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縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



古代メソポタミアに円筒印章というものがあります。

円筒に文字や図形が刻まれていて、回転させて粘土板に転写させるスタンプで、主に封泥(重要物品を入れた容器を封緘し、責任の所在を示す捺印をした粘土の塊)に使用されていました。


回転スタンプによる封印というのは現代でも用いられていますし、やはりメソポタミアというのは凄いなと思わせる一例です。

回転印章はBC3600頃から用いられていました(˶˙º̬˙˶)*॰

🧐さて、我が日本列島では。



縄文時代草創期(BC14500~10000)の後半から、土器に縄文を施すようになります。

縄目紋様の土器というのは、世界的に見られるものですが、

単純にグルグル縄を巻き付けたり、縄を押し付けたり叩いたりして紋様を付けたものが大半なようです。

然し、先史時代の日本列島の土器を象徴する「縄文」は、特殊な方法で施されていたのです。

明治期に縄文土器が発見(1877年)されて以来、この方法が解明されるまで、何と50年かかっています(*º ロ º *)!!

日本考古学界の最大の謎とされ、多くの研究者が分析を重ね解明に挑みましたが、山内清男が「撚った縄を回転させて紋様を描き出す」方法を究明したのは昭和に入ってから(1931年)のことでした(°口°๑)




一般には、縄文時代の土器を総称して「縄文土器」と呼んでいますが、

全ての縄文土器に「縄文」が施されているわけではありません。

土器の分類上は

こうした「回転押捺縄文」が施された土器の模様を「縄文」と定義しているようです(˶˙º̬˙˶)*॰

草創期の土器の模様は

無文→豆粒文→隆起線文→爪形文→多縄文

の順で登場しています。

草創期の多縄文土器の時代にはまだ縄を押し付けるなどして模様をつけていましたが、

早期(BC10000~5500)初頭になると、回転押捺手法によって縄文を施す技法が成立したのです。

縄をそのまま回転押捺したものが「縄文」

心棒に縄を巻き付けて回転押捺したものが「撚糸文」と言います。

そして( ・ิϖ・ิ)っ

続いて登場する「押型文」は、
棒に直接刻みを入れた押型を回転させて紋様を描き出していきます🧐

あれ(๑• - •`๑)⁉️

🤔⁉️

それって回転印章じゃん(´◉ω◉` )

🤔明治の学者が50年も思いつかなかった方法…

メソポタミアの回転押捺の特許は、縄文人が5000年以上早く取得していたのです😎

日本人の祖先はシュメール人では無いかという説が明治の頃から言われています。

違うんです。

シュメール人の祖先は縄文人なんじゃないか🤔⁉️

が、正しい研究テーマなのです。

メソポタミアの住居が竪穴式住居から始まる。これを調査に行った日本人考古学者がいます。

彼は竪穴式住居と同時期に土器の出現が無いかを調査しましたが、今のところメソポタミアでは土器は竪穴式住居より1000年遅れて出現します。

竪穴式住居と同時期に「縄文」土器が発見されたなら(☆∀☆)事件です。

また、長江文明の最初期の土器である「縄紋陶器」の中に「回転縄文」が無いか調べに行った日本人考古学者もいます。

どうやら日本列島の「縄文」に似たものがあったようです。

日本列島で更新世に高い技術を蓄積した縄文人が完新世初期に世界へ拡散することによって、各地で垂直に文明が立ち上がった、とする「世界文明縄文起源説」は、欧米の一部の学者がわりあい古くから唱えている仮説です。

先入観に苛まれた多くの日本の一般ピープルが知らないだけで、昔から研究されているテーマの一つなのです。

縄文時代、日本人のルーツを解き明かし、

縄文人の叡智に学びながら持続可能な日本の未来を考えていく。

現代日本人に最も必要な課題の答えを、縄文人は知っています。

大祖先は、山の頂上から、私たちを見ていますよ😎






縄文時代の建築事情について🧐

かつての縄文の世界観は、

木をピラミッド状に寄せ集めて作った原始的な竪穴式住居に住み、
高床式建物は弥生時代に中国からやって来た渡来人によって伝えられた…

そう考えられていました😔



然し、三内丸山遺跡で縄文時代前期の大型掘立柱建物が発見されてからは

高度な建築技術が存在したことが明らかになっています😎

中国の遼河、黄河文明も当初は竪穴式住居からスタートします。

日本列島では22000年前の世界最古の竪穴式住居が見つかっており、
大陸では洞窟や樹上に営巣していた時代から、

家を建てて暮らしていた事が明らかになっています。

西洋人が東洋を揶揄した「3びきの子豚」のストーリーでは、
日本人🐷が建てた「わらのおうち」は真っ先に風で吹き飛んでしまいますが…

縄文人は直径2メートル、深さ2メートルの柱穴を掘って、直径1メートルの栗の大木を柱材に頑健な建物を建てていたのです。

こんなものは風で飛んだりはしません🙅‍♀



復元された建物は高さ14.7m

人間のサイズと比較してみて下さい😳

中国では、(漢民族というのは、搾取されても搾取されても感謝の気持ちを忘れない素直な心の人達ですから)、最初に竪穴式住居と掘立柱建物の建築法を教えてくれた神様みたいな人の名前を今でも忘れてはいません。

