型」愛着タイプの人は、友達との相談からも浮きがちで、更に困ることになるかもしれません。
 
Kさんに最も欠けていた“働き”
   今回の事例の中で、私が一番気になったことは、“父性”の働きの欠如です。
   本来父親は、子どもをわが身から離し自立させようとする“父性”の働きを持っていますが、一方で、母親は子どもを自分の中に受容しよう、取り込もうとする“母性”を持っています(「自分のお腹を痛めて産んだ子どもは自分の分身」という生物的背景による意識があるためだと考えられます)。このKさんの場合は、その“母性”が強く働き過ぎた事例だと言えるでしょう。
   この事例からは父親の存在は見えてきませんが、世の中には子育てに殆ど関わらないお父さんもいますし、母子家庭もかなりの割合を占めています。場合によっては、普段から母親が父親をからかったりイジったりするために、家庭の中での父親の立場が弱いケースもあるようですから、同様の状況に陥っている家庭は他にもあるのではないでしょうか?その場合でも、子どもの自立を図る父性の働きを意図的に加える必要があると思います。
   その具体例としては「見守り4支援」による行為が挙げられます。改めて、「①子どもに任せる、②子どもの活動を見守る、③子どもからSOSを求めてきた時に優しく諭し教える、④子どもができた時には褒める」という「見守り4支援」による接し方の重要性を感じます。



実際の場面では、子どもからSOSを求めてくるまで口を挟まない、ということについてはかなりの覚悟と辛抱が必要になる場合もあると思いますが、そこは親の忍耐が求められるところだと思います。
 
   なお、Kさんに欠けていたこの「意思決定能力」は、自立した社会人になるために必要な「キャリア教育」(本ブログ記事「社会的自立のために『学力』よりも大切な4つの能力」参照)で求められる4つの能力のうちの一つでもありますから、親御さんは自覚を持ってその能力の向上に当たる必要があると思います。
 
先天性の素因を親の養育で変える
   また、Kさんは自閉傾向の中でも「受動」タイプであったということです(一口に自閉症スペクトラム障害と言ってもみな同じ特徴を示すわけではなく、その表れ方は幾つかのタイプに分かれているとされています(①自分を全く出さない「受動」タイプ、②自分のルールを押し付ける「積極奇異」タイプ、③周りとうち溶け込めないことを気にしない「孤立」タイプ、④正論をぶつけ怒りやすい「尊大(威張っている)」タイプ、過剰に丁寧な言葉を使う「大仰(大げさ)」タイプ)。
   因みに、このKさんのように「頼まれると『いや』と言えない」という子どもは、少なからずいると思われます。子どもに限らず、大人であっても、子どもの頃からずっと変わらずそういう性格だったという人もいるのではないでしょうか。実は、それが、誰でも大なり小なり先天的に持っている自閉症の特性の表れだったのかも知れません。
   その先天性の素因を修正するためには、自分の意思で物事を決定することができるようになるための“意図的な訓練”が必要になるはずです。児童精神科の大家である杉山登志郎氏は、その著書の中で、遺伝的素因だけでなく環境因子も発達障害の症状に影響を与えるとし、親の養育次第で発達障害の症状は改善すると指摘しています。「うちの子にはいくら言ってもダメ」等とあきらめずに、辛抱強く接することが大切だと思います。
 
社会から離脱するリスク
   本事例では司馬先生の人脈で、様々な関係各所を頼ってケアをしていました。しかし、この配慮を他の同様の悩みを持つ子ども達にもできるかというと、決してそうではありません。つまり、幼い頃からの養育の仕方を誤ると、場合によっては、大学を中退するという事態に陥る可能性もあるでしょう。
   因みに、大人の引きこもりで最も多いのは、「一度就いた仕事から退職した後に再就職できなかったこと」だそうです(本ブログ記事「中高年の引きこもり61万人~引きこもりになった理由で最も多かったのは退職~」参照)が、大学の中退も同様のきっかけになってしまう場合も少なくないと思われます。