国策なき時代に | 果てなき旅路

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牛



1932(昭和7)年5月15日は、戦前の日本の象徴を表すような一日でした。


今回は2年前のブログを大幅に加筆・修正したものをアップしております


五・一五事件


いわゆる軍事政権の樹立を目論んだ海軍の青年将校らによって、時の首相・犬養毅(立憲政友会)が暗殺されました。


その日は朝からよく晴れた穏やかな日曜日で、犬養首相は首相官邸でゆっくりとした休日を過ごしていたと言われています。


ところが午後5時半頃、首相官邸に乱入した青年将校たちは、警備の警官を狙撃し食事中の犬養のもとに殺到しました。 


彼らは三上卓、山岸宏海軍中尉を中心とする陸・海軍軍人と士官候補生が9名で、既に警備の警察官1名を射殺し、もう1名に重傷を負わせていました。 
 

犬養首相の官邸に侵入した9人も、仲間と共にテロ行為を起こして戒厳令が敷かれれれば、 犬養死亡後の政権は、必ず軍事政権が誕生するものと信じて決行したものでした。 


この時官邸に侵入し、先に犬養毅を発見したのは三上でした。


興奮状態の彼らに出会った時に、犬養毅首相は…


何を騒いどるんや!!


と一喝…


このうちの一人が引き金を引きますが、弾が装着されておらず不発。


さらに銃を突きつけられても…


待て待て!

話せばわかる!


と対応し、彼らを客間へ通しました。


緊迫感の中でも首相は、常に冷静であり、タバコをふかす余裕もあったほどです。


そこで三上が…


俺らが何のために来たか分かりますか?

何か言いたいことがあるなら言ってください!


と…。 


その言葉を聞いた犬養が自分の考えを、今日本の置かれている状況を踏まえて、とき聞かせる気で何か言うと、その瞬間部屋に入ってきたばかりの山岸が…


問答無用!!

撃て!!


と叫んだことから、黒岩勇予備役・海軍少尉が飛び込み様に一発。  

続いて他のものも、次々と銃を発射して、官邸を後にしました。


銃の音に驚いて駆けつけた女中に、犬養は苦しい息の中…


もう1回あの若い奴らをここへ呼んでこい!

よくわかるように話して聞かせるから!


と、最後まで言論で説得しようとする姿勢を見せます。


しかしながら、傷は重く、日付が変わる前に犬養毅首相は絶命しました。 


丸腰の老首相を武装した軍人が射殺…


紛れもないテロリズムです


この犬養毅首相と三上卓たちの会話のやり取りは、まさに時代の移り変わりを象徴していました。


話せばわかる政党政治の時代から問答無用の軍国主義の時代へ


と…。 





この当時、現首相が病死したり、殺されたりした時には、政治的混乱を避けるため、同じ政党に内閣を組織させるのが慣例としていました。


ところが “憲政の常道” たる政党政治を現出させた元老・西園寺公望も、このような状況を打開させるため、「挙国一致内閣」を誕生させることにしました。 


挙国一致というのは、国を挙げて団結し一致協力していこうという意味ですから、閣僚は政党からだけではなく、軍部や財界、官僚など様々な業界から広く人材を集めたのです。


こうして誕生したのが、海軍大将の斉藤実内閣です。


しかしながら、1924年から8年間続いた政党政治は終焉を迎え、再び政党政治が復活するのは 太平洋戦争敗北後のことになります。


ではなぜ青年将校たちは、テロに走ったのでしょうか・・・?
  

