縄文家族|天竜楽市 -11ページ目

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️




国宝『縄文のヴィーナス』が長野県諏訪地域に埋納されたBC3300年頃、世界の文明は黎明期を迎えています。

この当時の諏訪地域の土器や土偶にはオリエンタルな造形が見られ、縄文のヴィーナスの意匠はシュメールの豊穣の女神イナンナに通じていると言う人もいます。

イナンナも縄文のヴィーナス同様にヘルメット⛑️を被っている造形で表現されています。

この頃の諏訪地域では、土器の造形などから既に地母神イザナミや、火の神カグツチが信仰されていたのではないかと考えられています。

また、縄文時代には月神を頂点に、日神、母なる大地の神を信仰の中心に据えていたのではないかと考えられていますが、イナンナは月神の娘で太陽神ウトゥの双子の妹とされています。

諏訪地域は良質の黒曜石の産地であり、石器時代、縄文時代を通じて交易ネットワークの中心となっており、周辺に広がる高原地帯はまさに日本の中心となる高天原【たかあまのはら】でした。

農耕が開始されるまで、人類にとって暮らしやすい環境というのは、狩猟採集のみで充分に豊かな暮らしが可能な地域に限られていました。

黒曜石など良質の石器材料が豊富で、漁労(船と網さえあれば狩猟より遥かに簡単に大量の獲物を手に入れることが可能です)に最適な場所…

赤道付近では肉や魚の保存は難しく熱帯特有の病気や毒蛇、蠍、鰐などの敵も多く、暑過ぎず寒過ぎない環境が求められます。

ヨーロッパが氷河に覆われ、大陸が寒冷化していた時代、更新世において人類の居住に最も適した場所は日本列島でした。

38000年前の日本列島には、

世界最古級の磨製石器(アジアの伝統的な技法を使った局部磨製石斧)、

世界最古の集落(環状ブロック遺跡群)、

世界最古の罠猟(落とし穴)、

世界最古の海洋航海の証拠(神津島黒曜石の本州搬入)、

世界最古のゾウ解体の証拠(野尻湖遺跡)、

など、人類が初めて文化的な活動を開始した痕跡が見られ、

日本列島には世界の後期旧石器時代遺跡の大半を占める14500箇所の遺跡がこれまでに発見されています。

欧州クロマニョン人が洞窟を棲家とし、飢餓と戦いながら洞窟ライオンや洞窟クマと格闘していた原始時代…

日本列島の人々は船で猟をし、平地に家を建てて住み、
共同作業で理知的な狩りをし、
大型獣を解体して豊かな暮らしを謳歌していました。

初期クロマニョン人(C1a2)と、早期に日本列島に渡来した人々の一部(C1a1)は、4万年ほど前に分化した姉妹群と考えられていますが、西へ行った人と東へ来た人とでは、瞬く間に文化度に大差が生じていたのです。

16000年前頃から始まる温暖期には、日本海両岸に跨る広域な交易ネットワークである「東夷社会」が形成されています。

この「東夷社会」では、世界で初めて土器の使用が開始されました。

東夷族の居住地にはブナの森が広がり、木の実が豊富で小型獣も集まり、川には鮭が大量に遡上して食べるものには困らなかったのです。

土器は主に木の実などの植物資源を利用するために作られたと考えられていますが、

土をこね、乾燥させ、火を入れて仕上げる土器は製造に時間がかかり持ち運びも容易では無いため、一般に定住生活の指標とされています。

同じ頃に竪穴住居の数も増えており、それは洞窟利用や平地性の簡易的なテントとは異なり、基礎を掘り柱を建てて長期の居住に耐える恒久的な建物でした。

植物利用の開始から程なく、東夷社会では植物の管理栽培を開始します。

黄河や長江流域は石器材料乏しく、また縄文時代の西日本同様に狩猟採集に向かない不毛の地であり、洪水も多く文化的人類の居住に適した場所では無いため、ヨーロッパ同様に永らく原始時代が続いていました。

