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縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️




国道152号線は、静岡県浜松市から天竜川~中央構造線沿いを北上し長野県茅野市を経て上田市に至る一般国道です(政令では起点が上田市で終点が浜松市)。

全体を通して江戸時代から『秋葉街道』と呼ばれていますが、部分的な通称として大門街道、杖突街道、(遠州側から見て)信州街道、二俣街道など歴史的な呼称の他、一部区間にメルヘン街道、ビーナスライン、飛龍街道といった新たな愛称が付けられており、それぞれ地域に根付いた歴史ある路線であると言えるでしょう。

信仰深い江戸の庶民は、中山道を経由して善光寺、上下諏訪神社(現・大社)、を参拝してから杖突街道に入り、遠山を経て秋葉山を詣で、鳳来寺山に参ってから伊勢へ向かったと云います。

かつては浜松田町の二俣街道起点に秋葉の一の鳥居があり、浜松から二俣を経て光明山、秋葉山に登り、現在の天竜スーパー林道経由で遠山に至るという江戸時代に京都で出版された『遠山奇談』の舞台ともなりました。




この路線の歴史は極めて古く、38000年前から黒曜石や蛇紋岩の運搬ルートとして絶えず人々が往来して来たのです。

で、あるにもかかわらず、終点浜松から起点上田まで152号を走破しようとすると、21世紀の現代日本であっても

大冒険Σ(+Oдo;艸;)(ㅇㅁㅇ)!!!!!!!(@○∀○@)ฅ(๑⊙д⊙๑)ฅ!!Σ( Д )ﻌﻌﻌﻌ⊙ ⊙

となります。

赤石山脈に並行し、中央構造線沿いに走る区間にはいくつもの難所があり、

まず青崩峠、地蔵峠は未だに自動車では通行出来ない区間(登山道)となっています。

青崩を迂回するヒョー越林道はまだ良い方ですが、地蔵峠迂回の蛇洞林道は対向車が来ないことをひたすら祈りながら進むしかありません( •́ㅿ•̀ )

然し、蛇紋岩の露頭や、中央構造線領家帯と三波川帯断層の露頭など見所はあります。

ゼロ磁場で有名な分杭峠は冬季閉鎖の難所ではありますが、パワースポット巡りの聖地となっています。

高遠を過ぎれば、やや道は広くなり、杖突峠の下りは諏訪湖を一望出来ます(*^^*)。

茅野からは東に八ヶ岳を見ながら霧ヶ峰高原へと進み、白樺湖の北で天竜川と千曲川の中央分水嶺となる大門峠を越えて長和町、上田市に至ります。




皆さん、白樺湖が天竜川水系だって知ってた(*º ロ º *)!!🤔⁉️

白樺湖から下った長和町は黒曜石の町として観光PRを行っています。

152号と交差して中山道が通っており、和田宿から下諏訪宿へ向かう途中の筑摩山地を越える和田峠周辺が、国内でも最高品質の黒曜石の産地となっています。




長和町も南の諏訪地域同様に縄文遺跡が非常に多く、貴重な出土物が豊富に発見されています。
標高1500メートルを越えていく和田峠もまた、古代から交通の難所であったわけですが、人類史上の大部分(38000~2000年前)において、最も高い価値があった黒曜石の最高級品が得られるわけですから、人々はどんな困難も乗り越えて峠へと踏み込んで行ったのです。

中山道が和田峠を経由する、というのも、そこに黒曜石があった為に遥か太古の昔から道が開かれていたからでしょう。

国道152号もまた、何故そこまでいくつもの難所を越えて行かなければならなかったかといえば、やはり黒曜石の道であったからです。

国道152号は黒曜石を遠州へ流通させる道であると共に、海産物を信州へ運ぶ道がでもあり、また局部磨製石斧の原料となる蛇紋岩を産出する道でもありました。

肉食を中心とした後期旧石器時代には、ナトリウムが不足しないため食塩を摂取する必要は無かったようですが、縄文時代になり植物食中心の時代になると、塩もまたこの道を通じて運ばれていくことになりました。