そしてこのテロに走ったのが、何故に海軍の青年将校たちが、主体となったのかということです。


それについては、当時の日本と世界の状況を客観的に見る必要があります。


事件が起こる3年前の1929(昭和4)年、ニューヨークの株式市場が大暴落し…


世界恐慌が始まりました。


この衝撃は日本も襲い、翌年には昭和恐慌と呼ばれる大不況に陥りました。


恐慌とは経済恐慌とも呼ばれ、生産の急激な低下、物価の暴落、支払不能、破産などを起こすような…


資本主義における混乱状態を言います。


そうした状況下において、飢えに苦しむ貧しい農村では…


欠食児童や娘たちの身売り


が日常化していたのです。


国民が貧困に苦しんでいるその一方で、大資本家 = 財閥たちは経済搾取を行い、むしろ、それを助長し腐敗した政治 = 政党政治に、国民は嫌気をさしていました。





他方、軍部に目を向けて見ましょう。

犬養毅首相から2代前の浜口雄幸内閣(立憲民政党)の時に、幣原喜重郎が外務大臣に再起用されますが、この時に外交について統帥権干犯問題が起こります。


その背景には、1930(昭和5)年に、ロンドン軍縮会議が開かれました。


これはかつて、ワシントン会議(1921~22年)の中で、主力艦の保有量を削減する海軍軍縮条約が結ばれた経緯があり、そこで今度は、対象外だった補助艦も制限しようと、イギリスが中心になって海軍大国に呼び掛け会議が開かれました。


因みに補助艦というのは、1万トン以上の主力艦以外の軍艦を言います。


ワシントン会議の時、日本の海軍は主力艦の対英米7割を主張しましたが、政府は6割で妥協しました。


今度の会議でも、海軍は補助艦の対英米の7割を主張したのに対し、今回もその目標を達成することが出来ず、要求が満たなかったことで海軍内からは不満の声も強かったのですが、日本はこれに調印しました。


この時の全権は、元首相の若月礼次郎と海軍大臣の財部彪です。


但しこの強引な調印は、その後も後を引きずり特に海軍では、この調印の可否を巡って分裂して争うようになります。 


調印に反対したのが艦隊派、仕方ないと賛成したのが条約派と言われました。 


かくして、統帥権干犯だと浜口内閣を攻撃しはじめるわけですが、その急先鋒となったのが海軍軍令部・加藤完治でした。


海軍軍令部というのは、戦争での作戦や兵の用い方などについて、統帥事務を担当する天皇の直属機関です。


因みに、陸軍では陸軍参謀本部がその役目を果たします。


艦隊派の言い分によると、内閣が海軍軍令部の同意を得ないで、勝手に軍縮条約に調印したのは、天皇の統帥権を干犯するものだと指摘し激しく浜口内閣を攻撃したのです。 


もう少しだけ踏み込めば、『大日本帝国憲法』第12条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥大権)を盾に、政府が軍令事項である兵力量を天皇(統帥部)の承諾なしに決めたのは憲法違反だとする、いわゆる統帥権干犯問題を提起したのでした。


因みに、干犯というのは、自分の権限を逸脱して、他の領域まで犯してしまうことを言います。


浜口首相のあだ名はライオンです🦁


その名の通り、軍縮条約という重要な問題を百獣の王にふさわしくズバリと下したのですが、けれどもそんなライオン首相でしたが、一発の銃声には勝てませんでした。


1930(昭和)5年11月14日、浜口首相は東京駅で右翼の青年によって狙撃され重傷を負い、翌年その傷が原因で死亡しました。


浜口首相の後に組閣したのが、同じ立憲民政党の若月礼次郎です。


このような背景もあって、海軍の中では政府に対する不満も高まり、この世の中の元凶なる人物たちはテロリストの手によって葬られ、やがて海軍青年将校たちを主体とした五・一五事件へと繋がってゆくのです。


一方の陸軍では、満州において中国国民党の妨害とソ連の暗躍で、大陸での権益が脅かされる事態となり、1931(昭和6)年状況打開のために関東軍が満州事変を起こしました。


直ぐ様、政府は不拡大方針を発表しましたが、関東軍を止めることを出来なかった若月礼次郎内閣は総辞職。


その年の暮れには、立憲政友会の総裁であった犬養毅が首相となりましたが、関東軍の暴走は止まらず、清国最後の皇帝・溥儀を擁立して執政とし満州国の建国を宣言しました。


しかしながら、この行為は国際連盟成立を機に結ばれた九ヵ国条約ー中国に関わる内容 にも違反しており、犬養毅内閣では満州国独立の承認を渋っていたのです。 


この辺りからでしょうか、明らかに時代が動き出したのは ・・・?


当時の国民が、長期的な不況の中で政党内閣に失望し、軍部に期待をかけはじめていたことも青年将校や民間右翼の行動に力を与える一因となりました。


特に世論が期待したのは、佐官、尉官クラスの青年将校。
 

と言うのも、青年将校たちの多くは、農村出身者であり、上述した通り、自分たちの故郷の悲劇的な状況を誰よりも分かっていました。


青年将校たちの中には、自分の姉か妹が身売りに出された者もいたかもしれません。


この国は…

おかしい!?

