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縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️




ィ暑い☀️😵💦

浜松市天竜区の予想最高気は38℃😵😵😵😵

道の駅いっぷく処横川の
かき氷🍧
しいたけソフトクリーム🍦
には長蛇の列😌

天竜茶・春野の茶天竜楽市出店はいつも通り閑散としておりますが😨

さて、こんなに暑い天竜区ですが、

一歩、森に入ると

ちょー涼しい😌😌😌

とても快適なのです❗

こんな時だから、
お手軽な日帰り登山の聖地

古来から信仰の対象である遠州三山❗
光明山
秋葉山
春埜山
に登ってみましょう🤗🤗🤗

光明山登山口は、
道の駅いっぷく処横川に車を停めて、
比高約400メートル
ゆっくり登って片道約一時間😌

山頂には光明山遺跡(戦国時代の光明城、京の清水寺に匹敵すると謳われた光明寺大伽藍跡)、

そして
伊勢の鳥羽から
伊豆の下田まで見渡せる
東海一の大パノラマ❗

三万年以上の昔から
遠州灘を航行する船舶の目印となっていた巨石
鏡岩❗

日本最古の大天狗👺
鎮守正一位光明笠鋒坊【りほうぼう】大権現が出現した明星谷❗

見所は満載です😊

光明山は鏡山、岐山【ふたまたやま=二俣山】、岐階などの異名を持ち、

🌄日の出の神殿として
日神や日の出、明けの明星などを神格化した神々が祀られてきました。

また、岐神【クナト神=二俣神】や
大元尊神国常立尊といった古い時代の神や

暴れ天龍(竜、蛟、大蛇=ナーガ)を制する治水神としてのガルーダ=迦楼羅天(烏天狗)

といった様々な神々が時代ごとに祀られています。

( ・`ω・´)💡

縄文時代晩期から古墳時代にかけて、

東西の勢力が激しく火花を散らしたのも光明山付近です。

西の勢力は観音山
東の勢力は春埜山、大日山
に陣取って

中間の
光明山、秋葉山を巡って
激しい攻防が繰り広げられたのです。

それは単純に
弥生(ヤマト王権)と
縄文(エミシ)
という争いではなく、

改革派(ヤマト王権=邪馬台国と…出雲事代主、大物主=投馬国、ヒコホホデミ系北九州諸国連合)=女王国連合

VS

守旧派(出雲タケミナカタ、伊勢イセツヒコ、東海ナガスネヒコ、富士王朝、ホツマ国、狗奴国、津軽オホナムチ=亀ヶ岡文化圏、南九州・琉球奄美=ウガヤ朝=クマソ)=狗奴国連合

という様に複雑に各陣営入り乱れての戦いとなりました。

日本書紀、古事記などでは欠史八代として記録を憚れるような後々まで遺恨が残る戦いが千年ほど続いたのです。

光明山とその周辺、椎ヶ脇や阿多古、麁玉地区などには地元だけに伝わる複数の伝承があり、それらをパズルのように組み合わせ、当時の地形や気候、遺跡の分布などから…

天武天皇が“過去の遺恨を忘れ、倭國が日本国という新しい国に生まれ変わるために”封印した

ヤマト王権創設期の歴史が❗

光明山周辺に遺されています。



暑い日中、光明山に登って幽玄の森で涼み、

夕方涼しい風が吹いた頃に下山して、

訪ねてくれた方には、
太古のロマンと日本神話の成り立ち、世界文明の発祥についてお話致しますよ( `・∀・´)ノ ィヨロシクー


始皇帝 嬴政

秦王家は 嬴姓 趙氏 
戦国時代 趙の王家も 嬴姓趙氏であり、元は同族である。

秦の始皇帝の時代、日本へ渡来した伝説のある徐福は、嬴姓徐氏であり、こちらも二千年ほど遡れば同族ということになる。

徐福の出自とされる嬴姓徐氏は、徐夷、徐方とも呼ばれ、BC2000~512まで存在した徐国は東夷諸国の一つであり、周王朝の初期BC1000頃の徐は東夷族をまとめ強大な勢力を誇っていた。

