先日、池袋駅地下で待ち合わせにだいぶ早く到着したので、「ステラおばさんのクッキー」の店舗に入ってみました。




飲物をひとつ注文すると、クッキーが2個ついてきます。




一杯486円。紅茶はポットで出してくれます。しかし…


店内は若い女の子のお客さんでごったがえし! なぜ?



…こういうことだったんですね(笑)。

880円で、飲物一杯&60分クッキー食べ放題!


…うーん、そんなに食べれるかな?(^_^;)


ペタしてね

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↓『ヒンシュクの達人』ビートたけし著、小学館新書、2013)より引用(07)


だけどコンビニ弁当だとか牛丼なんて、さも貧乏の象徴のように言われるけど、もしオイラがガキの頃にこんな食い物を見てたら、狂喜乱舞してただろうね。
もう目を輝かせて貪っちゃう。
「おかずがたくさんあるよ!」「こんなにいっぱい肉食っていいのかよ!」ってさ。
昔は晩飯といえば、おかず一品に味噌汁だけが当たり前だったわけだからさ。


だけどさ、よくよく考えりゃその頃には冷凍食品なんて便利なものはないからおかずは全部手作りだし、味噌汁だってインスタントもないから、イチから出汁をとっていたわけでさ。
白いメシだって、毎回釜で炊きたてのものを食っていたわけだよな。
そう考えると、はたして今と昔とどっちが贅沢なのか、本当の所でわからなくなっちまう。
要は「無い物ねだり」なんだよ。


まァ、最近はとかく「昔はよかった」なんて話になりがちだよね。
昭和30年代、40年代を懐かしんで「あの頃の日本は貧しくても夢と希望に溢れていた」なんていうドラマが多いじゃない。
オイラに言わせれば、「嘘をつくんじゃない」って気がする。
別にそんなにいい時代でもなかったぜってね。


↑(引用ここまで)
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私は、たけし氏も言うような『昔はよかった』みたいな安易な懐古主義が大嫌いです。


そこには、中途半端な現状批判というか、現状を改善できない責任の一端はおまえにもあるのに、それを棚に上げて、いけしゃあしゃあと「昔は云々」と言ってのける無責任さがあるように思うからです。
おまえは何様だ、と。
それをわざわざ口にするおまえの意図は何なのか、と。


「殺すのは誰でもよかった」みたいな無差別殺人事件のニュースなんかを耳にしたら、「昔はこんなことはなかった」と言いたくなるのも、わからないではないです。
ただ、そこでそんな安易なセリフを口にしちゃおしまいでしょ、って。
建設的意見を言うわけでもなく、代案があるわけでもない奴は黙っとけよ、って。
どうにも人間が安っぽく見えてしまうのは否めませんよね。


もっと言わせてもらえば、現代日本では、ひと昔前ほど衣食住に困っていない人口が多くなったことで、皆「ヒマになった」。それだけのことだと思うんです。


ひと昔前は、一般家庭に電化製品もそれほど普及していなかったので、炊事・洗濯・掃除や労働にかける時間が膨大で、それこそ無差別殺人なんかを思いつく余裕も、社会になかったんだと思います。


それが現代日本では、電化製品の普及をはじめとした「便利」「合理化」が幅をきかせてそういった時間を根こそぎ短縮し、「もやもやとしたヒマな時間」が増えるようになった、ということなのではないでしょうか。


ほら、街行く人を見てください。
皆こぞってスマートフォンの画面とにらめっこ。
さも忙しそうに仕事のメールでも打っているのかと思いきや、画面をチラリと覗いてみれば、ゲームやネット、LINEに明け暮れているだけです。
どれだけヒマな時間を持て余しているんでしょう(笑)。
そりゃあ、そんな中から無差別殺人なんぞを思い付く奴が出てきてもおかしくない、ってもんです。


そんな簡単なことにもアタマがまわらずに、ただただ「昔はこんなことはなかった云々…」と口にできるおっさんやおばはんの安易さ。
吐き気がします。


…私も、こんな大口を叩く以上は、「昔はよかったなぁ」なんて、間違っても口にできませんよね(笑)。


ペタしてね

今年も職場の先輩に誘われ、池袋「東京芸術劇場」で読響の「第九」を聴きに行きました。

今年はA席7,200円+託児料金3,240円。

LB席(サイド)だったので、指揮者の表情からいろいろ見れて、なかなか面白かったです。




で、開演よりちょっと早めに集合して、池袋駅ビルの「利休」で牛タンをいただきました。

麦飯を大盛りにすれば、子どもも食べられるし!