いち早く広域な社会ネットワークを形成し、文化的な活動を開始していた東夷族は、この不毛な土地でも人類が豊かに暮らせるよう、現地土人を雇って(❓)農耕を開始します。

狩猟交易民である東夷族が、農耕漢民族を支配する構図は、黄河・長江文明の初期から清朝まで連綿と継続したのです。

漢民族の伝承では、家の建て方、煮炊きの仕方、天文学、灌漑土木、全てを東夷族が教えてくれたことになっています。

支配され搾取されても搾取されても昔の恩を忘れない温厚な漢民族は偉大です。

長江の稲作は基本、灌漑農業ですから土木技術を必要とします。先行する文化技術が無ければ成立しません。

東洋において先行する文化は日本海両岸の東夷社会が唯一でした。そこには更新世における三万年間の文化技術の蓄積があったのです。

四大文明と云われる地域では、先行する黎明期といえる文化があまり存在せず、原始的な暮らしから農耕や都市化が垂直に立ち上がっています。

ですから「新石器革命」などと言うのですが、日本列島周辺には革命に至るまでの長い文化技術の積み重ね期間が見られるのです。

世界最古のメソポタミア文明も、謎のシュメル人が何処からかやって来て始まります。

さて、日本語によく似た膠着語を話し、アルタイ諸語にも似ているというシュメル語を話す人達というのは、何処からやって来たのでしょうか(笑)(˶˙º̬˙˶)*॰❓


シュメル人の東にエラム人がいました。エラムの首都をスサと云います。

スサの王=諏訪の王=スサノオ=牛頭天王=炎帝神農氏

かどうかはともかく…

エラム人とシュメル人は同系統と云われます。

エラム人は高天原❓=イラン高原に広く分布。

然しイラン系の言語ではなく、日本語と同じ膠着語を話し、インダス文明を興したドラヴィダ人にも繋がるのではないかと云われます。

そして、タミル語含むドラヴィダ語族は、ウラルアルタイ語族との言語的一致が多いとされています。

東夷社会の大陸側の中心であった遼河文明圏は、ウラル語族の原郷とされています。

ウラルアルタイ語族がユーラシア原語の基盤になったという説は、欧州人には受け入れ難いので度々否定されますが、印欧語もイラン語も源流を辿ると、どうにもアルタイ、モンゴル、南シベリアに行き着いてしまいます。

沿海州の東夷族文化圏から西へユーラシアステップを辿ると、西アジア・東ヨーロッパへ容易く移動出来てるのですが…

バイカル湖周辺から起こった匈奴(フン)やスキタイ、後にはアヴァール(柔然)、突厥(トルコ)、カラキタイ(契丹、キャセイ)がユーラシアステップを疾走して欧州に勇名を轟かせ、チンギスハンのモンゴルは欧州を蹂躙しました。

交易ネットワークを利用して世界征服を目論む(笑)東夷族にとってユーラシアステップは遥か太古の昔から彼らの庭だったのです。

カスピ海、黒海周辺にも容易に到達出来たのでしょう。

カスピ海、黒海の南を源流とするチグリス・ユーフラテス川流域は古くから洪水に悩まされ数多の洪水伝説を生んでいます。

当初は周辺の高原地域で天水農耕が営まれましたが、大規模な土木技術や治水技術を伴う灌漑農耕の導入によって両河川の間、メソポタミアに人類最初の文明が築かれました。

日本語と同じ膠着語を話すシュメル人によって‼

(˶˙º̬˙˶)*॰
さぁ、シュメル人はいったい何処から来たのでしょう❓

人類最大の謎ですね(笑)(๑・㉨・๑)

回転印章を最初に使用したのはシュメル人の東方にいたエラム人と考えられていますが、

粘土に回転させて印をつけるというのは、

日本列島の縄文人が5000年以上早く、回転縄文→撚糸文→押型文として特許を取得しています。

さぁ、エラム人はいったい何処から来たのでしょう(笑)(ㆁᴗㆁ✿)❓

メソポタミア文明はBC2000頃にはシュメル人からその西隣にいたアモリ人に引き継がれていきます。

アモリ人はシュメル語は話さずセム語系であったとされますが、シュメルの伝承や文化は大切に引き継ぎました。

メソポタミアは周辺異民族の侵入が激しく、シュメル人もやがて原住民と同化したのか(故地へ帰還したのか)消えていきます。

シュメル文化を引き継いだアモリ人からはフェニキア人やヘブライ人が分岐していきました。

シュメルの洪水伝説はそのままノアの洪水伝説として旧約聖書に取り込まれています。

フェニキア人は紅海ルートでインド、東南アジアと交易をしていました。

エジプトに行ったユダヤ人はアマルナ革命の影響を受け(或いはアマルナ革命を主導したのがユダヤ人とも)、多神教から一神教に転じます。

唯一神アテンを信仰したアメンホテプ四世(=アクエンアテン、イクナートン、妻はエジプト一の美女ネフェルティティ、子はツタンカーメン)が崩じると、アマルナ革命は否定され、迫害を受けたユダヤ人はモーセの先導によりエジプトを出ます。