海岸付近の人々にとっては、石器材料を手に入れる為に必要な道がであり、山間部の人々にとっては塩を手に入れるために。

海の民も山の民も互いにこの道を必要とし、そして海の民と山の民は互いに依存し合う必要があったのです。

最初にお互いを必要とする共生関係が構築されているわけですから、縄文時代の晩期まで基本的に海の民と山の民は争うことはありませんでした。

少なくとも日本列島内では。

諏訪(古代はスサ)の王は黒曜石産地を押さえ莫大な富を手にし、信州高原地帯を高天原(タカアマノハラ)と云いました。

縄文中期には八ヶ岳を抜いて日本列島最高峰となっていた富士山は、タカアマノハラを見渡せる場所として『原見(ハラミ)山』と呼ばれ、当時は古富士岳が崩壊しておらず山頂が二つあるツインピークの山、つまり二俣の山(岐山)であったため、岐山信仰が生まれています。

富士山(不二山)の二と、八ヶ岳の八が日本では数の大小を表す数字として用いられるようになります。

二俣神(岐神、クナト神)は別名八衢(やちまた)神とも云いますが、ミツマタ神とかヨツマタ神とは言いません。
フタマタノオロチ、ヤマタノオロチはいますが、ミツマタやヨツマタのオロチというのは聞きませんね。

中国では四夷や九州のように四と九を主に用います。

日本は円の文化ですが中国は方(正方形)の文化になります。

東夷族が何らかの理由でそのように決めたのです。

( 。・ω・。)ノ
ここからは神話伝承の話をします。

縄文中期のスサの王は、糸魚川のヒスイを遼河地域に輸出して利益を得ていましたが、何代目かのスサの王は中国に進出し、神農氏と呼ばれました。

神農(スサノオ)は、オルドス高原を越えて陝西省に入り、そこにあったツインピークの山に岐山と名をつけ、富士山同様に信仰の対象とします。

神農氏は炎帝を称し八代500年に及ぶ中国最初の王朝を開きました。

神農氏は姜姓で牛、鹿、羊をトーテムとしています。

姜、にも羌にも羊が入っていますが、古羌は現在のチベット族とはまだ合流しておらず(羌、氐は鮮卑族の慕容吐谷渾の支配下にいたが、のちに吐谷渾の住民がチベット族の吐藩に吸収された)、古羌は元々遼河地域にいた人々で日本海側の列島勢力(古出雲)に近く、ウラル系民族も混じっていたようです。

中国の研究者が炎帝の子孫が日本の天皇の祖先になったと言っているのは、ヤマト朝王家の初代オシホミミがアマテラスの子であると同時にスサノオの子でもあるわけですが、のちに中国で殷王朝を立てたヤマト族は、元は同族でありながら羌(出雲族)と大陸では激しく対立しています。

殷は羌族と姫(イ)族の連合日本倒され遼河地域に撤退します。

高天原から中国へ天下ったニニキの話は飛ばして、炎帝の直系を標榜する炎尊(彦火火出見)の子孫がヤマト朝と殷王朝の王家になります。

然し、同じく炎帝の直系を標榜する羌族とは対立関係となり、スサノオを直接的な祖先とすることは憚られるようになりました。

そして奈良を本拠にしたカムヤマト朝は、諏訪勢力とも対立するようになります。

日本に羊がいないため、諏訪では羊の代わりに75頭の鹿を神に捧げます。

ユダヤのうち少なくともいくつかの支族は出雲系の東夷族(羌)です。

シュメール→フェニキア→ユダヤ
の流れです。

(灬º 艸º灬)あくまでまだ検証途中の神話ですよ!




石器時代に最も価値が高かったもの、それは黒曜石でした。

諏訪湖への流入河川は複数ありますが、霧ヶ峰高原も天竜川の水源地となっています。

諏訪大社下社が座する下諏訪町がまさに黒曜石の一大産地だったのです。

38000年前には既に、天竜川、千曲川、のちの甲州街道、中山道などを通じて、当地の黒曜石が広範囲に流通する交易ネットワークが構築されていました。

また、天竜川では石器を磨く金剛砂が採れる他、秋葉街道には蛇紋岩やチャートの露頭が見られ、糸魚川の翡翠もまた、この交易ネットワーク圏内を広く流通したのです。



38000年前にはユーラシア大陸に先駆けて局部磨製石斧が生産されています。

磨製石斧は強い打撃を要する伐木作業に用いられたと考えられており、諏訪の住民は積極的には木材資源を活用していたと思われます。

この時代には世界最古の環状集落や、世界最古の罠猟の跡(落し穴)が列島各地で見られるようになりました。

この頃、日本列島にいた住民はY染色体ハプログループD1a2、C1a1に属していたと推定されています。

このうち日本固有とされるC1a1の姉妹群であるC1a2が35000年程前に最初のクロマニョン人としてヨーロッパに現れ、ネアンデルタール人のムスティエ文化、シャテルペロン文化に置き換わっていくわけですが、日本の中部山岳地帯はクロマニョン人のオーリャニック文化に先行して初期現生人類の革新的な技術が用いられていたわけです。