写真は牛タン丼。…ちょっと味が濃いめなので、やっぱりふつうの牛タン定食がいいかな?


ペタしてね

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↓『ヒンシュクの達人』ビートたけし著、小学館新書、2013)より引用(06)


オイラがガキだった時代は、社会全体が今より相当貧しかったはずだけど、「生活保護を受ける」っていうことそのものが、ものすごく恥ずかしいことだという印象で、なんとかそれだけは避けようって必死にもがいていたんだよ。


仕方がなく生活保護を受けてる家だって、それをおおっぴらには口外しなかったし、周りの家も気を遣って触れないようにしてた。
なのに最近は「もらえるもんはもらっとかなきゃ損だろ」って話になっちまってる気がするんだよね。


もちろん病気だったり、どうしても働くことができない事情がある人は堂々と生活保護を受ければいい。
それをオイラは否定しないし、にっちもさっちも生活が立ちゆかなくなってしまった人のためにぜひ活用されるべきだと思う。


でも「働けるのに働かない」ってヤツが生活保護をもらうのはどう考えたっておかしい。
もらうことがいいか悪いかという議論の前に、それは「恥ずかしい」ことだ。
そういう恥の感情が失われちまったことが、そもそもの問題じゃないかって思うけどね。


↑(引用ここまで)
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誰かに「保護」されることを「恥」とする感覚、みなさんお持ちなんですかね?


私は、たけし氏も言うような『それだけは避けようって必死にもがく』という感覚が、至極まっとうだと思っています。


…こういうことを言うと、「母子家庭で体も弱く、働けない人をおまえは”恥ずかしい”と言うのか?」と目くじらを立てる人が今にも出てきそうですよね(笑)。


そりゃあ、救済措置としての「保護」は必要でしょう。
ただ、「生活保護」を「恥」とする感覚があってもいいんじゃないか、なんて報道番組は(クレームが怖くて)言ってくれませんし、たけし氏も危惧するように、それは「失われつつある感覚」であると私も感じているのです。


二十歳を過ぎた若者が「成人したのに、自分はまだ親に衣食住の面倒を見てもらっている。いまだに親の”保護”下にあるのは、なんだか恥ずかしい。家を出て”自立”しよう」と考えるのは、私の感覚では「人間の”自立”のプロセスとして当然の流れ」だと思うのですが、ニートやら引きこもりやらの話を聞けば聞くほど、それを「当然」と思わない感覚の人たちが増えてきているように思うのです。


…「引きこもりを”恥ずかしい”なんて評するのは社会的強者の理論で、そういう人たちの存在を認めてあげるところから云々…」という「目くじら」さんが私の目の前でちらつく気がしますが(笑)。


これは、「保護」と「自立」の話です。


生活保護を受ける人も、小さい子どもも、高校生も、実家で世話になっている若者も、他人から何らかの「保護」を受けています。
これは「人間として”自立”していない」ということを、当の本人も、周囲の我々も、強く意識しておいていいことだと思います。


そして、「ラクしてトクしたい」「誰かの世話になって何が悪いの?」と開き直る根性よりも、「なんとか自立したい」「誰の”保護”も受けずに生きていきたい」と思う感覚のほうが、人間として、特に「民主主義」国家に生きる人間としては、ごく自然な感覚だと思うのです。…これは、私だけの感覚なのでしょうか?