この時のユダヤ人の中には東夷族(O2a2)が含まれていたとする説があります。

彼らは羊を神の使いとしていましたから、中国の古羌と同族(つまり姜姓炎帝神農氏=スサノオを介して古出雲族と同族)であり、殷王朝は末期に羌族(羌方)を弾圧しています。

殷の西にいた羌族は周方(日本語ではスワと読みます)と協力して殷を故地の遼河地域に押しやり、東方に帰還して斉を建国します。

斉と出雲、ユダヤと出雲、イクナートンと出雲最高神クナトの関係が日本では度々取り上げられていますが、炎帝(姜姓)一族が世界に分散し、各地で暗躍し、ズタボロになって東へ戻って来るという歴史が繰り返されていました。そうしたところから交錯した様々な伝承が生まれていったのでしょう。

東夷族である突厥阿史那氏のハザールが何故ユダヤに改宗したか❓
今日までハザールの名が忌み嫌われているのか❓

おそらく歴史に現れない部分での暗躍はあったのでしょう(・□・;)

東夷族による中国支配は清朝まで継続しましたが、西には度々侵入するものの最終的には退けられています。

印欧語族を生み出したのも東夷社会ではあるのですが…

東夷社会は元々、狩猟採集と小規模な畜産、農耕、広範な交易ネットワークにより持続可能な社会を作り上げ繁栄してきました。

彼らは然し、二つの社会実験を行ったのです。

一つは農耕社会であり、それまで不毛であった土地にも人が暮らすことを可能にしましたが、人口爆発や格差を生み出し、一部階層のみが豊かになり大多数は貧困に喘ぐ不安定な社会となりました。

もう一つは遊牧社会であり、これはユーラシアステップの自然を最大限利用した持続可能な暮らしでしたが、騎馬兵の出現と共に制御不能となりました。

然し、現代では騎馬兵が戦に勝つことは難しいですから、ユーラシアステップの遊牧民の暮らしは元の牧歌的な生活に戻り、サスティナブルで平和な社会を取り戻しつつあります。

ニヴフやアイヌは近世まで元の東夷社会そのままにサスティナブルな暮らしを続けてきましたが、20世紀後半にその豊かな社会は大日本帝国によって否定されました。

日本がどのように成り立ってきたかを知らない明治政府を主導した田舎者によって奪われたのはアイヌ、ニヴフ、琉球文化だけではなく、ヤマト族の文化も「文明開化」の名のもとに破壊されていきました。

十六世紀に日本を訪れた未開の南蛮人が「先進的」と驚異に感じたのが本来の日本の文化でしたが、欧米の思惑通りに日本は自らそれを葬り去ろうとしたのです。

ヤマト王権は、中国や西洋での都市の興亡や弊害を目の当たりにしてきた人々を政治顧問として受け入れています。社会実験の結果からマイナスになることは導入しないと決めたのです。

かつて東夷族は故地に平和な非都市化社会を実現した上で、各地に進出し都市文明社会を築きましたが、継続的な支配を望んだために泥沼にハマっていきました。

西に向かって一方的な蹂躙を繰り返し、最終的には西洋の反撃に遭っています。

中国では上手くいったことが西洋では実現せず、結果的に戦争に明け暮れたことは東夷族の負の一面でしょう。

然し、東夷社会がかつて実現していた(都市を作らず)ムラとムラをネットワークで結ぶ持続可能な社会の形態は、むしろ東夷社会の研究が進む欧州の人々によって見直されています。

理想的な社会とは未来ではなく過去にあったのだと。

日本では東夷社会に関する研究(縄文社会の研究含む)は公表出来ないようですが、

過去の栄光としてではなく、

未来へ繋がるヒントとして東夷族(縄文人)社会について検証を重ねていく必要があるのではないかと思っています。

最新の考古学的には縄文時代が意外と遅れた時代ではなく、東日本勢力は遼河文明、九州勢力は山東龍山文化(黄河文明の一つ)と積極的に交流し、技術や情報を共有していたことが明らかになってきました。

考古学的にはヤマト王権の成立に積極的に関与したのは東海、北陸、関東の旧縄文勢力であり、九州の弥生勢力の影響力は殆どなかったと考えられるようになっています。

(˶˙º̬˙˶)*॰
東夷族=縄文時代に大陸へ進出した縄文人、
渡来人=大陸で様々な民族と交流、混血しながら故地へ戻ってきた縄文人の子孫。

そう捉えると日本の古代史の謎が解けてきます( ・ิϖ・ิ)っ



纒向ヤマト政権が目指したのは弥生と縄文の融合。

銅鐸に続いて前方後円墳に縄文祭祀を導入することで東日本勢力を平和裡に取り込んでいった。

考古学的には東の亀ケ岡文化が西の弥生文化に技術的に見劣りしないことを示し、縄文思想の「和を以て貴しと為す」がヤマト王権の国づくりの根幹をなしていたことは明らかである。

