もう一度あなたに愛たい~星になった言の葉~ -2ページ目

◆生まれてくる前に

ご訪問ありがとうございます。天野使音です。


更新しない状態が続いても、

気にかけてくださったり

訪問してくださったり、

本当にありがとうございます。



夏がくると、いろいろなことを想い出します。



人は、生まれてくる前に

神さまから聞かれるそうです。


本当にそのお母さんとお父さんでいいんだね?って。


私もきっと聞かれたのでしょう。


本当に、そのお母さんでいいんだね?

さみしい想いをするよ。

そのお母さんは、すぐ死んじゃうかも知れないよ。

つらい想いをするかも知れないよ。

本当に、そのお母さんでいいの?


きっと、それでもいい!と私は答えたのですね。


さみしい顔をした、お母さんを

私は、幸せにしてあげたかったんだと思うのです。


私は、お母さんを幸せにできたのかなあ?


私が生まれたことは、

お母さんにとって悩みのタネになってしまったけれど

それでも、あなたを「お母さん」にできたことは

私にとっては、幸せでした。


*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆


私を「お母さん」に選んでくれた子どもたち。


きっと生まれてくる前に

神さまから言われたかも知れません。


本当に、そのお母さんでいいんだね?

変なお母さんだよ。

愛し方がよくわからないかも知れないよ。

手がかかるお母さんだよ。

苦労するかも知れないよ。


それでもいいよ!と私を選んでくれた子どもたち。


ありがとう!


あなた達のお陰で私は「お母さん」になれました。


私は、とっても幸せです。


いっぱい悩んで、いっぱい泣いて

いっぱいへこんで、いっぱい笑って・・


あなた達のお陰で

いっぱい体験できました。

ありがとう!


*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆



ゆっくりと更新を始めていきます。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


いっぱいの感謝をこめて

天野使音 拝




◆母の日に想う。

ご訪問ありがとうございます。天野使音です。

久しぶりの更新です。




昨日は、母の日でした。


お花屋さんのカーネーションの花がとても綺麗にみえます。



私は、3歳の時に母を亡くしましたので

母と一緒に出かけたり買い物したり

食事に行ったり、ケンカしたり・・

という体験がありません。


母と一緒に笑ったり、おしゃべりしたり

・・したのかも知れないけれど

記憶に残っていません。


ふだんは、あまり気にとめないことが

母の日になると・・自分の中にある欠落感を感じるのです。


ない・・・ということに気づくのです。


母の日になると

ない・・・ことをしみじみ感じるのです。


「ない」ことは、不幸でもダメなことでもなく

ただ、ない・・・のです。


もしも、亡くなった母との想い出がたくさんあって

「母の日」に母のことを想うとき

いない・・・ということを感じるのかも知れません。


想い出があっても、今こここに母がいないのです。



「母」が生きているから

幸せを感じる方もみえるでしょうし、

苦労されてる方もみえることでしょう。


それぞれの方が、それぞれの想いで

母の日を過ごされたことでしょう。



中学生の頃、

サトウハチローさんの詩に出会いました。

図書館で見つけ

何度も何度も読んで涙しました。

詩集を買って寂しくなると読んでいました。


たくさんの心に残る詩から

ひとつ紹介させてください。

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆


母という字を書いてごらんなさい


 

母という字を 書いてごらんなさい

やさしいように見えて

むずかしい字で

かっこうのとれない字です

やせすぎたり

太りすぎたり

ゆがんだり          

泣きくずれたり……

笑ってしまったり

お母さんにはないしょですが

ほんとうです


詩集「おかあさん」より

サトウ ハチロー著



この詩を読んで

母という字をいっぱい書いて

本当にその通りだ・・と笑えてきて

勇気をもらった詩でした。

今でも母という字を書くと

この詩を思い出すのです。


自分が「母」になってみると

この詩が、もっと心の奥に入ってきました。


母になるのは、

やさしいようでむずかしい。

ゆがんだり

泣きくずれたり

かっこうのとれない自分に

笑ってしまうのです。


そんな自分と「母」を重ねて

なんだか笑えてくるのです。



大好きな「母」へ

いっぱいの愛と感謝をこめて

天野使音 拝

◆東日本大震災1周年追悼式~ご遺族の言葉 【福島県】

ご訪問ありがとうございます。天野使音です。


「東日本大震災1周年追悼式」での

ご遺族の言葉を毎日新聞から転載させていただき

全文を記載させていただきます。

>>こちらの続きです。




福島県遺族代表 村岡美空様 (14歳)