私も、二十歳で家を出されました。
その経験からも、「保護」を強制的に打ち切られたら打ち切られたで、人は何とか「自立」しようと勝手に工夫するようになることを私は知っています。
逆に、「保護」がまだあるとタカをくくっている「甘えた」状態では、いつまでたっても重い腰を上げない自分がいることも知っています。


批判を恐れずに言えば、一度「保護」を強制的に打ち切るくらいの覚悟で、「”保護”に甘んじている者」を切り離してみてもいいと思うんです。
そしたら、それはそれで、「持病で働けない」「貯金がない」「仕事が見つからない」なんて言って「保護」を受けてきた人たちも、意外と「”保護”が期待できないなら、自分で何とかするか」と重い腰を上げざるを得なくなると思うのですが、これって乱暴な話ですかね?


…少なくとも、「子離れ」「親離れ」に関しては、必要不可欠な作業だと思うんですけども。


ペタしてね

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↓『ニッポンを繁盛させる方法』島田紳助・東国原英夫著、角川書店、2007)より引用(02)


東国原:宮崎の雰囲気づくりや県民の親切さが大事なんです。
僕がいつも小・中学校の子供たちに言っているのは、「県外から観光客やお客様がいらしたら必ずあいさつをしてください」ということなんです。
町で会っても、どこで会っても。


あいさつする子供を見ると、都会から来られた方はびっくりしますよ。
知らない子供から「こんにちは」とあいさつされれば、「なんだ!? 宮崎は」と驚かれると思います。
それから「ゴミが落ちていたら必ず拾ってください」「ゴミをそこら中に捨てないでください」というお願いもしています。
子供たちがあいさつをして、ゴミのない県。
こういったところから変えていかなくてはと思っているんです。


↑(引用ここまで)
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やっぱり、誰でも万人に可愛がってもらえる基本は「あいさつ」「ゴミを拾う」。これに限ります。
それは、東国原元知事のように、「仕込み」「半強制」であっても、です。


私は子どもに、それこそ1歳児のときから、自分から先に挨拶するように丹念に仕込んできました。
保育園の先生に、自分から「おはようございます」。
近所の人に出会ったら、自分から「こんにちは」。
保育園の敷居をまたぐときは、「よろしくお願いします」「ありがとうございました」。


最初は私から手本を見せていましたが、最近では、子どもが自分から気づいて言い出すまで、黙っているようにしています。
すると、言い忘れたことにハッと気づいて、「こんにちは」「こんばんは」と言い出します。


ここでポイントなのが、「大人がそばにいなくても、ひとりでいるときでも、言えるかどうか」というところです。
親元を離れたときに、自分から笑顔で挨拶ができて、周囲から可愛がってもらえるかが勝負どころなのですから、いつまでも巷の母親のように「ほら、”こんにちは”は?」とせっついて事前処理をしてあげていては、いつまでたっても「自分から」「挨拶を忘れている自分に気づいて」という習慣は身につかないと思うのです。
せめて、ボーッとしていたら、ケツをボンと蹴っ飛ばして気づかせるくらいにとどめておかないと。


道端のごみを拾うのも同様です。
はじめは親がやって見せてあげます。「ゴミを道端に捨てるなんて最低やな」とか何とか言いながら。手にタバコの匂いがつくのはイヤですが、素知らぬ顔でポイ捨てされたタバコの吸い殻も拾って歩きます。
するとそのうち、子どもの方から「ゴミが落ちてるよ。拾います!」とか言い出して、勝手に拾い始めるもんですよ。
…たまに拾いたくないような汚いゴミでも拾ってきてしまうので、捨て場に困ることもありますが(笑)。


とはいえ、勝負は私がいなくなったときですから、私がいるときにもっと習慣化しといてやらないと、外では実際ゴミを見過ごす奴になっているかもしれませんよね。
保育園の先生や、預け先の祖父母から噂で「ゴミ拾ってたよ。偉いねえ」なんて聞こえてくるくらいでないと。


…とまあこんなふうに、「あいさつ」や「ゴミ拾い」の習慣があるだけで、3歳になったばかりの彼女も、今のところはけっこう周囲から可愛がってもらっているようです。
別に「かわいげ」を仕込んでいるわけではなく、ただ動物の躾のように「習慣」「作法」を仕込んでいるだけなんですけどね。
でも、我々大人が見知らぬ子どもや若者に「かわいげ」を感じるのは、まずそこからというか、彼らがひとりで生きていくうえでの、重要な「処世術」だと思うのです。