海洋交易民である縄文人はそれまで常に中国での王朝興亡を目の当たりにしてきたし、農耕社会・都市文明の弊害を理解してきた。

縄文勢力が(大陸から侵略してきたという)弥生勢力に駆逐されたというなら、日本も中国や西洋と同じような抗争に次ぐ抗争の歴史が展開されたのだろうが、縄文勢力が防衛に成功したためにそうはならなかったのだ。

考古学的に見れば、縄文時代には争いは少なく、弥生と縄文の拮抗した時期には戦争があったことはほぼ確定している。

続く奈良ヤマト王権の拡大期である古墳時代には再び戦乱の爪痕が見られなくなる。

そして「縄文回帰」ともいえる現象が確認されるのだ。

都市を作らず、せいぜいマチ止まりの拠点集落を基本にムラのネットワークを繋いだサスティナブルな縄文型交易ネットワークは、昭和に至るまで山間部を中心に機能しており、それは日本特有の思想文化となった。

中国から良いものは取り入れるが、精神的に豊かな人間社会の形成にマイナスになるものは極力排除してきた。

それは奈良時代以降に中華的秩序に則した天皇を中心とする日本朝の成立後も変わらず、ヤマト王権末期の「和を以て貴しと為す」聖徳太子のこころを継承した国家運営を基本姿勢としてきたのだ。

現代の中国では、中華文明を作ったのは漢民族ではなく東夷族であるという考えが浸透してきた。

五胡と呼ばれたアルタイ諸語系諸民族集団は、争いを繰り広げながらも上古三代(夏商周)の古風な中華秩序を理想とし、自らを中華の中心として南方に亡命した漢族政権を「島夷」と蔑んだ。

胡であっても中原に進出し文化を継承すれば「中華」であり、漢族であっても中原を追われたならば「蛮夷」であった。

ただ、五胡の率いる末端の部衆はともかく、支配層においては中華的教養が備わっていたのは明らかであり、彼らに中原の最新技術を伝える役割を持った集団が存在した事は確かである。

三皇五帝から上古三代までの古代中国の支配層は何れもアルタイ諸語を話す東夷族であった。

最初に中央集権国家を築いた秦の王家も少昊金天氏を始祖とする東夷族である嬴姓氏族(趙氏)である。

徐福の出自である徐氏(徐夷)、老子(李耳)や唐皇室に繋がる李氏(理氏)、諸葛亮に繋がる葛氏なども少昊金天氏を祖とする東夷族の嬴姓氏族であった。

嬴姓氏族は知的財産を共有するネットワークを構築し、歴史の舞台を裏から表から動かしてきた。

諸葛氏は魏(誕)、呉(謹)、蜀(亮)それぞれに仕え互いに連絡を取り合っていた事が知られるが、瑯琊出身の諸葛氏は朝鮮半島にも地盤を築いている。歴史がどう転んでも族滅を免れる体制を敷いていたのだ。

秦もまた中華の辺境にありながら東夷族の伝統である広範な交易ネットワークを構築し、西域とも繋がって国力を増強させた。

西洋が現在も中国をChinaと呼ぶのは秦(チーナ)が築いた西域への広範なネットワークに由来する。

嬴政(始皇帝)の時代に至り、圧倒的な情報技術力によって、土着農耕民化し国際情勢に疎くなっていた漢族国家を撃破して中国を統一する。

同じ嬴姓氏族であり、山東半島に交易にやって来る倭人の情報にも詳しかった徐福を日本列島に派遣するのは必然であった。

嬴姓氏族の伝承では東夷族の原郷は縄文時代の日本列島であったからだ。

秦帝国崩壊後、嬴姓氏族は断続的に日本へ渡来する。

半島にあった秦韓や日本に存在したという秦王国は彼らの拠点の一つであり、技術継承や国際情報の収集に務めたのである。

大野氏(李氏)のように鮮卑族に身を投じた一族もいたし、彼らのネットワークを通じて中国の最新の文化や技術は周囲のアルタイ語族(東夷族)に
瞬時に伝わるようになっていた。