と思うのは当然なことでした。


国民は不況に苦しんでいるというのに、政治は昭和恐慌に対して無策で、財閥は政党と結んで甘い汁を吸うなど、今の政党や財閥は腐敗しきっており…


政党政治を倒さなければならない!


と、青年将校たちは、軍部内閣を最良とする軍国主義国家を樹立をするための、国家改造思想へと傾いていき、テロ行為や暗殺事件が繰り返されるようになりました。


浜口首相襲撃後も、テロ行為や暗殺事件は続き、五・一五事件の数ヶ月前には、井上日召が率いる血盟団が「一人一殺」をスローガンに掲げ、前大蔵大臣・井上準之助と三井財閥の三井合名会社理事長・団琢磨を暗殺しました。


すなわち、一人が一人の悪人を倒すことで世の中を良くすることができると説いたのです 。


こうした背景と国内の空気の中で、五・一五事件から4年後に、陸軍がより大規模な二・二六事件を起こし、ナショナリズム = 国家主義とも言うべき思想が蔓延し、 ファシズムが台頭する時代へと突入するのでした。


その一方で、政党や財閥の腐敗を糾弾する青年将校の行動を国民たちは賛美しました。


長い不況の中で荒んでいた国民は、武力制裁に湧き、さらには暗殺をも容認はじめたと言うことは言い過ぎでしょうか。


事件後、軍法会議にかけられた青年将校たちに、多くの国民からの助命嘆願書が寄せられたことも、時代の風潮を示すものとして見逃せません。



1929年昭和4年世界恐慌 →ニューヨークでの株式大暴落がきっかけ
1930年昭和5年・ロンドン海軍軍縮会議が開かれる
1931年昭和6年・満州事変→満州のほぼ全域を占領してしまう。
1932年昭和7年・(3月)満州国を建国→日本が国際的に孤立するきっかけとなる
・(5月15日)五・一五事件→海軍の青年将校が犬養毅を暗殺。
1933年昭和8年・(3月)国際連盟脱退→国際連盟リットン調査団の報告書で満州国を中国に返還。



以上、ここまで長文にお付き合い頂き恐縮ですが、遠い昔のような話ですが、けれども今日の我々が置かれている状況と…

似て非なる

というのが私の率直な感想です。


では、現代と何が違うかというと、それは豊かであることと軍部がないということです。


けれども、政党政治に対する不信や憤りは、今も昔も変わらないのではないでしょうか?


新型コロナウイルスで世間が大混乱の中、厚労大臣による全くデリカシーのない「誤解」発言に対する見苦しい言い訳。


残念ながら、検査待機で亡くなられた方もいるわけですし、国民に対しても失礼にもほどがある。


一方、検察官の定年延長を可能にする検察庁法の改正案が、様々な波紋を広げる中で、国のリーダーたちによる火事場泥棒??のような政治行為が行われようとしています。 


独立した中立した立場である強大な権力を持つ検察を政治がコントロールすることで、日本政府は暗黒社会を作り出そうとしているのでしょうか。


国民が苦しむ中で、このような思いやりのかけらもない発言をしたり、 まるで空気も読めずに法案を通す者が内閣の中枢にいるならば、世が世ならば暴動など起きかねない。


私は青年将校らの行動や軍部を賛美する立場にはないけれど、昭和維新」を唱え、数々の事件を起こし…

天誅!!

と、 テロリズムに走らなければならない社会的風潮は、あくまでも「昭和維新」実現のためでした。 


不謹慎な事は言いたくもありませんが、もし仮にこの時代、 テロを敢行するテロリストがいたとしも、彼らには彼らなりの美学があるわけで、 けれども、今の政治の有り様ではあまりにもお粗末過ぎて、関わる気にもならないのではないでしょうか。 


そうそう維新といえば、この令和の時代にも存在しますね。 


政治家は使い捨てでいい!!


と、言い切れる強烈なリーダーシップを発揮する、あの知事が平和的に政権をすげ替えることができれば… 




最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。