
浜松市天竜区は連日猛暑😵😵😵
昨日は熱中症によるプチ脳梗塞で一日おやすみしていました😌🌃💤
脳が一番オーバーヒートしやすいので、注意⚠️が必要ですね😰

手作り布マスク入荷しています🤗🤗🤗🤗🤗
(。・´д`・。)
浜松市天竜区はフェーン現象による最高気温記録が出やすい地域です。
1994年8月4日
静岡県天竜市二俣町(当時)で
観測史上二位の
40.6℃を記録❗
史上一位の山形県山形市の記録40.8℃は戦前1933年の単発的な記録だったため、
戦後の国内最高気温を叩き出し、
連日、全国最高気温を記録した話題が報道され、
静岡県天竜市は
“日本一暑い街”
として注目されました👀
観測施設が二俣町から船明に移動してからは、1~2℃低い数値が出るようになり、日本一の座を譲ることが多くなったのですが…
昨日8月15日の
浜松市天竜区船明の最高気温39.7℃は全国最高となったようです😵😵😵
( ・`ω・´)💡
日本一暑い🔥☀️❗
のだけれど、
川遊びのメッカ阿多古川や
涼しくマイナスイオン全開の水辺、滝など避暑スポットも多い天竜市では、
“水と緑と太陽の街”
というキャッチフレーズで売り出し、キャンプ場や川遊びの需要を喚起することに成功しました❗
今では阿多古川のみならず二俣川や気田川にも多くの水遊び客、キャンパーが訪れるようになっています❗
特に浜松市天竜区二俣町の二俣川は、
市街地でありながら水質もよく水遊び出来る奇跡のスポットとして人気が高まっています😌

(。・´д`・。)
そして、残念ながら今年は中止になりましたが、
日本一暑い灼熱の炎天下、
岸和田だんじりより遥かに大型の大屋台を全力疾走です曳き回す
“二俣諏訪神社祭典”
本宮である諏訪大社御柱祭と並ぶ
“日本一危険な祭り”として
全国ニュースで報道されたこともありました…
ある年、二俣で屋台が曳行中に転倒する事故があり、全国に社会記事のトップニュースとして配信され、
それを見て岸和田からだんじり関係者が多数、二俣を訪れ、
だんじりより大型の屋台を
(成人男性だけでなく)老若男女一丸となって全力で走らせ、
事前に走ると決めた場所ではなくても、
鐘が鳴ったら突発的に屋台を走らせる、
夜になると、更に高速で屋台を走らせ、
複数の屋台が並走して走り、
極めつけは
バックでも全力で走らせる。
以上の点で
二俣諏訪神社祭典の大屋台曳き回しは、
岸和田だんじりより
遥かに危険⚠️⚠️⚠️である❗
という点を岸和田だんじり関係者は確認して帰って行きました( ・`ω・´)💡
(#`皿´)
諏訪さまの祭りは危険⚠️命懸け❗
というのが二俣諏訪神社祭典のバックボーンになっていたようです。
黒曜石と塩を交換した3~4万年前の後期旧石器時代から、
国宝縄文のヴィーナス、仮面の女神が諏訪湖周辺で埋納された縄文時代中~後期、
天竜川水運が隆盛を迎えた江戸~昭和中期
いつの時代も、
諏訪と二俣は天竜川で結ばれ密接な関係にありました❗
八ヶ岳を源流(上川)とする天の中川は
諏訪湖から二俣まで❗
二俣から南は磐田之海❗
二俣は山と海、空と陸が交わる重要な場所❗
二俣を制する者は天下を制する❗
そう言ったのは
武田信玄公と太閤豊臣秀吉❗
そして武田信玄公は二俣城を制すると早速、
二俣諏訪神社を詣でています❗
信玄といえば、諏訪大明神を熱烈に崇敬し、
陥落させた城の周辺に諏訪明神が無ければ新たに勧請し建立してしまうほどですが、
二俣諏訪明神には武田信玄公建立の伝承はなく、参拝したとの言い伝えのみであるため、二俣諏訪神社が二俣城の戦い以前に存在したことは間違いないと思われます。
のち、徳川家康公は
信濃諏訪神社
二俣諏訪神社
浜松諏訪神社を
三諏訪明神と呼んで称えたと云われていますが、
二俣諏訪神社は
信濃諏訪神社(現・諏訪大社)に倣って
上下両社を置いたとする明治期の記録が残っています。
江戸~明治期の二俣の人々が、
信濃諏訪上下両社を強く意識し、
御柱祭のように勇壮豪快に荒ぶる天龍川竜神を鎮める願いを込めた
激しく危険を顧みない祭りのスタイルを作っていったようです。
明治時代の二俣町祭典年番記録には、屋台を激しくぶつけ頻繁に大破させていた様子が記されています。
二俣諏訪神社は、
武田徳川以前の
松井氏が二俣城主であった時代に
二俣城の守護神に定められていたようです。
大東亜戦争において
南京攻略戦を指揮した
陸軍大将
松井石根氏は、
二俣城主松井氏の末裔でした
松井大将は、
松井家産土神として
二俣諏訪神社に参拝しています。
“二俣城を制する者は天下を制す”
松井家にもそうした口伝は当然伝わっていました。
二俣町は多くの軍需工場が疎開し、
国鉄二俣線は軍需迂回路線として戦時下に突貫工事で開通しています。
工兵隊演習場も二俣に作られ、
そして、
小野田寛郎少尉が卒業した
陸軍中野学校二俣分校が諜報活動及びゲリラ部隊養成を目的に開校しました。
長野県松代に大本営を遷し、
浜松に上陸し天竜川を遡る米軍を、
二俣城山、光明山、秋葉山に陣取ったゲリラ部隊が叩く❗
米軍は何度も偵察機を天竜川上流に飛ばしましたが、終戦まで一度も二俣以北を攻撃することはありませんでした。
上陸作戦となりゲリラ攻撃を受ければ、米軍にも甚大な被害が出ることは明白でした。
のちのベトナム戦争でも米軍のゲリラ攻撃に対する脆さが露呈していますが、
天険の要害である二俣を南から攻めることの無謀さに気づかない米軍ではありません。
米軍にとっても、
日本が国体を護持するという条件付きの終戦受け入れを急ぐ必要がありました。
🌹
戦後、松井石根大将は戦犯として巣鴨プリズンにて処刑されています。
“世の人に のこさばやと思ふ 言の葉は 自他平等に誠の心
”~松井大将の辞世の句
先祖が堅固に守った二俣の地
その天険の要害は、
米軍にとっても脅威でありました…
( ・`ω・´)
終戦記念日…
二俣は暑い一日となりました。
(。・´д`・。)
なお、先ほど
浜松市天竜区船明で
40.9℃を記録したとのニュースが😰😰😰