福島県浜通りの北部に位置し、

重要無形民族文化財に指定されている相馬野馬追の土地、

相馬で私は育ちました。


家の近くには、太平洋が広がり、

漁港ではホッキ貝やカレイなどが水揚げされ、

日本百景の一つに数えられている松川浦がありました。


2011年3月11日、あの日、

この光景と私たちの生活が一変しました。


午後2時46分、突然、

今までに感じたことのない大きな揺れが何度も襲ってきました。

私は、津波を心配し、慌てて高台にある小学校へ車で避難しました。


私の父は、地元の消防団員です。

高台の小学校に着いたとき、

聞こえた車の急ブレーキ音に振り返ると父でした。

父は、車の中から家族の無事を確認しただけで、

消防団活動に入ると言い残し、急いで走り去りました。


高台の小学校は、父の職場から家までの通り道です。

大きな地震と津波の心配で、職場から車を飛ばし、

地元へ向かっている途中で、偶然、私たちと遭遇したのです。


それからしばらくして、ものすごい音が響き渡りました。

高台から見える光景は、一瞬にして変わり果て、

住宅地は、海の底に沈んでいました。


現実とは思えない、

何と表現したらいいのかわからない光景に私は、

ただ、ぼうぜんと立っているだけでした。


避難先の小学校では、食べ物もなく、

不安の中、寒くて暗い夜を過ごしました。

家族と離れ離れになり捜しまわる人もたくさんいました。


私も父と連絡が取れず心配でたまりませんでした。


数日がたったある日、

父は、変わり果てた姿で、私たち家族のもとへ帰ってきました。

人の役に立つ事が好きで、優しかった父。

学校行事も積極的に参加し、

小学校の時には、バレーボールも教えてくれました。

私はこんな父が大好きでした。


捜索にあたっていただいた皆さん、

父を見つけ私たち家族のもとへ届けてくれた皆さん、

ありがとうございました。


1年がたっても、

いまだ行方不明の方がいることに心が痛みます。


天皇、皇后両陛下はじめ、

たくさんの方々のお見舞いや励まし、ご支援ありがとうございます。


現在、私は、神奈川県の中学校に通っています。

小さな頃からいつも一緒だった友達と

離れ離れになり寂しいですが、

こちらの中学校でも新しい友達ができました。

勉強は、ボランティアの大学生の方々にも教えていただき、

頑張っています。


将来は、少しでも人の役に立つ仕事に就きたいと思っています。


また、復興に向けて皆で力を合わせ、

頑張っていきたいと思います。


*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆


3月12日付の毎日新聞4面より転載させていただきました。


犠牲になられた皆さまのご冥福を心よりお祈りしたします。


ごめんなさい。

お許しください。

愛しています。

感謝しています。

ありがとうございます。


いっぱいの愛と感謝をこめて

天野使音 拝


◆東日本大震災1周年追悼式~ご遺族の言葉 【宮城県】

ご訪問ありがとうございます。天野使音です。


「東日本大震災1周年追悼式」での

ご遺族の言葉を毎日新聞から転載させていただき

全文を記載させていただきます。

>>こちらの続きです。



宮城県遺族代表 奥田江利子様 (47歳)