「教育は実験だ」と誰かが言っていた気がします(笑)。
どこまで「あいさつ」「ゴミ拾い」が仕込めるか、目下、実験中です。


ペタしてね

先日、職場の同僚と庄和飯店のランチを食べに。




…と思ったら、いつの間にやらメニューが一新! ランチの時間帯だといいうのに、みんなで単品メニューをたくさん注文することに。

写真は「ジャージャー麺」。




「五目炒飯」も「庄和炒飯」に名前を変え、さらに美味しく! お値段は940円据え置きです。


やっぱり庄和飯店は、よくある安っぽい中華料理屋と違って、個室も充実していて、それこそテーブルを回しながら、ゆっくり食事できるのがいいですよね。

…おかげで長いこと居座っちゃいました(^_^;)。


ペタしてね

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↓『ヒンシュクの達人』ビートたけし著、小学館新書、2013)より引用(05)


エンディングノートといえば、最近じゃお墓や戒名にも独自のこだわりがある人が増えているらしい。
最近じゃ坊さんに戒名料を払わないで「自分の戒名は自分でつけたい」っていう人もいるんだってね。


こないだ「どんな葬式がしたいか」って聞かれたけど、オイラは自分が死んじまった後のことなんてどうだっていい。
どうせ立派な戒名つけたってだれも覚えてやしないし、「たけし」って呼ばれ続けるに決まってるんだからね。


坊さんに高いカネ払うより「自分で戒名」って方が賛成だね。
どうせだったら死んだ後もみんなから笑ってもらえるような爆笑戒名をつけて、後世に名を残したいって思うんでさ。


↑(引用ここまで)
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若い頃、はじめて葬式というものに参列して、私は愕然としました。
「○○院○○○○居士」みたいないわゆる「戒名」は、坊主にン十万円だかのお金を支払って、わざわざつけてもらうもんだと言うじゃないですか!
それも、理由が「人は死んだ後、仏の弟子となり戒律を守りながらあの世で修行するから、そのための名前をいただく」みたいなことだとか。
私は笑っちゃいました。なんや、それと(笑)。


病気や天候のことも占いなんかに頼っていた時代ならまだしも、この期に及んでまだ「あの世で修業」やら平気でぬかす人の気がしれません。
そんな、ありもしない(百歩譲って「あるかどうかもわからない」)「あの世の修業」に数十万円払う慣例は、どう考えても(私の感覚では)異常です。
最近でこそ、「戒名は自分でつける」なんて言う人も出てきているみたいですが、というかそもそも、「戒名」なんて、いります?
日本って、そんなに敬虔な仏教徒ばかりでしたっけ(笑)?


私も、人の死に関する法律に詳しい方でもないので、死んだ後の独自の弔い方をしようとするならば、何らかの法的制約もあるのでしょうが、墓なんて作らずに散骨すりゃいいじゃないですか。


まあ、いくら私がこんなことを言っていても、明日死んでしまったら、私以外の誰かが勝手に坊さんやらを呼んで「戒名」なんて勝手につけられて、仏教徒でもないのに坊主や葬儀屋に何十万・何百万のお金を払って葬式をやられてしまうのかもしれませんが(笑)。


それでも、人が死んだときって家族やら親族やらバタバタしますから、年寄世代や葬儀屋の言うがままに、「それっておかしくないですか?」と言い出すのも故人を悼む気がないケチ人間のように思われそうで、言い出せずに過ごしてしまう人も相当数いるのかもしれません。


私の周りで自分のアタマで考えた独自の葬儀を画策しているのは私の父くらいしか知りませんが(笑)、私もどこまで「やらない」ことが可能なのか、少なくとも私が「悪しき風習」と思うものにとらわれない「まとも」な死に方が可能なのか、調べるなり書き残すなりしなくちゃいけませんね。


