◆東日本大震災1周年追悼式~ご遺族の言葉 【福島県】 | もう一度あなたに愛たい~星になった言の葉~

◆東日本大震災1周年追悼式~ご遺族の言葉 【福島県】

ご訪問ありがとうございます。天野使音です。


「東日本大震災1周年追悼式」での

ご遺族の言葉を毎日新聞から転載させていただき

全文を記載させていただきます。

>>こちらの続きです。




福島県遺族代表 村岡美空様 (14歳)



福島県浜通りの北部に位置し、

重要無形民族文化財に指定されている相馬野馬追の土地、

相馬で私は育ちました。


家の近くには、太平洋が広がり、

漁港ではホッキ貝やカレイなどが水揚げされ、

日本百景の一つに数えられている松川浦がありました。


2011年3月11日、あの日、

この光景と私たちの生活が一変しました。


午後2時46分、突然、

今までに感じたことのない大きな揺れが何度も襲ってきました。

私は、津波を心配し、慌てて高台にある小学校へ車で避難しました。


私の父は、地元の消防団員です。

高台の小学校に着いたとき、

聞こえた車の急ブレーキ音に振り返ると父でした。

父は、車の中から家族の無事を確認しただけで、

消防団活動に入ると言い残し、急いで走り去りました。


高台の小学校は、父の職場から家までの通り道です。

大きな地震と津波の心配で、職場から車を飛ばし、

地元へ向かっている途中で、偶然、私たちと遭遇したのです。


それからしばらくして、ものすごい音が響き渡りました。

高台から見える光景は、一瞬にして変わり果て、

住宅地は、海の底に沈んでいました。


現実とは思えない、

何と表現したらいいのかわからない光景に私は、

ただ、ぼうぜんと立っているだけでした。


避難先の小学校では、食べ物もなく、

不安の中、寒くて暗い夜を過ごしました。

家族と離れ離れになり捜しまわる人もたくさんいました。


私も父と連絡が取れず心配でたまりませんでした。


数日がたったある日、

父は、変わり果てた姿で、私たち家族のもとへ帰ってきました。

人の役に立つ事が好きで、優しかった父。

学校行事も積極的に参加し、

小学校の時には、バレーボールも教えてくれました。

私はこんな父が大好きでした。


捜索にあたっていただいた皆さん、

父を見つけ私たち家族のもとへ届けてくれた皆さん、

ありがとうございました。


1年がたっても、

いまだ行方不明の方がいることに心が痛みます。


天皇、皇后両陛下はじめ、

たくさんの方々のお見舞いや励まし、ご支援ありがとうございます。


現在、私は、神奈川県の中学校に通っています。

小さな頃からいつも一緒だった友達と

離れ離れになり寂しいですが、

こちらの中学校でも新しい友達ができました。

勉強は、ボランティアの大学生の方々にも教えていただき、

頑張っています。


将来は、少しでも人の役に立つ仕事に就きたいと思っています。


また、復興に向けて皆で力を合わせ、

頑張っていきたいと思います。


*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆


3月12日付の毎日新聞4面より転載させていただきました。


犠牲になられた皆さまのご冥福を心よりお祈りしたします。


ごめんなさい。

お許しください。

愛しています。

感謝しています。

ありがとうございます。


いっぱいの愛と感謝をこめて

天野使音 拝