「悲しみを抱いて」


東日本大地震では大勢の人が亡くなりました。

そして、いとおしい人を思い続けるたくさんの人が残されました。


私は津波で甚大な被害を受けた、

宮城県石巻市北上町に2人の子供と両親とで住んでいました。


震災の1週間前、23歳だった長男、智史の結婚式でした。

息子夫妻が入籍の日に選んだのは3月11日でした。

2人は我が子の誕生を楽しみに、

人生で一番幸せな時を迎えていました。

私たち家族も、

その将来に向けてささやかな幸福を感じておりました。


震災の日も、

いつもと変わらない朝を迎えて、

変わらず明日が来ると・・・・・

来ないなんて思いもしませんでした。


地震の後、息子は家族の身を案じ、

妹と祖父母が身を寄せていた近くの指定避難所に

車で向かったそうです。


津波が海から数メートルの避難所を襲い、

たくさんの尊い命をもぎ取り奪っていきました。


窓からは、迫りくる波が見えただろうに、

「どんなに恐ろしい思いをしたか」。

それを思うと、胸が締め付けられます。


ただただかわいそうでかわいそうで、

いたたまれません。


次の日、

避難所から100メートルの自宅のあった場所近くで

息子は見つかりました。

一緒にいたはずの娘は家族の一番最後、

1ヵ月後にやっと見つかりました。


妹をその胸の中で守っていたかのように手を組んで

水たまりに横たわっていました。


「おかあ、俺なりに頑張った」。

そう言っているようで、おまえ頑張ったな。偉いぞ。

「みんなと一緒にいてやったんだよね」。

何度も話しかけました。


冷たくなった夫にすがって泣き続ける嫁。


こんな残酷な思いをさせてしまって

本当に申し訳なくて済まなくて、

残されたこの子らがふびんでなりません。


身重の妻を残して逝った息子の気持ちを思うと、

どんなに無念だったか。

この母が代わらせてもらいたかったです。


見渡す限りの惨状に地獄はここだと思いました。


私の大切な家族。


強くて厳しかったけれども、芯の温かだった母。


一家を辛抱強く支えてくれた父。


年の離れた妹を心底可愛がり父親代わりをしてくれた息子。


心優しく、その笑顔が我が家の明りだった娘。


14年ぶりに授かった娘は家族の宝物であり

私の生きがいでした。


受け止めがたい現実、

やり場のない怒りと悲しみ、

そして限りのない絶望。


最愛の人を失ったというのに自分が生きているという悲しみ。

「生きることがつらい」と思う申し訳ない気持ち。

生きている事が何なのか、

生きていく事が何なのかを

考えることさえでいない日々が続きました。


愛する人たちを思う気持ちがある限り

私たちの悲しみが消えることはないでしょう。

遺族はその悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。


だから、

もっと強くなるしかありません。

涙を越えて強くなるしかありません。


今、私はこう思うようにしています。

「子供たちが望む母でいよう」

「これでいいだろうか」

「こんなときに両親はなんと言うだろう」


そう思うことで亡くした家族と、

「一緒に暮らしている」と感じていたいからです。


絶望の中にさす光もありました。

息子は私たちに生きる意味を残しました。


忘れ形見の初孫が7月に生まれ、元気に育っています。


その孫の成長が生きる希望へとつながっています。


最後に被災地の私たちを支えてくださった多くの皆さん、

日本全国、世界各国の皆様に心から感謝を申しあげます。


皆さんからの温かな支援が

私たちに気力と希望を与えてくださいました。


だから今日まで過ごしてこれました。


その恩に報いるには、

私たち一人一人がしっかりと前を向いて生きていくことだと、

そう思っています。

さしのべてもらったその手を

笑顔で握り返せるように乗り越えていきます。


本当にありがとうございます。


*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆


3月12日付、毎日新聞4面記事より転載させていただきました。

奥田江利子様のことは、1面記事でも紹介されてみえます。

その記事も転載させていただきます。


*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆


国からことばを述べるよう打診されたのは先月。


真っ先に亡くなった子供のことを思った。

「この子たちが用意してくれた場なのかな」


しかし、文案を練るため、

しまいこんだ記憶のページをめくるのは、つらかった。