知らぬは漢族ばかりなり、というように、西晋崩壊後に中原になだれ込んだ五胡は瞬く間に中華文明を継承し発展させた。彼らこそが真の中華と言わんばかりに。

辺境の未開国であったはずの倭国も魏晋南北朝時代の国際情勢を熟知しており、中国古典を典拠とした国書を中国の礼に則って送り付けてきたのである。

秦氏族(嬴姓氏族)
の情報ネットワークは、嬴姓李氏が大唐帝国を築くまで周辺東夷族を巻き込んで機能し続けたのだった。


能楽のシテ方は主役ではなく、見る者を幽玄の世界へと誘うデバイスに過ぎないという。

主役はあくまでオーディエンスである。

祭りにおいても、神官は神と氏子を繋ぐ媒介役に過ぎず、本来の主役は祭りに参加する氏子達であった。

祭りに参加する衆の熱狂が神のエネルギーとなり、祭典の日に出現する神の御陵威【みいつ】は見物客にまで及ぶ。

踊る阿呆も見る阿呆も含めて、祭りの主役なのだ。



日本の祭りの基本は屋臺随行の神輿渡御である、というのはそうした祭りの趣旨を具現化するには最適の形態であるからで、宮神輿が氏子地内を隅々まで巡行し、それと共に町々屋臺が大勢の曳き手を伴って練り歩き、屋臺行事に魅入られた数多の見物客が道々に繰り出すことで氏神の御陵威は天下へ広く伝わっていくのである。

そして、神輿渡御に随行する屋臺には、道中で神が乗り移る仕掛けが施されるようになっている。



人形などの「出し飾り」は、天高く突き出した神の依代であり、明治以降には出し飾りを載せた屋臺を「山車【だし】」と呼ぶことが全国に普及した。



一方、出し飾りを載せず舞台としたものは山車と呼ばず通常は屋台と云う(総称として山車は屋台に含まれるが、出し飾りを載せていない屋台は山車には含まれないことは注意が必要である)。

舞台屋台は歌舞音曲によって神を降ろすことが本来の目的であった。



山車は佐原のように人形を大型化させたり、江戸のように昇降装置を設けたり、秩父の笠鉾のように笠を幾重にも重ねて出来るだけ天へ高く突き出し神が降りやすいように工夫している。

屋台も天窓を設けたり、神が乗り込みやすいように高欄を低くするなど地域ごとに様々な工夫があったようだ。

屋台随行神輿渡御というのは祭りの形態として理想的ではあったが、維持には大変な労力と莫大なコストを要する。

現代では神輿渡御に屋臺を随行させる神事を行っている地域は極めて少なくなってしまった。

神社の宮司さんの中には、屋臺随行神輿渡御を復活させたいという考えもあるようだが、現実的にはハードルが高い。

有名な佐原の大祭では、江戸中期までは神輿渡御に屋臺が随行していたが、江戸後期には神輿渡御と屋台行動が別になる乱曳きとなった。

東京の神田祭、山王祭でも市電が通ると山車屋台の曳行は不可能となる。

近年では屋台は風流物、付け祭りとされるようになったが、本来は本祭に使われるものであった。

また、余興とされる芸能も本来は本祭の行事であり、人と神を繋ぐ目的、神の御陵威を広げる目的で行われたものである。

平安時代に屋台行事が始まるより以前は、歌舞音曲の奉納が祭りの基本であった。

田楽、神楽、おこないも、人々を神と一体化させるための手段であり、氏神の御陵威を天下に広めるためには、見物客を大勢集めるための演出も行われ、祭りは世につれ人につれ進化を遂げてきた。

屋台の随行が困難になった地域では、宮神輿への随行を町神輿や担ぎ万燈、提灯行列などに変更しているが、これも屋臺行事のバリエーションと見なしてよいものである。

また、基本は宮神輿巡行に伴う町々屋臺の随行であるが、

神と人が一体になる、
神の御陵威が伝わる

目的が果たされるのであれば、あまり手段にこだわる必要はない。

神輿渡御屋臺随行が基本であるからといって、

乱曳きがダメだ、町神輿がダメだ、というものではない。

極論すればその場に集まった衆の心が神と一体になり、神のエネルギーを共有できるのであれば、ミッキーマウスのパレードであってもかまわない。
本来の目的という情報を共有して行われるのであれば、AKBの奉納コンサートでも良いのだ。もちろん、伝統的な祭りからかけ離れたプログラムが人々の心結に根付くのは容易ではないのだが。

