縄文家族|天竜楽市 -14ページ目

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



母を神として祀りました。


ところで、ヤマト民族にとっての神とは何でしょうか?
縄文時代…或いはそれ以前の後期旧石器時代から日本列島周辺に住む人々の神とは、実際にこの世に生を受け神上がった「人」でした。
時代と共に伝説が付加され神格化されていったものの、スサノオもアマテラスも神武天皇も神功天皇も架空の人物ではなく、皇祖に連なる実在した人物を神としてお祀りしています。
天地創造の神話の類は、人々が祖先への祭祀を開始した歴史からすれば、ごく最近になってから作られたものです。
上古代の人々は、常に過酷な現実と向き合っていましたから、神話よりも現実を生き抜くための科学技術の方が大切でした。
現実の生活の中で猛獣や毒蛇と遭遇したり、自然災害に成す術なく壊滅したり…そうしたリアルな脅威を克服すべく、現実と常に向き合い、死と隣り合わせで戦っていた人々にとって、それ以外の脅威を創造するような暇な時間は無かったのです。
そのような脅威をある程度克服し、普段は安穏と暮らせるようになると、人々は想像の中で新たな脅威を創り出すようになりました。
医療の発達と共に、人は滅多に死ななくなっています。
死が日常の生活から遠ざかっているために、現代人は、いざ死に直面すると冷静に向き合うことが難しくなっています。
古代の人々は、そうではありませんでした。
死は、もっと身近な出来事だったのです。
ホモサピエンスは、同じホモ科であるオランウータンと比べ(充分な医療を受けられないのであれば)遥かに乳児死亡率が高いのですが、これは知能を発達させ頭が大きくなったために、産道を通りやすいように未熟児の状態で出生するよう進化したためだと考えられています。
産まれたばかりの子鹿は、震えながらもすぐに立ち上がり自力で歩き出しますが、人間の子供は自力で歩けるようになるまで一年を要します。
縄文時代から江戸時代まで、多くの子供が三歳になる前に亡くなっています。
「七歳までは神のうち」と言われたように、乳幼児期の死亡率は3割ほど、また出産時や産後の肥立ちが悪く亡くなる女性も1割ほどいたとされています。
男性は日常生活の糧を得るために、命を危険に晒すケースも多かったでしょう。
縄文時代の平均寿命は30歳くらいだったようですから、姓成熟するとすぐに…15歳くらいで子供を産むケースも多く、世代交代のサイクルは早かったと思われます。
然し、縄文人骨の解析から60歳以上の年長者も大勢いたことが明らかになっており、多くの経験を積み大勢の子孫に囲まれた彼らは長老として血縁集団である一族を束ねる存在となっていきました。
神はおおよそ長命ですが、結果的に長く生きた者がリーダー格となり、やがて集落の神として祀られていったのです。
その土地に祀られている神というのは、必ずかつてそこに暮らしていた人か、そこに暮らしていた人の祖先であり、実在の人物でした。
集落に祀られる神を氏神とし、その子孫である集落の住民は氏子と呼ばれました。
血縁集団がそれぞれの神を祀る一族として地域集団が形成されていきます。
然し、何らかの理由で他の集団に支配されると、支配集団の神を祀らされてしまうこともあります。
実際に生きた先祖の墓であったはずの祭祀場が、見ず知らずの他人様の神を祀る場となった時から神と村人との距離が広がっていきました。
こうした神の統合が必ずしも戦による征服であったわけではなく、多くのケースでは話し合いによって統合が行われていったのです。
統合する二つの村で共通の祖先がいた場合は、その大祖先まで遡って共通の神としてお祀りするケースもありました。
近い世代の祖先を神として祀っていた頃に比べ、より遠い祖先を神として祀るようになると、やはり神との距離が遠ざかっていきます。
そこであらためて主神の下に、より近い世代の神をお祀りするケースもありました。
集団の拡大という政治的な理由から大祖先を祀り、伝説が付加されて神の権威を高めていくこと、複数の神を祀ることによって最高神を中心にした八百万の神を祀るという神道の原始的な形態が作られていったのは縄文時代早期から前期にかけてでした。
この時代は縄文人が活発に大陸へ進出していった時代でしたから、スサノオ、イザナギ、イザナミなどは名前を変えて世界中で祀られています。
一方、古墳時代には日本全国に大量に巨大な墓が作られるようになりましたが、直近の祖先である親への祭祀を最も重要視した時代であったのだと思います。
既にヤマト大王による統合が進んでいたはずの古墳時代に、王でもない無名の人々の巨大な墓が大量に作られた事実は、当時のヤマト民族が葬祭を重視していた証であり、世界に類例がありません。
古墳というと、一部の前方後円噴の巨大さばかりに目がいきますが、
現在までに確認されている古墳の数は大小合わせ全国で16万基を超えていて、確認されたエジプトのピラミッドの総数138を大幅に上回っているのです。古墳時代400年の間に16万もの豪族がいたとは考えられないので、一般人の古墳も相当数含まれているはずです。
大化の改新において、魏の武帝曹操の例を上げて「薄葬礼」が出され、古墳時代は終わりを告げますが、総数16万以上という古墳の数は、ヤマト族が一般庶民も含め、いかに葬祭を重んじてきたかを理解出来る数字ではないでしょうか。
そして、死の先には必ず再生する、という祈りが神祀りには含まれていました。