同時代の長野県北部にある野尻湖遺跡からは世界最古のナウマンゾウのキルサイトが発見されています。

また、伊豆の神津島の黒曜石が富士山南東の愛鷹山麓井手丸山遺跡に持ち込まれており、これは世界最古の外洋航海の証拠とされています。

38000年前、諏訪、八ヶ岳周辺を中心に現生人類の最初の文化が花開いたことは最早疑う余地はありません。

神津島の黒曜石が持ち込まれた愛鷹山には霧ヶ峰産、和田峠産の黒曜石も製品となって搬入されていました。

愛鷹山の旧石器人は霧ヶ峰産、和田峠産の黒曜石が最も良質であることを知っており、また神津島産がそれらに次ぐ良材であり、より近隣の箱根や伊豆半島の黒曜石は質が落ちるということを知っていたと考えられています。

日本列島で産出する黒曜石のうち、最上クラスが霧ヶ峰、和田。次点が神津島、八ヶ岳なんだそうで、天竜川源流付近は良質の黒曜石産地が集中していたことがわかります。

諏訪の黒曜石は天竜川を下って天竜区域にも運ばれてきました。

また、蛇紋岩やチャートを求めて中央構造線に沿って諏訪から南下するルートはそのまま秋葉街道となり、水窪付近で中央構造線から別れて尾根筋を通り現在の天竜スーパー林道になっている道が旧石器時代から使われてきたことがわかっています。

秋葉山頂からは東へ向かうルートに分かれ、春野~川根を経由して山中を富士宮方面に向かうルートがありました。

諏訪から東へは富士川に沿って富士宮へ。そして駿河湾へ。

赤石山脈を取り囲むように張り巡らされた交易ルートには、石器時代に必要なあらゆる物資が揃い、温暖な太平洋岸から冷涼な高原地帯まで、季節の変化や気候変動にも僅かな距離の移動で対応できる世界的にも稀有な環境が整っていました。

諏訪信仰、秋葉信仰の原形は既にこの頃から成立していったのではないでしょうか?

諏訪周辺は、石器時代を通じて繁栄が続きました。



縄文晩期には、あの亀ケ岡から下諏訪へ土器が搬入されています。

亀ケ岡人も諏訪の黒曜石を求めて、遠路遥々土器を携えやって来たのでしょう。

その後、銅や鉄の時代となりましたが、秋葉街道に沿うように巨大な銅鉄鉱脈が存在し、昭和40年代前半まで隆盛を極めたことは周知の事実であります。

38000年の間、この土地は人類の営みに必要な資源を与え続けてくれたのです。

最高級の黒曜石の産地である諏訪を、蛇紋岩や銅鉄鉱を産出し続けた秋葉を、崇敬しない理由が見当たりません。

この土地の人々は、38000年の間一日足りとも休むことなく連綿と神への感謝を捧げてきたのです。



二体の国宝土偶、『縄文のビーナス』(BC3300)と『仮面の女神』(BC2500)もまた、八ヶ岳山麓、諏訪の文化圏に属しています。

極めて高度な技術によって特別に作られた土偶です。

諏訪の人々は、土器や土偶の製作過程においても、高い商品力、地域ブランドとしての価値を常に意識していました。

黒曜石は日本全国に産地がありますが、霧ヶ峰、八ヶ岳産はランクが高く高値で全国に流通するということを、彼らは38000年前から知っていたわけですから、土器の製作においても他所には無いデザインや高度な技法を取り入れ、各地へ流通するシステムを構築していたのです。