五帝の一人である帝舜と
夏王朝の創始者、帝禹に仕えた
益【えき】(伯益、大費とも)が、
帝禹から嬴姓を与えられた。

伯益の子、大廉の子孫が殷に仕えた嬴来(悪来)で、剛力で知られる人物だが評判は悪く悪来とあだ名され紂王と共に討たれている。

悪来の子孫が秦の祖、
悪来の弟、季勝の子孫が趙の祖とされる。

伯益の子には若木【じゃくぼく】もおり、徐夷の祖先である。

嬴姓の人々はのちの魯国付近に住んでいたとされ、日本列島と山東半島を往き来していた縄文人をルーツとする“東夷族”である可能性が高い。

中国最初の皇帝となった嬴政が、自らのルーツである海を渡って来る東夷族の故郷である瀛州(日本列島?)に強い関心を持っていたとしても何ら不思議なことではない。

秦が中国を統一した時代にも、山東半島付近で海洋交易を行う東夷族=倭人は存在していた。

東夷族をルーツとする嬴姓一族には、祖先である縄文人(倭人)の伝説が伝えられていたのであろう。

日本列島への使者となった徐福と始皇帝が同じ嬴姓一族で、縄文人である東夷族の血を引いていることは、日本ではあまり言及されないが、始皇帝が自らのルーツを日本列島に求め、同族(2000年も前に分家しているが)の徐福を使者として送ったという事実関係を知れば、徐福伝説の見方が大きく変わってくるだろう。

また、当時の中国大陸に居住していた東夷族は、先祖代々何らかの口伝を数千年に渡り受け継いでいたと思われる。



始皇帝は、そうした“縄文人が大陸へ進出して中国文明を興した”という事実を墓場である始皇帝稜に持っていってしまったが、日本や中国には現代もなお、縄文時代からの経緯を伝える口伝を持った名家が複数存在している。

元は東方に居住していた嬴姓趙氏のうち、悪来の子孫である大駱の一族は西方に移り遊牧民的な暮らしを営むようになっていった。

秦王室を西戎と考える研究者もいるが、祖先はあくまで東方にいた縄文系の東夷族であり、西に移って遊牧民の文化を取り入れたという伝承を持っているのだ。

大駱の子の非子は軍馬の育成で大きな成果を上げ、周の孝王から犬戎の地である秦邑を与えられ、BC900年頃、秦を建国した。

嬴姓は東夷族、縄文人の血を引く。

東方の徐
北方の趙
西方の秦

夏、殷(商)、周の時代を生き抜き千五百年以上に亘ってそれぞれ繁栄した名門一族。

始皇帝には多数の子がいたとされるが、長男扶蘇と二世皇帝胡亥の間に16人の公子がいたようだ。

胡亥は兄にあたる六人の公子を粛清したとされる。
秦朝最後の王となった子嬰は胡亥の兄の一人とも扶蘇の子とも、また或いは始皇帝の弟、もしくはその子とされるなど出自ははっきりしていないが、秦朝滅亡時点で存命であった始皇帝嬴政の子は何人かいたと見られる。

秦王族の逃亡を同じ嬴姓一族である徐福が手引きしたとても不思議な話ではないだろう。

三國時代、韓半島南部の三韓のうち辰韓(秦韓)には秦人が多く亡命していたという。

また隋書には、日本列島(中国地方西部に比定される)に秦王国が存在したとされる。

始皇帝の血を引く嬴姓王族は故郷である日本列島に帰還し、秦氏として現代にも血脈を伝えているようだ。

日本には秦王室の子孫だけではなく、
後漢靈帝の子孫である東漢氏、

“大崗忌寸、出自魏文帝之後安貴公也、大泊瀬幼武天皇御世。率四部衆帰化。(中略)亦高野天皇神護景雲三年。依居地。改賜大崗忌寸姓”