ペタしてね

先日、S君が金曜夜10時くらいからお茶でもしようと言うので、23時まであいている「コメダ珈琲」へ。

ちなみに近所の「星乃珈琲」は夜9時には閉店。


すでに夕飯を済ませた我々や子どもたちはお茶をしばき、S君はサンドイッチ系の遅い夕飯を食べるのが狙いです。




そこで見つけた新発売「コメチキ」。6個入り480円。


アツアツでサクサクの骨なしフライドチキンで、サンドイッチと一緒につまむのにはなかなかいい味です。


次の日は土曜日で私たちもS君もお休みだったので、子どもたちにも夜更かしをさせちゃいました(^_^;)。うちの妹が聞いたら激昂するでしょうね。。


ペタしてね

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↓『ヒンシュクの達人』ビートたけし著、小学館新書、2013)より引用(04)


最近、昔の自分を振り返って無性に恥ずかしくなるんだよな。
女にモテようとバンドをやってみたり、ジャズ喫茶で働いてみたり、洒落たレストランに通ってみたり、仕事で虚勢を張ってみたり……。
それは全部、自分ってものの限界が見えてなかったからなんだよね。


「オレはまだまだこんなもんじゃない」って期待するから、執着する。
それが「若さ」なんだよ。
「若い」ってことがいかに恥ずかしいことだったか、それがわかるのが大人の男なんじゃねェかって思うね。


自分の限界がわかって、「できること」と「できないこと」が判断できるようになると、自然と胆が据わる。
「人はいずれ死ぬ」という当たり前のことを受け入れられるようになって、少々のことでは動じなくなる。
この歳になって、ようやくそんな気がしてるんだよな。


↑(引用ここまで)
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今回は、「若い」だとか「女性である」ということの価値について一言物申したいと思います。


「若い人の感性を」「女性の声を」だとか言って、高校生や女性だけを集めて新商品の企画を作らせたりする会社やら自治体やらも流行っているようですが、最終的にはその企画を大人の上司(それがまた、男性だったりする)が判断していたりするのを見ると(笑)、そこにいかほどの意味があるのか、と疑問に思うところもあります。


「若い」とか「女性である」ということは、そんなに価値があることなのだろうか、と。


確かに、同年代・同性・同じような経験をもったおっさんばかりが出席する会議では、斬新な意見や、発言力のある人にたてつくような意見は、出にくい傾向がある…とそう言われれば、そんな気もします。


女性だったり、若い世代だったり、「異質」な存在を「未熟」「仕事を一番に考えない人種」と決めつけずに組織の中に入れておくのは、組織が硬直化しないために必要なことでしょう。


挨拶ができなかったり、ミスが多かったり、残された人のことを全く考えず定時にきっちり退勤するような、コミュニケーション下手な若者や女性(そりゃ、おっさんでもそういう人はごまんといるでしょうが)をただ下に見るのではなく、ものの見方や意見は、それはそれとしてきちんと聞く耳を持つ、というのもおっさんたちに備わっているべき姿勢だと思います。
…挨拶もろくにできないような奴の話に耳を傾けるのは、なかなか難しいことだとは思いますが(笑)。


しかし、私が「組織に”異質”な人たちがいて、一目置きあうよう努めることが必要だ」と思うことと、昨今の「若者」「女性」偏重の流行はちょっと違うように思うのです。
たけし氏に至っては『若いってことがいかに恥ずかしいことだったか』とまで言い切ります(笑)。


おっさんどもより能力も高く、コミュニケーション上手な「若者」や「女性」がいるのも、わかります。
しかし一方で、おっさんから見れば礼儀作法もなっていない、自分からコミュニケーションをとって住みやすい職場環境を作ろうともしない、いわゆる「使えない若者」や「使えない女性」が大勢いるのも、経験から知っています。


そんな彼ら・彼女らをどう扱うか、どう接するか。
昨今の流行のように「若者」「女性」という「異質」を過度に持ち上げるのも、「最近の○○はなっとらん」と切り捨てるのも、そのどちらもバランス感覚に欠けるように思い、今回こう書きました。


ペタしてね