38000年前から2000年前までの非常に長い期間、黒曜石は諏訪の人々に利益を与え続けてくれたのです。

諏訪が世界文明の発祥の地でありますが、人類の経済活動の発祥地でもありました。



彼らは38000年前から黒曜石本位制の経済活動を開始していたのです。

彼らは、良質の材と、加工技術と、それらを伝える情報を押さえておけば、永遠に富を得られ、豊かに暮らしていけることを知っていました。

採石場所、加工技術、顧客ネットワークなどの情報(商品を流通させる為の天文学を必須とする航海技術や、あらゆる科学的情報も含めて)は、企業秘密とする必要がありましたから、文字の記録を遺して情報漏洩するようなヘマはしませんでしたが、彼らにしかわからない暗号や図形などを使って記録を残すことは当然やっていたわけです。

縄文時代の日本に文字が無かったとか、農耕や金属利用を知らなかったなどというのは、全て真っ赤な嘘です(笑)•́ε•̀٥

もう一度、はっきり言っておきます。

嘘です(ノ ○ Д ○)ノ 



西日本の弥生土器は粗製乱造の量産品でしたが、同時代の東の亀ケ岡式土器は、高い技術力を基に丁寧に精魂込めて作り上げられた一点モノの逸品でした。

九州を中心に鉄器の製造が盛んになっても、弥生文化圏であるはずのヤマト朝の本拠地である奈良でさえ、石器を中心に使い続けていたのです。

ヤマト朝が殷周革命後に山東半島から持ち込んだ水田耕作と、それに伴う弥生文化は西日本にはBC500年頃までに広まったものの、東日本へ伝わるには紀元を跨がなければなりませんでした。

それは単に東日本の縄文勢力の方が高い技術力を擁していたからです。




初期の鉄製の武具は、黒曜石の矢尻や石剣の破壊力に及びませんでした。

これは鉄製の弩を備えた中国ですら、東夷族の(黒曜石の)弓矢には敵わないと、はっきり言っているのですから歴史的な事実です。

当時の漢の領域には黒曜石の産地もありません。ヒスイの産地もありません。

そしてヤマト朝支配下の金官伽羅は、中国に鉄製品を売っていたのです。

奈良にはBC650頃に稲作が伝わりました。
日本書紀のBC660に奈良の橿原で神武天皇が即位したと書いてあるのは、その事実を記してあるわけです。

カムヤマト朝はツクシのヤマト朝から分家して奈良盆地を米の一大生産拠点に仕立て、虎視眈々と東への進出を狙っていました。

諏訪、そして天竜川以東は、カムヤマト朝にとって乗り越えなければならない大きな壁となっていたのです。


塩尻市の平出遺跡は、縄文時代より5000年以上連綿と続くムラの跡。




縄文、古墳、平安の各時代のムラの住居が再現されています。



竪穴式住居にも時代ごとの進化が見られます。

長野県では現代でも農作業小屋を竪穴式で作るケースがあるようですが、日本列島の竪穴式住居は世界最古の本格的な住居であり、日本の気候風土に適合し、22000年の長期に亘って改良が続けられ現代の日本建築にその技術が伝えられています。

竪穴式住居は、日本発の建築様式のルーツとして、世界に誇るべきものです。

半地下ピットによる基礎を造り、柱を地中に埋め込んで頑健な造りとした建築様式は、現代の高層建築にも活かされている技術であり、平地に枝などを寄せ集めて作ったテントのような簡易式の住居とは一線を画しています。

中国やメソポタミアでの住居の始まりは、日本列島の住居史の半分にも満たない約9000年前となっています。

そして、それは何故か半地下ピット式掘立柱住居=日本列島に旧石器時代から存在する竪穴式住居なのです。

中国人やメソポタミア人が同じような発明をした、と考えるより、縄文人がそこへ行って建てた。

縄文人が住居の建て方を原住民に教えた。
土器を用いた煮炊きの仕方を教えた。

そう考えるのが合理的なのです。

中国には、(東から海を渡ってきた)東夷族が、住居の建て方、火を使った調理の仕方を教えてくれたという伝承があります。

世界的に見ても、後期旧石器時代~縄文時代草創期、つまり氷期が終わり新石器時代が始まる以前の新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の遺跡の大部分(約17000箇所)は、日本列島にあります。

ちなみに朝鮮半島には更新世の遺跡は50箇所しか無く、更に日本の縄文時代早期に相当する遺跡は皆無です。

縄文時代前期となり、鬼界カルデラ噴火後に西日本から朝鮮半島に渡った縄文人が生活を始めたところから朝鮮半島の歴史が始まっていくわけです。

それよりも数千年早く、メソポタミアや中国に渡った縄文人がいた事は、考古学的にはいくつかの証拠が積み上がっています。

然し、決定的な材料には今一つ乏しいか、あるいは政治的な判断からか、未だ公表には至っていませんが、複数の考古学者が縄文人との関連を調査するために世界中の古代遺跡を巡っていることは事実です。


