
母を神として祀りました。
ところで、ヤマト民族にとっての神とは何でしょうか?

縄文時代…或いはそれ以前の後期旧石器時代から日本列島周辺に住む人々の神とは、実際にこの世に生を受け神上がった「人」でした。
時代と共に伝説が付加され神格化されていったものの、スサノオもアマテラスも神武天皇も神功天皇も架空の人物ではなく、皇祖に連なる実在した人物を神としてお祀りしています。
天地創造の神話の類は、人々が祖先への祭祀を開始した歴史からすれば、ごく最近になってから作られたものです。
上古代の人々は、常に過酷な現実と向き合っていましたから、神話よりも現実を生き抜くための科学技術の方が大切でした。
現実の生活の中で猛獣や毒蛇と遭遇したり、自然災害に成す術なく壊滅したり…そうしたリアルな脅威を克服すべく、現実と常に向き合い、死と隣り合わせで戦っていた人々にとって、それ以外の脅威を創造するような暇な時間は無かったのです。
そのような脅威をある程度克服し、普段は安穏と暮らせるようになると、人々は想像の中で新たな脅威を創り出すようになりました。
医療の発達と共に、人は滅多に死ななくなっています。
死が日常の生活から遠ざかっているために、現代人は、いざ死に直面すると冷静に向き合うことが難しくなっています。
古代の人々は、そうではありませんでした。
死は、もっと身近な出来事だったのです。
ホモサピエンスは、同じホモ科であるオランウータンと比べ(充分な医療を受けられないのであれば)遥かに乳児死亡率が高いのですが、これは知能を発達させ頭が大きくなったために、産道を通りやすいように未熟児の状態で出生するよう進化したためだと考えられています。
産まれたばかりの子鹿は、震えながらもすぐに立ち上がり自力で歩き出しますが、人間の子供は自力で歩けるようになるまで一年を要します。
縄文時代から江戸時代まで、多くの子供が三歳になる前に亡くなっています。
「七歳までは神のうち」と言われたように、乳幼児期の死亡率は3割ほど、また出産時や産後の肥立ちが悪く亡くなる女性も1割ほどいたとされています。
男性は日常生活の糧を得るために、命を危険に晒すケースも多かったでしょう。

縄文時代の平均寿命は30歳くらいだったようですから、姓成熟するとすぐに…15歳くらいで子供を産むケースも多く、世代交代のサイクルは早かったと思われます。
然し、縄文人骨の解析から60歳以上の年長者も大勢いたことが明らかになっており、多くの経験を積み大勢の子孫に囲まれた彼らは長老として血縁集団である一族を束ねる存在となっていきました。
神はおおよそ長命ですが、結果的に長く生きた者がリーダー格となり、やがて集落の神として祀られていったのです。
その土地に祀られている神というのは、必ずかつてそこに暮らしていた人か、そこに暮らしていた人の祖先であり、実在の人物でした。
集落に祀られる神を氏神とし、その子孫である集落の住民は氏子と呼ばれました。
血縁集団がそれぞれの神を祀る一族として地域集団が形成されていきます。
然し、何らかの理由で他の集団に支配されると、支配集団の神を祀らされてしまうこともあります。
実際に生きた先祖の墓であったはずの祭祀場が、見ず知らずの他人様の神を祀る場となった時から神と村人との距離が広がっていきました。
こうした神の統合が必ずしも戦による征服であったわけではなく、多くのケースでは話し合いによって統合が行われていったのです。
統合する二つの村で共通の祖先がいた場合は、その大祖先まで遡って共通の神としてお祀りするケースもありました。
近い世代の祖先を神として祀っていた頃に比べ、より遠い祖先を神として祀るようになると、やはり神との距離が遠ざかっていきます。
そこであらためて主神の下に、より近い世代の神をお祀りするケースもありました。
集団の拡大という政治的な理由から大祖先を祀り、伝説が付加されて神の権威を高めていくこと、複数の神を祀ることによって最高神を中心にした八百万の神を祀るという神道の原始的な形態が作られていったのは縄文時代早期から前期にかけてでした。
この時代は縄文人が活発に大陸へ進出していった時代でしたから、スサノオ、イザナギ、イザナミなどは名前を変えて世界中で祀られています。

一方、古墳時代には日本全国に大量に巨大な墓が作られるようになりましたが、直近の祖先である親への祭祀を最も重要視した時代であったのだと思います。
既にヤマト大王による統合が進んでいたはずの古墳時代に、王でもない無名の人々の巨大な墓が大量に作られた事実は、当時のヤマト民族が葬祭を重視していた証であり、世界に類例がありません。
古墳というと、一部の前方後円噴の巨大さばかりに目がいきますが、
現在までに確認されている古墳の数は大小合わせ全国で16万基を超えていて、確認されたエジプトのピラミッドの総数138を大幅に上回っているのです。古墳時代400年の間に16万もの豪族がいたとは考えられないので、一般人の古墳も相当数含まれているはずです。
大化の改新において、魏の武帝曹操の例を上げて「薄葬礼」が出され、古墳時代は終わりを告げますが、総数16万以上という古墳の数は、ヤマト族が一般庶民も含め、いかに葬祭を重んじてきたかを理解出来る数字ではないでしょうか。
そして、死の先には必ず再生する、という祈りが神祀りには含まれていました。












