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↓『ヒンシュクの達人』ビートたけし著、小学館新書、2013)より引用(06)
オイラがガキだった時代は、社会全体が今より相当貧しかったはずだけど、「生活保護を受ける」っていうことそのものが、ものすごく恥ずかしいことだという印象で、なんとかそれだけは避けようって必死にもがいていたんだよ。
仕方がなく生活保護を受けてる家だって、それをおおっぴらには口外しなかったし、周りの家も気を遣って触れないようにしてた。
なのに最近は「もらえるもんはもらっとかなきゃ損だろ」って話になっちまってる気がするんだよね。
もちろん病気だったり、どうしても働くことができない事情がある人は堂々と生活保護を受ければいい。
それをオイラは否定しないし、にっちもさっちも生活が立ちゆかなくなってしまった人のためにぜひ活用されるべきだと思う。
でも「働けるのに働かない」ってヤツが生活保護をもらうのはどう考えたっておかしい。
もらうことがいいか悪いかという議論の前に、それは「恥ずかしい」ことだ。
そういう恥の感情が失われちまったことが、そもそもの問題じゃないかって思うけどね。
↑(引用ここまで)
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誰かに「保護」されることを「恥」とする感覚、みなさんお持ちなんですかね?
私は、たけし氏も言うような『それだけは避けようって必死にもがく』という感覚が、至極まっとうだと思っています。
…こういうことを言うと、「母子家庭で体も弱く、働けない人をおまえは”恥ずかしい”と言うのか?」と目くじらを立てる人が今にも出てきそうですよね(笑)。
そりゃあ、救済措置としての「保護」は必要でしょう。
ただ、「生活保護」を「恥」とする感覚があってもいいんじゃないか、なんて報道番組は(クレームが怖くて)言ってくれませんし、たけし氏も危惧するように、それは「失われつつある感覚」であると私も感じているのです。
二十歳を過ぎた若者が「成人したのに、自分はまだ親に衣食住の面倒を見てもらっている。いまだに親の”保護”下にあるのは、なんだか恥ずかしい。家を出て”自立”しよう」と考えるのは、私の感覚では「人間の”自立”のプロセスとして当然の流れ」だと思うのですが、ニートやら引きこもりやらの話を聞けば聞くほど、それを「当然」と思わない感覚の人たちが増えてきているように思うのです。
…「引きこもりを”恥ずかしい”なんて評するのは社会的強者の理論で、そういう人たちの存在を認めてあげるところから云々…」という「目くじら」さんが私の目の前でちらつく気がしますが(笑)。
これは、「保護」と「自立」の話です。
生活保護を受ける人も、小さい子どもも、高校生も、実家で世話になっている若者も、他人から何らかの「保護」を受けています。
これは「人間として”自立”していない」ということを、当の本人も、周囲の我々も、強く意識しておいていいことだと思います。
そして、「ラクしてトクしたい」「誰かの世話になって何が悪いの?」と開き直る根性よりも、「なんとか自立したい」「誰の”保護”も受けずに生きていきたい」と思う感覚のほうが、人間として、特に「民主主義」国家に生きる人間としては、ごく自然な感覚だと思うのです。…これは、私だけの感覚なのでしょうか?
私も、二十歳で家を出されました。
その経験からも、「保護」を強制的に打ち切られたら打ち切られたで、人は何とか「自立」しようと勝手に工夫するようになることを私は知っています。
逆に、「保護」がまだあるとタカをくくっている「甘えた」状態では、いつまでたっても重い腰を上げない自分がいることも知っています。
批判を恐れずに言えば、一度「保護」を強制的に打ち切るくらいの覚悟で、「”保護”に甘んじている者」を切り離してみてもいいと思うんです。
そしたら、それはそれで、「持病で働けない」「貯金がない」「仕事が見つからない」なんて言って「保護」を受けてきた人たちも、意外と「”保護”が期待できないなら、自分で何とかするか」と重い腰を上げざるを得なくなると思うのですが、これって乱暴な話ですかね?
…少なくとも、「子離れ」「親離れ」に関しては、必要不可欠な作業だと思うんですけども。