魏王室曹操の子孫である大岡氏など中国歴代の王族が亡命している。

三國時代、更に五胡十六国時代の大乱を避け、名門氏族が日本列島へ多数亡命してきた。

これによって倭国は、移民事業で莫大な利益を得ることになり、大規模な公共事業が行われるようになった。

その大規模公共事業の象徴が巨大な前方後円噴である。

中国の名門氏族は、莫大な渡航費用を支払い、倭船が移民を請け負ったのだ。

中国には日本列島に渡る航海技術は無いが、倭人には日本と中国を往き来して交易を行う渡航技術があったのである。

戦国時代から秦末の動乱期に徐福ら徐夷のみならず、中国沿海部に渡ってから既に数千年が経過していたにもかかわらず、縄文の末裔たちの帰還事業が行われた。

孔子の“海に浮かんで君子の国へ行きたい”云々が影響していたと思われる。




中国からの帰還事業、移民事業は殷滅亡のBC1100頃からAD7世紀白村江の戦いまで倭国主導で行われた。

そして鮮卑族の王朝である唐もまた縄文の末裔が興した帝国であり、倭国に強い関心を寄せたのである。



夏本番‼️
キャンプだ❗水遊びだ❗二俣川だ❗

道の駅いっぷく処横川では
かき氷🍧❗
名物しいたけソフトクリーム🍦が大人気❗

😌冷た~い水出しの
天竜産紅茶の試飲も飲んでいってね❗

画像の二俣川は
天竜区只来の光路沢トンネル付近。

光明山頂の光明城と麓の只来城は、
武田信玄公と徳川家康公が二俣城攻防の前哨戦として火花を散らした場所とされています。

この付近は古代から、

磐田原の台地及び…現在遠州平野となっている古代(縄文海進)の入江・磐田之海と、

信州、山岳地帯を結ぶ

交通の要衝でした❗

光明山頂からは
伊勢の鳥羽湊から
伊豆の下田湊までが
見渡せ

後期旧石器時代から
鳥羽~下田間の難所、遠州灘を航海する時に
光明山頂を目印にしていました。

山頂には鏡岩と呼ばれる巨石が置かれ、

沖の船から見通せるように、
岩を磨いて光を反射させていました。

光路沢という地名には、光をビームのように反射していた鏡岩のイメージが反映されています。

光を反射し、船舶の航行を助ける鏡岩などの巨石は、

夏至の日の出の方角や
冬至の日没の方角を正確に示す天文施設としても利用されました。

そうした科学技術の発展も、日本列島中部山岳地帯では38000年前の後期旧石器時代に既にハッキリとした文明が形成されていたのです。

天竜川上流の長野県に伊豆諸島神津島の黒曜石が38000年前に運ばれています。

神津島への航海のために、
既に38000年前の時点で

鏡岩の反射や

海を広く遠くまで見渡せる光明山頂で集められた天文科学の情報が

利用されていたのです。

それだけではありません❗

山頂の光を反射する岩は、
全国各地の主要な山頂に配置され、モールス信号のように光の点滅によって情報通信を行っていました。

長野県の黒曜石は北海道へと運ばれていますが、

各地の“ブランド”である黒曜石は、既に“金銭的な価値”を持ち、
光通信ネットワークで結ばれた日本列島各地を“流通”していたのです❗

38000年前の日本列島では、

既に
石器や骨器の加工製品

(遺物としていっさい残らないが)膨大な量の
木製品、葦の繊維で編まれた様々な製品

地域の特産品
干し魚や、ナウマンゾウの干し肉など
ナッツ類や穀類を粉末にした保存食品

などが流通し原始的な経済ネットワークが形成されていきました。

人類の歴史の中で一番最初に構築された経済ネットワークです。

この、五万年近い歴史があるサスティナブルな経済ネットワークは、

浜松市天竜区においては
現在も形が朧気ながら遺されています。

鏡岩は、戦前までに確かに❗
地元の世話人によって“磨かれて”いました❗

50000年前に黎明した人類最初の叡知が、近現代まで伝えられているって…

なんてステキなことなんでしょう😌‼️‼️‼️

光明山頂登山口、二俣川のほとり、
道の駅いっぷく処横川にて

本日もお待ちしています( `・∀・´)ノ ィヨロシクー


https://ameblo.jp/starless43/entry-12616777562.html


古代中国に東夷族と呼ばれる人々がいました。

彼らは日本海、東シナ海周辺に共通の文化圏を構築した海洋交易民であり、

後期旧石器時代に日本列島で発展した石器加工技術、優れた航海技術を背景に交易ネットワークを大陸沿岸部へと拡大させていきます。

前漢末期、王莽が政権を掌握していた一世紀初頭、東夷王は海を渡って漢を訪れました。

東夷族は中国東北地方、東シナ海沿岸部に広く分布していましたが、その“王”は海の向こう(私たち日本人から見たらこちら側)にいたのです。

中国の史書はっきりと記しています❗

中国には海を渡って行く航海技術は存在しない、

(航海技術のある倭人が)海を渡って来て中国沿岸部で交易をしていく。
彼らの特産品は“布”である、と。

殷(商)王朝の時代、
中国では産出しない
硬玉(ヒスイ)は珍重され、
やはり中国(東シナ海)沿岸部では採集できない宝貝が通貨として使用されたと考えられています。

中国に玉製品や宝貝を供給すると共に、倭人(東夷)は中国沿岸部、中国東北部に進出していました。