その神様の名を中国では有巣氏と呼んでいます。

風姓の東夷族だそうです😎

日本名をオホトノジ(意富斗乃辺神)と云います。

漢民族と違って大多数のヤマト族はその大祖先の名をすっかり忘れてしまっていますが、徳島県の宅宮神社では今もオホトノジ神を建築神としてお祀りしています。

オホトノジ神は9000年前にメソポタミアにも地下ピット式掘立柱住居(竪穴式住居のことです)を建てに行っています。

当地の気候風土には竪穴式住居は適していませんので、「住居」というものの有難みを知った彼らはその後工夫して現地の事情に合わせた石造りの建物を500年くらいで建てられるようになったのです。

レンガ造り🧱の家を建てた西洋人の子豚🐷は、東洋の藁のおうちや木のおうちをバカにしましたが、オホトノジ神が住居というものを教えてあげなければ、今でも洞窟に住んでいたかもしれませんね😎

🧐もともと、縄文時代の暮らしぶりは、明治の大日本帝国に暮らしていた千島アイヌやニヴフの竪穴式住居を参考に想像されたと思われます。

千島アイヌやニヴフは確かに縄文文化を近代まで継承していた人々ですが、大型掘立柱建物のような高度な建築技術はいつか失ってしまったようです。

縄文時代には既に、のちの日本建築の基礎が出来上がっていました。

中国の住宅は龍山文化(BC3000~2000)の時代に竪穴式住居から版築工法へと切り替わっていきます。

中国では構造物の大半を版築で造るようになりますが、

教科書曰く中国から渡って来たはず🤔⁉️の弥生人は、

縄文時代以来の日本建築を継承しています。

東日本を中心に竪穴式住居は平安時代まで庶民の家として利用されました。

上述のようにニヴフや千島アイヌは近世まで竪穴式住居に住み続けています。

2万年以上の間、住居として使われてきた竪穴式住居は、日本の気候風土にマッチしているのです。





一方、高床式建物は倉庫や祭祀の場として利用されていたと考えられていますが、ニヴフは高床式建物を倉庫として利用するだけではなく、夏の住居として利用していました。






また、ニヴフでは竪穴式住居に土を被せていましたが、近年、縄文人もそのようにしていたことがわかり、竪穴式住居の復元でもそうした仕様の建物が増えています。

冬季の断熱は万全、夏季の防虫対策もバッチリです🤗

ニヴフの竪穴式住居はピラミッド状の骨組みで、従来の縄文遺跡の竪穴式住居復元もそれに準じた造りが多く見られましたが、最近は切妻造や入母屋造の復元住居も増えており、内部構造も太い柱を使った頑健な造りに変わっています。

まさに日本建築の原点は縄文時代にアリ😎なのです。

おそらく小屋裏や寝台、木製家具なども備わった住居で快適な暮らしをしていたことでしょう😎😎😎



現代の研究者は、
農耕社会が狩猟採集社会より優れているとは考えていません。

今から4000年ほど前…日本列島、沿海州、朝鮮半島に跨る「東夷社会」は、狩猟採集を生業としたまま高度な文明社会を形成していました。

狩猟民というのは行動範囲が広く、土地に縛られる農耕民と異なり気候変動にも素早く対応出来るフットワークがあります。

彼らは生存に適した場所をいち早く選び、分散しながら広域なネットワークを形成していたのです。

中国は狩猟採集民である東夷族が、農耕民である漢民族を隷属させるという社会構造が殷の時代から清朝まで安定して継続しました。

ヨーロッパも例外ではなく、フン族(テュルク系)のアッティラ、柔然(モンゴル系)が建国したアヴァール、突厥王家が西遷したハザール(テュルク系)、チンギス・ハーンのモンゴル帝国、オスマン帝国など東夷社会にルーツを持つ集団に蹂躙されて来ました。