大好きだった花に囲まれて母は旅立って逝きました。

弔問に訪れて下さった方々が、口々に「綺麗な人ですね」と声を掛けて下さり、母はとても嬉しかったのでしょう。

満面に笑みを浮かべて本当に幸せそうでした。

母は四十半ばにして大病を患い、後半生は常に病との戦いでしたが、多くの人に支えられながら本年米寿を迎え、生を全うすることが出来ました。

歯に衣を着せることが全く無い人でしたので怪訝に思う人もいましたし、世渡り下手な人でしたが、誰とでも時間を忘れて楽しく長話をするのが得意な人でした。

人がとても好きだったのでしょう。

そしてどんなに困難な状況においても、笑っていたかったのだと思います。

送り人のお姉さんがとても綺麗に化粧をして下さった時には、本当に嬉しくて有り難くて涙が出ました。

多くの方々に御弔問を頂き、母の新たな人生の旅立ちを、佳き日にして下さったこと。心より御礼申し上げます。

お母さん、また何処かに生まれ変わって幸せな人生を御過ごし下さい。

ご縁があったら、またお逢いしましょう。
昨日早朝、母が他界致しました。

八十七歳、安からかな顔で旅立って逝きました。
 




母の出生地には諸説あって、千頭、家山、名古屋の何れかと思われるのですが定かではありません。

森下は旧山香郡である春野町から川根にかけて多い苗字で、川根本町では4.188%を占めています。都道府県別では愛知県が最多となっています。

祖父は林業関連の仕事をしていて愛知静岡の山間を転々としていたと云います。名古屋、家山、千頭に住んでいたことはわかっています。

母は七人兄妹の一番上で、小学校を卒業するとすぐに奉公に出されたと言っていました。

のちに祖父母が若くして相次いで亡くなった時に、母は初めて千頭にいた下の三人の姉弟たちに対面したそうです。

戦後の復興需要、朝鮮特需によって天竜区の林業、鉱山は最盛期を迎え二俣は活況を呈していたので、家山辺りからも三倉~百古里を経て商いに来る人達がいました。この道(主要地方道県道63号)は戦前には二俣繭市場へ繭を運ぶシルクロードでもあったのです。

昭和二十年代後半に母は遠州の京都(小京都ではない)二俣に上って芸妓になっています。

幼い弟妹たちのためにせっせと仕送りをしていたそうです。

当時の二俣には東京大阪の商人が地産品を直接買い付けに来ており、地元遠州の客相手ではなく都会の一流ビジネスマンをもてなす芸が求められたため、二俣芸妓は芸達者な方々が多く伝統的なしきたりが重んじられていました。

母はそれほど芸は達者でなかったようですが…

二俣芸妓は東京歌舞伎の囃子方を招いて芸を学んでいたので、二俣には望月流、住田流の名跡が伝わり、二俣諏訪神社祭典の囃子にも大きな影響を与えています。

古き佳き時代の二俣を知る人達も今では少なくなってしまったのですが、私が幼い頃交流のあった母の友人の二俣芸妓衆は戦前の気風や伝統を最後まで残していて、凛として気概を持った人達であり、芸妓という仕事に誇りを持っていました。

各地の繁華街が時代と共に変遷し、キャバクラなどに移行して生き残っていったのに対し、二俣は伝統を保持したまま滅びていく様が美しくもあり、平成初期の二俣は寂れながらも雰囲気のある街と云われていました。

芸妓の世界はある意味一般とは隔絶した世界でしたから、時代の生き証人が一人一人と鬼籍に入っていく度に、それはまだ60年ほどの近年のことであっても外の世界の人々からすれば忘却の彼方へと消えていくのが速いのです。

ただ、時代が急激に移り変わる節目を迎えた令和の世において、あの時、なぜ二俣が光輝いていたかを知り、常に念頭に起きながら、未知の新しい時代に一歩を踏み出していった方が良いでしょう。

未来は未知ですが、過去は既知であるはずです。
然し、過去すらも未知となってしまった時、私達は何を手掛かりに未来へ進むというのでしょう?

日本人が伝統を守り伝えてきたのは、未来の子供たちへ明日を切り開く手掛かりや指標を残すためでした。

「激変する時代の濁流の中で、然るべきものをしっかり掴まえておきなさい!」

母はそう言って、朝早くに旅立って逝きました。


森下氏の源流は主に、藤原北家秀郷流の流れを汲む藤姓森下氏(本貫は筑後)の系統と、

全国各地において、こんもりとした社稷の杜(もり)の下に住んで神職に就き「もりした」を名乗った系統があります。

母の話では、森下家は旧家で先祖代々の立派な墓所があったようですが、明治頃に米相場に手を出して没落したそうです。

川根本町には森下が多いので、本宗家は地域の有力者であったと思われます。

藤原氏の源流である中臣氏も神官の家系であるので、親族とも相談した上で神式による葬儀を執り行うことになりました。




棺に納める畳の裏に送りの言葉を書けるということで、

殷代金文から三千年以上ヤマト族に連綿と受け継がれてきた「アヒル草文字」にて「よみかえり」と書いて納めました。



母が永眠した場所は天竜区渡ヶ島百々原(どどわら)。その直下、天龍川の椎ヶ淵には、椎河脇大龍王の龍宮城があります。

百々原というのは、モモワラ=桃源に通じます。

そして桃源=トウゲン=藤原

葬儀を執り行う場所は浜北区根堅(イズモホール)
ですから、根堅=根堅洲國(海底にある死者の逝く國、根の国、奴國)。

渡ヶ島の旧名は渡口で、それは河を渡る場所の意。

人はまず身罷ると河を渡り桃源郷に至り、そこから根の国か黄泉へ逝くのですが、

黄泉へ還る、ヨミカエリは、甦り=再生を意味します。

生まれ変わる環境が整った場所で旅立った彼女は、すぐに帰ってくるでしょう。







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