また、世界の古代遺跡の多くが打ち捨てられた状態で発見されるのに対し、日本の古代遺跡は、当時から連綿と続くムラの足下から発見されています。

五千年、一万年、日本のムラの暮らしはサスティナブルに継続して来ました。

これは間違いなく世界に誇るべき事実です。



教科書が書き換えられるのは、あと50年くらい先でしょうかね(●´⌓`●)❓


“事実は小説より奇なり”
とは、英国の詩人バイロンの言葉ですが、

小説『三国志演義』の単調な内容に比べ、その元ネタである陳壽『三國志』は複雑怪奇で遥かに面白いのです。

また、陳壽三國志には『東夷伝倭人条』が含まれているため、日本について詳細に記された最古の史書として、古くから注目されてきました。

三国鼎立に前後して、後漢末から隋唐による統一までアジアは長い動乱の時代を迎えており、多様な民族の興亡があり、それは日本という国の建国にも大きな影響を及ぼしています。

日本人は『三国志』に大きな関心を寄せていますが、三国志の世界は日本人にとっても他人事ではないという深層心理が働いているのでしょう。

中国の歴史は、元々アルタイ祖語を話す東夷族によって開かれました。

アルタイ祖語は、一万年以上前の北東アジアを中心とした縄文文化圏で話されていた言語であり、縄文人=東夷族の活動範囲は日本列島、日本海対岸のロシア沿海州からモンゴル高原アルタイ地方、そして中国沿海部と広範囲に及び、

縄目紋様あるいは線刻紋様の土器、竪穴式住居(いずれも日本列島には15000年以上前より存在していたもの)を伴う文化が、約10000年前頃から東から西へと伝播していきます。メソポタミア最古の住居も竪穴式の掘立柱住居です。そして(フェニキア、ユダヤの祖にあたる)シュメールもまた、アルタイ語系の民族とされています。

地球温暖化(温暖化と云われる現代より3℃以上気温が高い時代)が進んだ縄文時代早期から前期にかけて、縄文人は大陸へと積極的に進出していきました。

『史記』以外の古文献では、中国人に住居の作り方や土器を使用した煮炊きの仕方、天文学などを教えたのは、何れも東夷族とされており、少なくとも隋唐の時代まで中国の支配層の中には、東夷族の末裔であることを誇りにしていた一族が数多く存在していました。

中でも、殷王朝の末裔である子姓氏族(商、宋、孔、孟、萊、來、樊、甘、王、鮮于、墨、皇甫氏など)、

秦王朝を興した趙氏を含む嬴姓氏族(趙、徐、秦、李、葛、諸葛、黄氏など)、

東夷の人とされる帝舜の末裔とされる媯姓氏族(姚、陳、袁、田、孫、陸、胡氏など)

の三姓は、それぞれ同族意識も強く、まとまりがありました。

殷の末裔である孔子が、海を渡って「九夷に居らん」と欲したというのも、孔子が東夷の末裔であったとすれば理解出来ることです。

現代日本人がイメージする「華夷思想」では、国の中心(中国)にいる華夏族が蛮夷(外国)を見下していると思いがちですが、

華夏と蛮夷は民族的な違いを言っているのではなく、

あくまでその時点で国の中心(中国)にいる人々と、周辺(外国)にいる人々を分けているに過ぎません。

春秋時代の記録には「蛮夏」という文字も見られるように、かつて中国を支配した夏王朝の遺民である越人や江水淮水周辺に住む諸夏の国々も「蛮夷」と見られていたわけです。

殷王朝の遺民である諸夷もまた、蛮夷であったわけですが、

周王朝から蛮夷と呼ばれた諸国の人々も、元々は中国を制していた歴史(夏や殷の時代には周は蛮夷であった)があり、蛮夷であることに誇りを持っているわけです。

孔子は九夷の原郷である日本列島に帰還することはありませんでしたが、
徐福や秦氏といった嬴姓氏族は日本列島への帰還を果たしています。

後漢末の動乱以降、後漢帝室の末裔が倭国に渡り東漢氏となっていますが、三国時代の王族では魏の曹氏、呉の孫氏、燕の公孫氏末裔も倭国に帰化しているように、多くの名門氏族が海を渡っています。