然し根本的に日本の祭りとは、基本さえ守れば自由なのである。

千年以上続く田楽、神楽といへども、縄文時代の舞い踊りとは全く異なったものだろう。

伝統を守ることも大切だが、伝統が維持できないからといって絶やしてしまうのは最もいけないことでありご先祖様に申し開きできない。

寧ろ日本の祭りは時代に合わせて変遷し、絶えず進化を遂げてきたから現代に至るまで神代のこころを伝えているのだ。

天岩戸の前で乱痴気騒ぎをするのも、磐座や前方後円噴で行われた祭りの形態を伝えているものであるし、

縄文土器や土偶に表現される異形の神と男女の一体をあらわすモチーフも、

大祖先である神と人が一つになり、御陵威を広く天下に共有する目的に沿った手段の一つである。

さらに言えば、日本の芸術、芸能は全て、そうした目的を達成する手段として、渾然一体となって発展してきたものである。

日本人の約半数は、古墳時代以降にヤマト朝が行った移民事業による渡来人と考えられているが、彼らは技法や技術といった手段を持ち込んだものの、目的そのものを変えてしまうことはなかった。

日本の祭りの祭りの目的である、

その場にいる者は、
誰彼問わず神と一体になる

故に、取り込まれてしまったからである。

その、神代のこころが理解され、目的に沿った祭りが行われていくのであれば、日本人が滅びることはない。

然し、形だけ伝統をなぞって祭りや文化を僅かな人々が保持していったとしても、衆が目的を忘れこころを失えば、やがて日本は滅びていくということなのだろう。


「石器時代」
というと、どこかその辺の石ころを適当に拾って道具にしていたと思っている人もいるかもしれません🤔⁉️

然し、30万年前から始まったとされる中期旧石器時代となると、ルヴァロワ技法と呼ばれる高度なテクニックで石器を作るようになります。

この複雑な技法は誰もが思いつくようなものではなく、師匠に教えてもらい習熟しなければマスター出来ない技術とされています。

石器を作る技術を失ってしまった現代人が、簡単に真似出来るものではありません。

多くの一般的な現代人がある日無人島に漂着しても旧石器人や縄文人のような技術レベルの高い文化的な暮らしを始めることは不可能なのです。

ルヴァロワ技法はアフリカ大陸で広まり、中東を経て北はカスピ海南岸、西はヒマラヤ山脈まで伝搬していきますが、中期旧石器時代を通じて東アジアには伝わらなかったようです。



前期旧石器時代には既に、西のハンドアックス文化圏と東のチョッパー文化圏に分かれており、その東西世界の境界をモヴィウスラインと呼び、これが今日までつづく西洋と東洋の文化の違いになっていると考えられているようです。

中期旧石器時代、モヴィウスラインの東、特に中国のような石器材料乏しい地域では、竹材を使った道具を利用していたのではないかという仮説があります。

こうした石器時代の文化区分は、ヨーロッパの基準で考えられており、

文化は常に西に生まれ、東に伝搬していくと教育された人もいらっしゃるかと思います🤔

ホモ・サピエンスはアフリカを出て中東に至り、そこで文化を発展させ、ネアンデルタール人を駆逐して世界へ広まったのだ、とする考えは、キリスト教やイスラム教の聖地である中東が世界の中心であると考える西洋的な理論です。

中東から拡散したホモ・サピエンスが到達する前の東洋は、ネアンデルタール人よりさらに劣った北京原人やジャワ原人が住んでいたという考えが欧米にはありました。

確かに欧米の研究者が考える現生人類の技術とされる「石刃技法」は、中東から東へと伝わっています。

中東48000年前
中央アジア45000年前
朝鮮半島42000年前

そして日本列島には最新の年代測定の結果では36500年前に石刃技法が伝わったと明らかになっています。

中国(現在の中華人民共和国の範囲ではなく、黄河、長江を中心とした中華文明圏)の石器時代人はさらに1万年ほど伝統的な石器を使い続け、現生人類の進出は26000年前とされています。

現生人類の拡散、少なくとも「石刃技法」に関してはカスピ海東岸からユーラシアステップを経て、アルタイ山脈~モンゴル高原、沿海州~朝鮮半島というルートで(中華地域を経由せずに)日本列島へ伝搬しています。

近年の日本の考古学界では、この北ルートで現生人類が中東からやって来たとする説が有力になっているのは昨日のブログでお伝えした通りです。

然し(*º ロ º *)!!