カラキタイ(西遼)や、古くは大月氏なども、東を追われても「西へ行けば何とかなる」ということで亡命先で在地勢力を蹴散らして国家を築いています。

この「東高西低」の構図は、ヨーロッパの産業革命まで続きます。

カロリング朝はアッティラの末裔(女系)と称していますが、西へ行った東夷族がヨーロッパ各地でも支配層に食い込んでいったことがわかります。



玉石の加工技術や、漆塗の技術を東夷社会にもたらしたのは、東日本の縄文人であったと考えると、世界遺産の重要度はいっそう高まってくるでしょう。

世界最古の漆製品は縄文早期の9000年前、函館の垣ノ島遺跡から出土しています。

工芸品として漆を用いた技術もさることながら、大量の漆を確保するためには「管理栽培」が始まっていたと考えられています。

漆の栽培は農耕じゃないです( ・ิϖ・ิ)っ
農耕じゃないんです(≧ω≦)‼

東夷社会も実際は早い段階から農耕を行っていました。

然し、既に2次産業、3次産業に比重を置いた物流ネットワークが整っていましたから、農耕(1次産業)への比重は相対的に低いものでした。

日本列島では、農耕段階となる前の更新世には既に物流ネットワークが構築されています。

単純な農耕段階を経る必要はなかったはずです。

縄文時代とは、

狩猟採集
補助的な農耕
交易ネットワーク

を柱とし、高度な技術を伴い、1万年以上に亘って持続可能な社会を実現させた時代であったのです。


刻文付有孔石斧

山形県羽黒町の中川代遺跡(縄文時代中期、BC3000頃)より昭和41年に出土した蛇紋岩製の石斧には、

甲骨文字にも似た樹木を連想させる刻文があり、

国内の研究者の多くは、この石斧は中国製で、縄文時代中期の大陸との交流を示す遺物と考えているようです。

一方、一部の中国考古学者は、同種の石斧は中国では未出土と言っているとか…

BC3000頃の中国遼河文明圏は紅山文化末期。

黄河上流域は仰韶文化後期。

黄河下流域は大汶口文化後期。

長江は下流域に良渚文化、
中流域に大渓文化。

このうち、東日本と密接な関係があったと考えられるのが遼河文明で、玉器、石器に共通する文化が見られるようです。




縄文文化というのは日本列島で独自に発展し、弥生時代になって大陸から稲作と共に文化が伝わってきたと一般には考えられていますが、東日本の日本海側は縄文時代の早い段階から沿海州と交流し、共通の文化圏を形成していました。



中国では、南方の長江流域は稲作文化圏、
黄河流域は粟を中心とした畑作文化圏、
オルドスより北は遊牧文化圏となっています。

北東に位置する遼河地域、沿海州、日本列島ではキビ、ヒエを中心とした農耕を伴いながらも、陸獣、堅果類の資源が豊富であり、狩猟採集に比重を置きながら独自の東夷文化圏を形成しています。

狩猟採集よりも農耕、特に灌漑技術を伴い生産性の高い水田稲作の方が文化度が高いという誤解がありますが、

華南が稲、華北が粟、モンゴルが遊牧、日本海周辺がキビ・ヒエ+狩猟採集というのは、単にその地域の気候風土に合わせた食文化の違いということに過ぎません。

石器材料に乏しく、堅果類や陸獣が少ない地域では、狩猟採集では食べていけない為に農耕を中心とした社会とならざるを得なかったのです。

農耕民である漢民族が、狩猟採集社会をルーツに持つ東夷族に常に支配し続けられてきた、というのが中国の歴史です。

灌漑は確かに土木技術を発展させましたが、黄河流域にも長江流域にも、玉や石はありません。




中国の玉石文化は遼河文明が発祥地であり、その文明圏内には、良質の玉(ヒスイ)石(黒曜石)を産出する日本列島が存在し、東夷社会をバックアップしていたのです。

玉石の加工技術は、金属加工へと引き継がれていきますが、こうした優れた技術を中原に持ち込んだのは東夷族であり、

農耕民である漢民族を圧倒する技術力を背景に、中国を支配し続けることになるのです。

縄文時代というと、土器や土偶に目が行きがちですが、ピカピカに磨かれ鋭い刃をつけられた石製品には高度な技術が見られます。



(`・∀・´)
さて、件の有孔石斧ですが、

縄文時代中期には既に、蛇紋岩より硬いヒスイ硬玉に孔を開ける技術が日本列島には存在していました。



縄文前期の磨製石斧はピカピカに磨きあげられ刃部は鋭利に仕上げられています。

刻文を除けば列島内の技術で製作可能と思われます。

刻文については、「之」と「生」の合字体とする説もあるようですが、殷の甲骨文字(BC1200頃の武丁の時代より記録が残る)を2000年近く遡り類例の無いものですから、断定的な事は言えません。