明朝滅亡時、女真族の清朝支配から逃れて日本へ亡命した人々は、「本朝(日本)こそ真の中華である」と言っていました。

そして、

唐王朝の李氏は鮮卑族に身を投じていましたが、秦王家と同じ嬴姓氏族を称しています。

宋王室の趙氏もまた、突厥出身とされていますが嬴姓趙氏を名乗っています。

明朝の朱氏もまた、祖先を高麗出身としており、実際に血統がそうであったかは不明ですが、東夷族の末裔であるという意識を持っていました。

清の皇室も、東夷族の祖とされる少昊金天氏の末裔の金官加羅王族の末裔であり、「新羅を愛し覚醒させる」から愛新覚羅氏
となったという伝説がありますが、女真族はそもそも東夷の一族であり、王家の正統性を東夷族の名門に求めているわけです。

遼(契丹)、金(女真)、元(蒙古)は言うまでもなく東夷族の末裔です。

中華のラストエンペラー袁世凱ですら、帝舜の末裔である汝南袁氏(袁紹の子、袁煕の末裔)だと言っています。

東夷族でなければ中華の皇帝にはなれない❗のでしょうか⁉️

鎌倉幕府が元への臣従を断った理由も、
秀吉が明を征服しようとした理由も、
明治政府が清に代わって「明を治める」と宣言し大陸へ進出していった理由も、

全て「本朝こそ真の中華」であり、東夷の本家であるという思想に基づいています。

ところで、

中国最初の公的な史書である『史記』は、東夷族についていっさい触れていません。

東夷の祖と言われる少昊金天氏をわざわざ五帝から外し、嬴姓氏族が少昊金天氏の末裔と称しているにもかかわらず、嬴姓氏族の祖先を少昊の弟である昌意の系譜にしています。

前述したように、『史記』以外の古文献では、少昊金天氏を東夷族の祖とし、帝舜も東夷の人としています。

中国に天文学を伝えたのは少昊金天氏であり、東方には天帝(帝俊)がいて、その妻である義和は十の太陽を産み、もう一人の妻である常娥は、十二の月を産んだとされています。

義氏と和氏は、夏王朝の時代まで天文官を務めていました。
十の太陽と十二の月からなる干支は、東方の島国から中国に伝わったのです。

こうした事を当時の中国の知識人は知っていましたし、司馬遷があえて東夷族について記さなかった理由も察していたでしょう。

陳壽は、その名が示すように媯姓陳氏を出自とする東夷族ですから、『三國志』には東夷族について記さずにはいられませんでした。

もちろん、司馬遷が東夷について記さなかった理由を察して慎重に筆を進めていくわけですが…

陳壽は蜀に仕えていましたが、蜀はもともと秦に属しており、嬴姓氏族が多い土地柄でしたし、彼の父の上司であった諸葛亮も嬴姓葛氏の諸流である瑯邪諸葛氏一門の東夷族でした。

諸葛氏が本貫とする瑯邪は元々、東夷族が多く居住する地域であり、博学であった諸葛亮が東夷族について知らなかったということは有り得ません。

蜀は西南夷と呼ばれ、縄文人の末裔であるワ族が根拠地としていた地域でした。

また、当時の呉は袁術が立てた仲王朝の流れを汲む…媯姓孫氏、袁氏、陸氏の連合政権であり、江水淮水流域に住む越人や東夷諸族の居住地域を根拠地としていましたし、沿岸部には倭人が頻繁に交易に訪れていました。呉は、おそらく倭人勢力の一つである狗奴国と交流していたはずです。

こうした中で魏は、呉や蜀を牽制するためにも、倭人の中で最大の勢力である邪馬壹【ヤマト、この場合の壹は音素が豆であるからイーではなくトゥと読む】を都とする女王国連合と同盟を結ぶ必要がありました。

女王国連合と狗奴国の戦争は、魏と呉の代理戦争でしたから、魏としては張政を長年に亘って倭に派遣し、何が何でも女王国に勝たせる必要があったのです。


昨日は森下家祖先の墓があるという寸又峡へ行って参りました。

千頭に到着してから、全国ニュースにもなっていた寸又峡温泉への道路不通を知りましたが、昨日までに道路を塞いだ土砂は取り除かれ、限られた時間帯に通行可能となっていましたので、無事に寸又峡大間の墓所に辿り着くことが出来ました。