8月の天竜区
例年ならば各地で夏祭り
屋台の曳き回しが行われる季節ですが、
残念ながら今年はCOVID19対策で屋台行事は中止となってしまいました。
全国には12000基を超える山・鉾・屋台があると云われていますが、
そのうちの一割を大きく超える台数の屋台が静岡県の遠州地方で曳き回されています。
浜松市だけで500台超。
浜北区、天竜区にもそれぞれ100台を超える屋台が存在しています。
( ・`ω・´)💡
屋台行事というのは、元々
京の都の祇園祭(山・鉾)
飛騨高山(屋台)
関の山
秩父の鉾、屋台
世良田の屋台
神田の鉾、屋台
佐原の幣台
など、商業的に成功した土地で曳かれていました。
貧しい地域の祭典では
神楽舞いや、
担ぎ万度がせいぜいで…
“関の山”と謳われた豪華な曳き山、屋台を曳き回せるのは一部の限られた土地でした。
遠州地方でも、
新居宿
掛塚湊
といった金持ちの宿場や湊は、江戸時代中期には豪華な屋台を曳いていましたが、
貧しい浜松宿は屋台を作るお金はありませんでした😰
浜松宿は参勤交代の大名を接待する金銭負担の確保が出来ず窮乏し、
山間部で比較的裕福であった
二俣以北36ヶ村に
接待費負担の協力を申し入れます。
江戸時代、平野の水田耕作民はしっかり検地され年貢をガッツリ取られましたが、
山間部は元々、米の生産性が低く、検地も厳しくなかったため、
茶やタバコの換金作物、鞋や和紙などの生産、養蚕などを営み、二俣市場で換金して税金を金納していました。
😰だからいくらでも、納税額を誤魔化せたようです。
本来、平地で曳くはずの屋台ですが…
山、坂の多い天竜区
何故、昔から曳き回されているかといえば、
😰金が余っていたからです。
明治時代の近代化も、
水力や、森林資源を必要としたので、
山間部から近代化が始まり、地方の平野部は取り残されていたのです❗
戦前の天竜区には、
二俣町、犬居町、浦川町、水窪町など4つの豊かな商業地域がありましたが、
浜北区や南区は全て村でした😢
大正時代に二俣町や光明村山東では、画像のような立派な
二俣型一層唐破風大屋台を有していました。
二俣諏訪神社祭典では十台の大屋台が曳き回されており、
遠州鉄道に乗って全国から観光客が訪れていました。
8月20日が
二俣郷社椎ヶ脇神社祭典が行われ、
奉納煙火である鹿島の花火は、当時は日本一と謳われており、戦後間もなくまでは
🎆日本三大花火🎇
に数えられていました。
8月21日から三日間
全て一流の宮大工の手による
総漆塗唐破風一層大屋台十台が神事である神輿渡御に巡行し、
芸妓衆や女子が華やかに三味の音を響かせながら手踊りなどで盛り上げる十数台の花屋台が街に繰り出し、
大名行列などの大がかりな仮装や芝居などの余興が賑やかに、夜を徹して行われていたのです。
昭和30~40年代になると、日本各地でコストのかかる屋台行事は縮小傾向となり、
豪華絢爛な四日間にわたる二俣まつりも
昭和43年には
鹿島の花火が切り離され
二俣諏訪神社祭典の連合屋台行事も二日間に短縮され、
日本一の祭りは、
地元ローカルのマイナーな祭りに変貌していきました。
同時に、二俣という町の
商業地域としての命運も尽きてしまいました😢
凧揚げ競技会を細々やっていた浜松では、大正頃から遠州鉄道で見物に行っていた二俣の祭りを真似て、小さな屋台を凧揚げ会場まで曳いていくようになりました。
浜松旭町と二俣町を結ぶ遠州鉄道は、
磐田中泉と二俣町を結ぶ光明電鉄との
競争に打ち勝ちました❗
遠州の中心は磐田から浜松に移り、
浜松は大正から昭和初期に一気に経済発展を遂げたのです。
昭和五年に浜松にも
最初の本格的な
浜松型一層唐破風大屋台が作られ
(浜松型、二俣型ともに掛塚型一層唐破風本舞台とは仕様が異なり、三河や南関東の屋台との共通性が見られます)
昭和六年には、
秩父の笠鉾の影響も感じられる
浜松型重層入母屋造御殿屋台が浜松市の大工三嶽駒吉によって初めて建造されました。
浜松型屋台は、浜松の宮大工三嶽駒吉が創建したオリジナルであり、
掛塚式とは根本から異なるのですが、
そうした事実は何故か
浜松まつりの歴史から抹消されています。
屋台行事のストーリーは、地域が栄えた歴史を物語ってくれます。
屋台行事を追えば地域の歴史は全てわかるのです😌
西浦田楽や
懐山おくない
を追いかけていたのではわからない…
本物の地域の歴史、文化、伝統技法が
屋台を見ればわかるのです。