実はそう単純ではありません(o・・o)/



日本列島には38000年前に局部磨製石斧が登場します。

既に900点以上の磨製石斧が発見されており、世界最古の磨製石器であると考えられてきました。

この磨製石斧は32000年前を境に一旦姿を消し(一般にはそう言われていますが、磨製石斧と30000年前以降とされるナイフ形石器が同層から出ている遺跡もあるようです🤔)、後期旧石器時代終末期から縄文時代草創期にかけて復活します(1万年以上断絶しているものの、縄文の磨製石斧は正常進化版に見えますね😎)。




(´๑•_•๑)ところが…

2017年にオーストラリアの局部磨製石斧が65000年前のものであるΣ(●д●)という説が発表されました。

そして、この磨製石斧は日本列島の38000年前の磨製石斧によく似ているとのこと。

😎ここで再び一度は否定された南ルート説が復活します(°口°๑)

今のところ東南アジアでは30000年を遡る現生人類の痕跡は発見されていないようです。

中東から一気にインド洋を航海してY染色体ハプロC系統がスンダランド~サフル大陸へ超特急で行ったのでしょうか🤔⁉️

そう考える研究者も一部にはいるようです。

然し、オーストラリアのこの遺跡は、土壌撹乱が見られ、正確な年代が不明とされてきました。

突然出てきた65000年という数字を疑問視する研究者も多いようです。

オーストラリアでは、現生人類の指標とされる石刃技法がLGM(最終氷期最寒冷期=地域によって異なるが概ね28000年前~15000年前)の石器には見られず、現代人的行動(これも西洋人の観点によるものだが)の要素が揃うのは、ずっと時代が下がった7000年前頃とされています。

また、日本列島固有のナイフ形石器(30000~17000年前)によく似た石器が更新世末期から完新世にかけて見られるとのこと。

(˶˙º̬˙˶)*॰

一方、日本列島の磨製石斧は38000年前から突如広まりを見せています。

磨製石斧と共に台形様石器が見られますが、これらは石刃技法が日本に伝わる以前の、東洋の伝統的な手法で作製された石器のようです(。ì _ í。)

日本列島では、38000年前に始まる後期旧石器時代の遺跡が14500箇所と膨大なため、
全く無視されていますが😅

中期旧石器時代の遺跡も60箇所(旧石器捏造事件を除いて)あります。

あることはあるんです( ・ิϖ・ิ)っ

岩手県遠野市の金取遺跡(5~9万年前)から出土した中期旧石器時代の両面加工された礫器は、その後の日本列島の局部磨製石斧の祖形と考えられており、

日本列島の磨製石斧は、日本列島で独自に(東洋の伝統的な技法によって)進化したと想定されます。

36500年前(この1500年のラグは測定誤差の可能性もありますm(._.)m)に石刃技法を携えた現生人類が日本列島に到達する前の…

中期旧石器時代から既に日本列島には人類がいて、5~9万年前から伝統的な手法を発展させつつ、38000年前に局部磨製石斧を発明して爆発的に人口を増やし、

そこへ現生人類がやって来たฅ(๑⊙д⊙๑)ฅ!!

局部磨製石斧と石刃は同一の遺跡からも発見されており、彼らが融合してさらに文化を発展させた可能性もあるでしょう。

🧐つい最近まで、

ヨーロッパには高度なルヴァロワ技法を駆使し、ムスティエ文化を築いたネアンデルタール人がいましたが、

ルヴァロワ技法が伝わらなかった東洋には、現生人類が到達するまで、未開の原人(ホモ・エレクトゥス)しかいなかったと考えられてきました。

然し😎

2008年、西シベリアのアルタイ山脈にあるデニソワ洞窟から、第三の人類である41000年前にのデニソワ人(ホモ・サピエンス・アルタイ)が発見されたのです(☆∀☆)

太平洋上のメラネシア人の4-6%のゲノムがデニソワ人固有の遺伝子と一致し、中国南部住民の遺伝子も1%がデニソワ人由来とされています。

デニソワ人はニューギニア(氷期にはオーストラリア、タスマニアと共にサフル大陸を形成)では15000年前まで純血種が残っていたとする説もあります。

環太平洋上を航海し、局部磨製石斧の文化を築いたのはデニソワ人だったかもしれません😎

ネアンデルタール人やデニソワ人は絶滅したと安直に言う人が未だにいらっしゃいますが、

私たち現代人はネアンデルタール人、デニソワ人由来の遺伝子を持っており、彼らは私たちの偉大なる祖先の一人だということは忘れてはなりません。

デニソワ人やネアンデルタール人がサピエンスと争わず、共存し同化する道を選んだからこそ、今の私たちの文化があります。

西洋ではネアンデルタール人由来の、東洋ではデニソワ人由来の文化を引き継いでいることは、前期旧石器時代のモヴィウスラインが現代に至るまで東西文化の境界となっているところからも明らかです。