母の話では、まだ幼い頃には先祖代々の立派な墓所があったらしいのですが、その後、土砂災害に遭い墓が行方不明になってしまったということでした。

祖父母は50年以上前に亡くなり、母ら七人の兄妹も川根を離れてしまったため、永らく墓所の存在は不明でしたが、私には叔父にあたる母の一番下の弟が、のちに再建された墓所の存在を突き止めていたとのことで、母の葬儀の日に地図を書いてもらい、永らく二俣に住んでいる母の三番目の弟で来年八十になる叔父夫婦と共に大間を訪ねたのでした。


母や叔父も通ったという大間小学校は建物が遺されていまして、叔父も60年以上昔の話で、学校自体の記憶は定かではなかったのですが、離れた集落から暗い森の中を時間を掛けて歩き登校していたことは鮮明に覚えているようでした。

寸又峡温泉には、私が幼い頃に母と共に一度、また数年前にも一度訪れていたのですが、墓の場所を特定するには至りませんでした。

叔父も養子に入っており、森下家の墓とはずっと疎遠であり、母の葬儀で久々に会った森下姓を名乗っている一番下の叔父から墓所の存在を聞いて、生きているうちに一度訪ねてみようということになり、この日、大間に向かった次第ですが、まさに母の葬儀の当日に、寸又峡温泉大間に至る唯一の道に土砂災害が起きていました。

叔父も高齢ですので、近年は近辺へ買い物に出掛ける以外は自動車の運転を控えており、また寸又峡温泉に通じる狭い一本道は観光シーズンである夏季の週末は混雑しますので、ゆっくり墓参できる機会は滅多にないのですが、通行制限がかかっていたことで、温泉周辺も観光客はまばらであり、数十年振りに訪れた生まれ故郷をゆっくり散策することが出来たようです。


森下家の墓は、石の上にお地蔵さんを載せただけの簡素な墓となっていましたが、私も生まれて初めて御参りすることが出来ました。

また、帰りの道路通行時間まで二時間ほど待つ必要があり、貸し切り状態のような寸又峡温泉周辺を見て回る余裕もありました。

母の導きによって、叔父夫婦と共にゆっくり落ち着いて墓参が出来たのではないかと思います。



二俣と千頭は国道362号で結ばれており、二時間半ほどで寸又峡温泉に行くことが可能です。春野町内には寸又峡まで何キロと書かれた道路標示も見られます。

然し、私が免許を取得した30年ほど前には酷道362号を通って大間まで行くというのは大冒険でした。

大間から2000メーター級高山としては日本最南端に位置する黒法師岳を越えれば天竜区水窪であり、直線距離ならそう遠くないのですが、これまでずっと近くて遠い場所になっていました。



川根と天竜は平安時代には山香郡【やまかのこおり】に属し、一体化した行政区域でした。

古代の人々は、いくつもの峠を越えて連綿と繋がっていたのです。

現代において、交通手段の発達から、苦労なく世界を移動出来るようになりましたが、太古の人々にとって自ら脚を使って往来可能な場所というのは、数日かけて徒歩するような場所であっても充分に身近な地域であったのだと思います。

川根地域と天竜地域は、何万年もの間、隣り合って往来しながら暮らしてきました。

また、南信、奥三河、東濃地域もまた、そうした山間のネットワークで密接に結び付いてきましたし、一体となった山間文化圏を形成してきました。


森下家の祖先もまた、そうした山間地域で森を守り、森と共に暮らしてきた人々であったのでしょう。

祖先が先祖代々守り続けてきた伝統は、当家においても残念ながら戦後になって急速に失われてしまったわけですが、五万年サスティナブルに継続してきた天竜川根地域のような山間の暮らしは今、世界的に見直されています。

飯田竹佐中原遺跡、川根ヌタブラ遺跡は共に40000年以上前と云われていますが、その永きに亘って人々が連綿とサスティナブルに暮らしてきた地域というのは世界的に稀なのです。

私達は、四万年、五万年先の未来の子孫のために、

数十年から数百年単位で破壊と再生の繰り返し、争いを余儀なくされる都市文明の暮らしとは対極にある、持続可能な森と共生した暮らし方を祖先に学びながら伝えていかなければならないと思っています。