本日も夏真っ盛り‼️
気温は36℃を超えました😵
灼熱の太陽🌄はコロナヴァイルスを燃やし尽くしてくれそうです( ・`ω・´)💡

さて、地球温暖化❗が叫ばれますが、縄文時代早期~中期(BC10000~BC2500頃)は、現代より3℃前後気温が高かったのです。
特に日本列島の高原地帯の一部では平均7~8℃高い気温も想定されており、
縄文中期(BC3500~)には山梨長野、そして静岡県北部の標高が高い地域で焼畑農耕が盛んになりました。
( ・`ω・´)💡
山梨、長野、静岡三県に跨がる赤石山脈は標高3000メートル級の急峻な山並みが、駿河湾の最深2500メートルの深海へ連なる急峻な海底峡谷へと繋がっています。
コンパクトにまとまった起伏に富んだ地形は、
私達人類の祖先にとって、
常に様々な山と海の産物が集中して手に入れられる場所でした。
朝、海に行った者と
山に行った者が、
夕方には中間の市場にそれぞれの獲物を持ち寄って交換する❗
世界で最初に交換経済が発達したのは赤石山脈、駿河湾周辺。
八ヶ岳・諏訪湖を頂点に天竜川・秋葉山と、富士川・富士山を結んだトライアングル地帯が…
世界文明発祥の地なのです❗

土の中には、
実に膨大な量の
石器と土製品が埋まっています。
私達はかつて、
その大量の石器、土器でしか縄文時代を知ることが出来ませんでした…
豊かな森林から発生する落葉や、火山列島ゆえの火山灰、大陸から飛んでくる黄砂…
文明の痕跡はあっという間に土深く埋まり、苔むして原形は分からなくなっていきます。
エジプトのピラミッドは砂漠煮あるから、原形に近い状態で残っていますが、
日本列島のピラミッドは、土に埋もれ、綺麗な三角錐の山として自然に溶けこんでしまう…
そして木製品や植物繊維で編まれた日本の伝統的な道具は、日本の気候や土壌では数十年で土に還ってしまうエコロジーな品物ばかりでした。
地球は数百年、数千年のサイクルで温暖化、寒冷化を繰り返しています。
見渡す限り平野が続くような地域では、大規模な農耕が営まれ、都市が発展しましたが、
気候の変化と共に人々は農地を捨て長距離の移動を余儀なくされました。
気候の変化が国家の栄枯盛衰や民族の興亡を招いたのです。
大陸では黄河文明と長江文明の対立のように土地の奪い合いによる大規模な戦も発生しています。
気温が数℃上昇すれば、何百キロ、何千キロと北上しなければそれまでの生活は成り立ちません。
平坦な地域ほど急激な発展と破滅を繰り返し、都市はやがて必ず荒廃していったのです。
( ・`ω・´)💡
起伏に富んだ赤石山脈の周りはどうでしょうか⁉️
遠方へ移動しなくとも、山を少し登ったり降ったりすれば、気候変化に対応が可能です。
数十年から数百年のサイクルで破壊と再生を繰り返す都市文明と異なり、
赤石山脈周辺の村ネットワークは、五万年の間サスティナブルに継続しているのです。