異文化の融合が、新しい時代を作ること。

同時に、長い時間をかけて地域に根付いた伝統文化は重んじなければならないこと。

一見矛盾するようですが、私たち日本人の祖先は常に、大陸から新しい文化を取り入れながらも伝統を絶やさず、5万年の昔から一度たりとも文化を途絶えさせることなく連綿と受け継いできたのです。

縄文時代よりさらに昔の、偉大なる大祖先のことを忘れないで下さい。




縄文時代のピカピカに磨き込まれた磨製石斧。

それは西洋で新石器革命が勃るより遥かに古い時代からの技術を受け継いだものなのです。


日本人はどこから来たのか。

昔から云われる話ですが、現在最も有力な仮説によれば…

中東(48000年前)
中央アジア(45000年前)
朝鮮半島(42000年前)
日本列島
(38000年前)

アフリカを出た現生人類が使用した石器は、

大型石刃
小石刃
尖頭器

の三点セットが特徴で、ユーラシア大陸北部をレバント地方から日本列島の長野県まで約10000年かけて東進して来たことが後期旧石器時代の遺跡調査から明らかになってきました。

タジキスタンのフッジ遺跡、長野県佐久市の香坂山遺跡の最新の発掘調査(2019、2020年)から

日本列島の後期旧石器時代(38000年前~)最初期の石器が…
出アフリカ~中東~ユーラシア大陸北部に起源を持つ現生人類の技法を受け継いだものであることが確実になっています。

こうした現生人類の特徴的な石器群が、のちの中華文明圏(黄河、長江流域)に伝播するのは早くても30000年前以降と見られています。

アルタイ、シベリア南部、モンゴル高原、オルドス以北、沿海州、日本列島。

のちの中華文明圏に先行して、

東夷文化圏に現生人類が広まったのです。

北東アジアルートで最初にやって来た日本列島人はY染色体ハプロタイプC、Dと見るのが妥当なところです。

彼らは石器材料を求め、標高1000メートル程度の高地を好んで居住しました。

長野県はまさに初期現生人類にとって最適な居住地だったのです。

当時は氷期のため気温は現在より8~10℃程低かったのですが、日本海の海水温が低下しシベリアは極度に乾燥していたため、冬季の降雪が少なく、太平洋は暖流が流れていたため日本列島は人類にとって快適な環境が整っていました。

然も、長野県は石器作りに最適な黒曜石が容易に入手出来たのです。



ここで世界最古級の局部磨製石斧が作られ、ホモ・サピエンスの石器文化が花開きました。

神津島への外洋航海(黒潮を超えて神津島まで黒曜石を取りに行っています)は、海流に流され漂着するのではなく、定めた目標点に向かい海流を横断する航海技術があった証です。

環状ブロック遺跡は、最大で70~80名が人類最古の集落を形成していた証拠です。

世界最古の外洋航海、世界最古の集落の痕跡は日本列島にあります。

38000年前、日本列島に辿り着いた最初の人類は、極めて短期間で、それまでにないライフスタイルや技術を確立しました。

38000年前から縄文時代の始まる16500年前の間に、14500箇所もの旧石器時代遺跡が日本列島に存在します。

30000年前の姶良噴火は日本列島の住民に壊滅的な被害をもたらしましたが、それを乗り越えて私たちの祖先は連綿と文化を継承し、出発地であった中東より8500年早く土器を創り始めたのです。

姶良噴火の後には、南ルート(東南アジア)でY染色体ハプロタイプF系統が太平洋岸を北上してきました。

のちの漢民族、ウラル系民族の祖先にあたるNOや、

ヨーロッパ人に多いR、シベリアからアメリカに見られるQの祖先系統であるP

が、日本列島、沿海州周辺に現れます。

東夷族(トゥーラーン)に繋がる系統の人々です。

この時点で、現代日本人の祖先の大部分が日本列島周辺に来ていたと思われます。

そして、ここからは日本列島住民が世界へ拡散していく流れになります。

日本人(縄文人)は、どこへ(どこまで)行ったのか🤔⁉️

どこからどうやって何を求めて日本列島に来たのかは、ほぼほぼわかっているのです。

縄文人は、何処へ、どうやって、何をしに行ったのか🤔⁉️

それが今、日本人が関心を持つべきテーマであり、日本の未来を切り開く確かな手掛かりになるでしょう。