同様の刻文が日本列島や中国から複数発見されれば、漢字起源の謎を探る手掛かりとはなるでしょう。

因みに、一部の中国研究者は、漢字を発明したのは漢民族ではなく東夷族である‼としています。

殷王室は遼河文明(夏家店下層文化)と大汶口文化~山東龍山文化の流れを汲む「東夷族」と考えられていますから妥当な判断でしょう。

東夷族の原郷である日本列島に漢字の起源があっても何ら不思議ではないのです。




雄大な山脈を背景に広がる田園風景。

信州では何処でも見られる景色です( ͒ ु•·̫• ू ͒) ♡



そして、たまたま生えていた雑草は、

イヌビエ
エノコログサ
ホナガイビユ

何れも食用になります。



イヌビエは、五穀の一つ、稗の原種。

エノコログサは粟の原種になります。



ホナガイビユはアマランスの一種でアメリカからの帰化植物ですが、

粟は縄文時代中期(5500~4500年前)には農耕開始と共に中国から伝わったと地方の研究者は考えているようです。

イヌビエは日本原産の可能性が高く、栽培種としての稗の農耕開始は縄文時代前期(7500~5500年前)の東北地方のようです。

殷の時代、黄河流域では粟が主食であり、
殷代甲骨文字の
米、禾はコメ、イネではなく、アワを指していたと考えられています。

また、長江流域の主要農作物であった稲は黄河上流域の気候には適応出来なかったようですが、黄河下流域の山東半島を経て遼河下流域には伝播していました。

稗は寒冷地に強い農作物として日本から中国東北部(当時は東夷族の支配地)に伝わり、見返りに粟が日本に伝えられ、

稲(陸稲)は、やはり東夷族の支配地であった遼東若しくは山東半島から日本へ伝わったと思われます。

縄文農耕について、東日本の地方の研究者の間では前期に開始され、中期には発展していたと考えられていますが、

九州と東京のエラい学者がこれを認めません。

弥生遺跡は東京大学本郷キャンパスの中にありますฅ( ̳• ·̫ • ̳ฅ)♡

東京の大学は、弥生の価値を下げたくありません。

九州は縄文時代の遺跡が乏しい代わりに弥生の先進地域でしたから、やはり弥生推しです。

彼らは縄文農耕を認めたく無いために、

「縄文時代の作物栽培は農耕と呼べる段階に達しておらず、単なる栽培に過ぎない」として、縄文農耕を認めません。

日本は農耕民族と云われますが、
こうした学会の陰謀(笑)の結果、

「世界で最も遅く農耕を始めた地域」
ということになっています(๑•́ ₃ •̀๑)エー

縄文海進期には日本の平野部は大半が海に沈んでいるか干潟であり、

奈良盆地は湖でした。

大規模に水田耕作を行える場所が無かったのです。

縄文中期は温暖な時代ですので、日本列島の人々は僅かな平地を避け、高原地帯に住んでいました。

長野や山梨が人口集中地域でした。

然し。現代より温暖であるということは、日本海の海水温は上昇し、冬季降雪量は相当多かったはず(逆に旧石器時代は氷期のため気温が下がり、日本海へ暖流が流れず海水温が低下したため、冬季降雪量は少なかったと考えられています)。

秋までに食糧をストックしなければ冬を越せるはずがありません。

縄文中期には狩猟採取よりも農耕への依存が高まっていたはずです。

浜松市天竜区でも、この時期に山間集落に縄文遺跡が急造していますから、南向きの山の斜面で焼畑農業を開始していたと思われます。

縄文中期には五穀豊穣を祈る祭りが始まっていたからこそ、祭祀に使われる土器の装飾が複雑化していったのでしょう。

縄文時代前期(4500~3300年前)になると、寒冷期に入り日本列島の人口は減りますが、中国では爆発的に人口が増えていきます。

縄文人が中国大陸沿海部へ大挙して移住し、彼らは「東夷族」と呼ばれるようになります。

東夷族は在地の人々より高い科学知識や技術を持っていたため、天文官や治水事業の責任者に採用されることになりました。

海を渡って来た東夷族は皆、こう言いました。

「(当時の)中国を支配しているおエラいさん方も、昔、
日本列島から中国へ渡って

(高天原から中国へ天下って)

文化を伝えた縄文人の子孫なんだよ」

老子も孔子も東夷族ですから、中国沿海部の民間信仰には海の彼方の天帝のいる国への崇敬が根付いていたのです。

中国沿海部に交易に訪れる倭人にとってそれは非常に都合が良く、商売繁盛の一因になりました。

「倭」は、

人、禾(アワ、または稲の穂)、女で構成されています。

殷の時代には卑字ではありません。

巫女が五穀豊穣の祈りを神に捧げる嫋やかな(文化度が高く最新技術をもたらした)農耕民

という意味で、土着の人々からは敬意をもって迎えられていたのです。