智史さんの額に手を触れた時の冷たさ。

遺体安置所に通い続けた日々。

「悲惨なことばかり思い出して、くじけていました」。

1行書くたびに、涙があふれた。


津波で自宅を失い、今はアパートで1人暮らし。

週末になると、昨年7月に生まれたばかりの孫で、

智史さんの娘である梨智ちゃんが遊びに来る。

智史さんと梨吏佳ちゃん(江利子さんの長女)から

1字ずつとって命名された。


歯が生え始め、笑顔は智史さん似だ。

「梨智は、みんなの生まれ変わりなのよ」


悲しみは忘れられない。

でも失われた命が新たに生まれてきた命の中で

生き続けていると信じている。


ことばの最後で多くの人たちの支援に感謝し、

こう結んだ。


<さしのべてもらったその手を笑顔で

握り返せるように乗り越えていきます>


*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆


毎日新聞より転載させていただきました。

犠牲になられた皆さまのご冥福を心よりお祈りいたします。



ごめんなさい。

お許しください。

愛しています。

感謝しています。

ありがとうございます。


いっぱいの愛と感謝をこめて

天野使音 拝







◆東日本大震災1周年追悼式~ご遺族の言葉【岩手県】

ご訪問ありがとうございます。天野使音です。


1万5854人の尊い命が東日本大震災で犠牲になりました。

今もまだ行方不明の方が3155人みえます。


11日、「東日本大震災1周年追悼式」での

ご遺族の方のお言葉を全文掲載させていただき、

犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。



岩手県遺族代表 川口博美様 (63歳)


本日ここに、東日本大震災により、

尊い命を天に召された御霊の追悼式が

執り行われるにあたり謹んで哀悼の言葉をささげます。


「翔也4歳になったね。お誕生日おめでとう」と、

震災前の2月18日、最愛の孫、翔也のお誕生のお祝いをして

家族全員が満ち足りた、本当に幸せな時間を過ごしました。


翔也の笑顔に家族全員が癒され、元気付けられ、

いつも家族の中心にいてくれました。


あの日からわずか22日後、津波の犠牲になったのです。

家族全員で慈しみ、育んできた、

生まれてまだ4歳しかたっていない孫の命を

あの津波が奪っていったのです。


震災のあの日、

私は50キロ離れた大船渡市にいました。

道路はがれきで埋まり、泥まみれになって歩いて

自宅に向かいたどり着いたのは翌日の昼すぎ。

自宅は流され、津波は私を産み育ててくれた母や、

人生を共に歩むことを誓った

かけがえのない大切な妻の命までも奪っていきました。


私の住んでいる大槌は、

津波のあと、火災が至るところで発生したため、

焼け焦げたがれきや車や家の壁が、

街全体が真っ黒に覆われた光景が目に焼きついて離れません。


この震災によって、

私の住んでいる集落でも90名を超える尊い命が奪われ、

いまだに42名が行方不明で、

小さいころから一緒に遊んだ仲間、

よく面倒をみてくれた近所のおばちゃん、

親戚の人たち、

集落の1割もの人が犠牲となりました。


天災とは言うものの、

この世には神も仏も存在しないものだと

今もあの時を思い出すと涙があふれてしまいます。

この震災で犠牲となられた皆様の悔しさと無念さ、

残された家族の悲しみを思うと言葉になりません。


ただ悲しんでばかりもいられません。

私たち遺族の周りには、前を向いて、

復興に向けて、協力してくれる仲間が居ます。

町民の3倍以上となる5万人のボランティアが、

私たちの街の復旧・復興のために駆け付けてくれたように。


私たちは、この震災の教訓を風化させることなく、

後世に語り継ぎ、時間はかかるとは思いますが、

一歩ずつ古里の復興に向け、

まい進することを御霊にお誓いいたします。


最後に、東日本大震災で犠牲になられた皆様の

御霊のやすらかなご冥福をお祈りします。


*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆


3月12日付の毎日新聞4面より転載させていただきました。


読みながら涙があふれてあふれて・・

何度も読ませていただきたいと想い

ここに記載させていただくことにしました。


犠牲になられた皆さまのご冥福を心よりお祈りしたします。


ごめんなさい。

お許しください。

愛しています。

感謝しています。

ありがとうございます。


いっぱいの愛と感謝をこめて

天野使音 拝