およそ2万年前頃から日本列島には大規模な石器の加工施設が現れています。

火山列島であり石器材料の豊富な日本列島から、石材乏しい中国沿岸部へと加工された石器が大量に輸出されていきました。

東シナ海沿岸部の東夷族は夏王朝を興し、後裔は越【えつ、こし】と呼ばれ、越南【ヴィエトナム】を拠点に南シナ海~インド洋へと海洋交易ルートを広げていきます。

南インドのタミル・ナードゥ州のカーンチープラムは、漢字で黄支、香至【こうし】と書きますが、漢書王莽伝には倭、越に加え黄支からも使者が来たと記しています。

倭人、越人と黄支の使者が中国を訪れたことを王莽は瑞兆であるとアピールしたかったようですが、

倭人と越人、黄支は関連性が強く(中国にはない)海洋交易ネットワークを共有した族であるという認識があったようです。

倭人、越人、タミル人の海洋交易ネットワークはインド洋を経てローマへと繋がっていました。

越【こし】、黄支【こうし】は、日本の北陸地方の湊まで入港していましたが、彼らが交易の目当てとしていたのは糸魚川産の翡翠や長野県の黒曜石でした。

倭、越、黄支は共同で朝鮮半島南部に産鉄拠点を築き中国などへの輸出で利益を上げています。

※半島南部の倭人国家であった金官加羅にインドのサータヴァーハナ朝から王女が嫁いだのはこうした理由による。

ローマへと輸出された東洋のシルク(漢は絹を門外不出としていた)は、奄美琉球産であるという説が出ていますが、蚕と桑の野生原種が奄美琉球地方がルーツであるという研究も報告され南九州を拠点としたウガヤフキアエズ朝がシルク貿易で莫大な利益を上げていたとする説が現実味を帯びてきました。

フェニキア人と縄文人が共に利用していた東南アジア原産の貝紫も、同じ海洋交易ネットワークで流通していたのです。

日本語タミル語起源説、
日ユ同祖論(一説にユダヤ人はフェニキア人の後裔であるとされる)を唱える人もいますが…
縄文時代から海洋交易ネットワークで繋がっていたのだから何も不思議な話しではないのです。

秦の始皇帝(嬴姓趙氏)
徐福(嬴姓徐氏=徐夷)
は、共に東夷族が出自であり、

始皇帝が祖先の地である日本列島に遠い親戚(分家したのは始皇帝の時代を約二千年遡る❗)の徐福を派遣したのも辻褄が合う話なのです。

始皇帝は徹底した焚書を行ったのですが、

秦王家と同じ嬴姓を持つ徐氏が徐夷、つまり東夷族であると史書は記すのだから、秦王家のルーツも東夷であり縄文人であることはバレバレなのです。

同時に史書は東シナ海沿岸部の諸夷を諸夏と記し、夏の後裔を越としていますから、夏王朝を興したのは東夷=縄文人であることを明白にしています。

中国の歴代史家は大きな声では言っていませんが、わかる人にはわかるように堂々と書いています。

一方、中国東北部に進出した東夷族が興したのは殷(商)王朝で、こちらも殷の一族である萊族(子姓)は萊夷として史書に登場しており、殷の王族も東夷であることを暗に示しています。

周王室は姫姓ですが、倭国の異名が東海姫氏国とされるように、周王室も倭人と同族であることが示唆されています。

中国の研究者は
炎帝の子孫が日本の天皇家であると指摘していますが、

つまり炎帝=炎尊(彦火火出見)だと認めているのです。

そして黄帝の子であるとされる小昊金天氏が東海に君臨する諸東夷の王(ウガヤフキアエズ)ですから…

わかりやすくまとめていうと、

炎帝神農氏(BC3000頃)~秦(嬴姓趙氏、BC200頃)までの中国王朝は大陸に進出した縄文人の王朝ということになります❗

諸夏東夷は漢代以降、漢民族に同化していきます(とはいえ六朝時代を担ったのは諸夏東夷の豪族で現代も客家として繁栄しています)が、

東北部の遼河文明~殷王朝を担った東夷、東胡といった東族はモンゴル(鮮卑、柔然、契丹、蒙古)、ツングース(粛慎、靺鞨、女真、満州)、扶余朝鮮(扶余、高句麗、新羅、加羅、百済、勃海)と分化していき、

北魏、北周、北斉、隋、唐、遼、金、元、清は東夷族の王朝です。

中国を統一した歴代王朝のうち漢民族が興したのは漢代と明代しかない❗と云われますが、

炎帝、小昊、夏、殷、周、秦、隋、唐、元、清は縄文人の末裔である東夷族の王朝なのです。

宋はテュルク系突厥の王朝ですが、テュルク系民族のトルコなどが今も日本人と兄弟と唱えるように、

テュルク系民族もまた縄文人の末裔です。

テュルク系といえば匈奴=フン。
ヨーロッパの王族は大抵、フン族の王アッティラの血を引いているとされますが、

陰謀論者に人気のハザールもテュルク系❗

そもそも縄文人がメーソン(石工)であるというのは周知の事実です。

世界で“名家”とされる家系が、元を辿ると縄文に行き着くというのは偶然ではありません。

中国最後の皇帝は溥儀ではなく中華帝国の袁世凱ですが、彼は三国時代の袁紹の末裔であり袁氏は4000年以上の歴史を誇る名門です。

縄文の末裔というのは世界中にいて、それは日本の天皇家だけではないのです。

世界で“名門”とされる家系は多くが縄文の叡知を伝承しています。





夏休み期間中も道の駅いっぷく処横川にてお待ちしています( `・∀・´)ノ ィヨロシクー