
国宝『縄文のヴィーナス』が長野県諏訪地域に埋納されたBC3300年頃、世界の文明は黎明期を迎えています。
この当時の諏訪地域の土器や土偶にはオリエンタルな造形が見られ、縄文のヴィーナスの意匠はシュメールの豊穣の女神イナンナに通じていると言う人もいます。
イナンナも縄文のヴィーナス同様にヘルメット⛑️を被っている造形で表現されています。
この頃の諏訪地域では、土器の造形などから既に地母神イザナミや、火の神カグツチが信仰されていたのではないかと考えられています。
また、縄文時代には月神を頂点に、日神、母なる大地の神を信仰の中心に据えていたのではないかと考えられていますが、イナンナは月神の娘で太陽神ウトゥの双子の妹とされています。
諏訪地域は良質の黒曜石の産地であり、石器時代、縄文時代を通じて交易ネットワークの中心となっており、周辺に広がる高原地帯はまさに日本の中心となる高天原【たかあまのはら】でした。
農耕が開始されるまで、人類にとって暮らしやすい環境というのは、狩猟採集のみで充分に豊かな暮らしが可能な地域に限られていました。
黒曜石など良質の石器材料が豊富で、漁労(船と網さえあれば狩猟より遥かに簡単に大量の獲物を手に入れることが可能です)に最適な場所…
赤道付近では肉や魚の保存は難しく熱帯特有の病気や毒蛇、蠍、鰐などの敵も多く、暑過ぎず寒過ぎない環境が求められます。
ヨーロッパが氷河に覆われ、大陸が寒冷化していた時代、更新世において人類の居住に最も適した場所は日本列島でした。
38000年前の日本列島には、
世界最古級の磨製石器(アジアの伝統的な技法を使った局部磨製石斧)、
世界最古の集落(環状ブロック遺跡群)、
世界最古の罠猟(落とし穴)、
世界最古の海洋航海の証拠(神津島黒曜石の本州搬入)、
世界最古のゾウ解体の証拠(野尻湖遺跡)、
など、人類が初めて文化的な活動を開始した痕跡が見られ、
日本列島には世界の後期旧石器時代遺跡の大半を占める14500箇所の遺跡がこれまでに発見されています。
欧州クロマニョン人が洞窟を棲家とし、飢餓と戦いながら洞窟ライオンや洞窟クマと格闘していた原始時代…
日本列島の人々は船で猟をし、平地に家を建てて住み、
共同作業で理知的な狩りをし、
大型獣を解体して豊かな暮らしを謳歌していました。
初期クロマニョン人(C1a2)と、早期に日本列島に渡来した人々の一部(C1a1)は、4万年ほど前に分化した姉妹群と考えられていますが、西へ行った人と東へ来た人とでは、瞬く間に文化度に大差が生じていたのです。
16000年前頃から始まる温暖期には、日本海両岸に跨る広域な交易ネットワークである「東夷社会」が形成されています。
この「東夷社会」では、世界で初めて土器の使用が開始されました。
東夷族の居住地にはブナの森が広がり、木の実が豊富で小型獣も集まり、川には鮭が大量に遡上して食べるものには困らなかったのです。
土器は主に木の実などの植物資源を利用するために作られたと考えられていますが、
土をこね、乾燥させ、火を入れて仕上げる土器は製造に時間がかかり持ち運びも容易では無いため、一般に定住生活の指標とされています。
同じ頃に竪穴住居の数も増えており、それは洞窟利用や平地性の簡易的なテントとは異なり、基礎を掘り柱を建てて長期の居住に耐える恒久的な建物でした。
植物利用の開始から程なく、東夷社会では植物の管理栽培を開始します。
黄河や長江流域は石器材料乏しく、また縄文時代の西日本同様に狩猟採集に向かない不毛の地であり、洪水も多く文化的人類の居住に適した場所では無いため、ヨーロッパ同様に永らく原始時代が続いていました。
いち早く広域な社会ネットワークを形成し、文化的な活動を開始していた東夷族は、この不毛な土地でも人類が豊かに暮らせるよう、現地土人を雇って(❓)農耕を開始します。
狩猟交易民である東夷族が、農耕漢民族を支配する構図は、黄河・長江文明の初期から清朝まで連綿と継続したのです。
漢民族の伝承では、家の建て方、煮炊きの仕方、天文学、灌漑土木、全てを東夷族が教えてくれたことになっています。
支配され搾取されても搾取されても昔の恩を忘れない温厚な漢民族は偉大です。
長江の稲作は基本、灌漑農業ですから土木技術を必要とします。先行する文化技術が無ければ成立しません。
東洋において先行する文化は日本海両岸の東夷社会が唯一でした。そこには更新世における三万年間の文化技術の蓄積があったのです。
四大文明と云われる地域では、先行する黎明期といえる文化があまり存在せず、原始的な暮らしから農耕や都市化が垂直に立ち上がっています。
ですから「新石器革命」などと言うのですが、日本列島周辺には革命に至るまでの長い文化技術の積み重ね期間が見られるのです。
世界最古のメソポタミア文明も、謎のシュメル人が何処からかやって来て始まります。
さて、日本語によく似た膠着語を話し、アルタイ諸語にも似ているというシュメル語を話す人達というのは、何処からやって来たのでしょうか(笑)(˶˙º̬˙˶)*॰❓
シュメル人の東にエラム人がいました。エラムの首都をスサと云います。
スサの王=諏訪の王=スサノオ=牛頭天王=炎帝神農氏
かどうかはともかく…
エラム人とシュメル人は同系統と云われます。
エラム人は高天原❓=イラン高原に広く分布。
然しイラン系の言語ではなく、日本語と同じ膠着語を話し、インダス文明を興したドラヴィダ人にも繋がるのではないかと云われます。
そして、タミル語含むドラヴィダ語族は、ウラルアルタイ語族との言語的一致が多いとされています。
東夷社会の大陸側の中心であった遼河文明圏は、ウラル語族の原郷とされています。
ウラルアルタイ語族がユーラシア原語の基盤になったという説は、欧州人には受け入れ難いので度々否定されますが、印欧語もイラン語も源流を辿ると、どうにもアルタイ、モンゴル、南シベリアに行き着いてしまいます。
沿海州の東夷族文化圏から西へユーラシアステップを辿ると、西アジア・東ヨーロッパへ容易く移動出来てるのですが…
バイカル湖周辺から起こった匈奴(フン)やスキタイ、後にはアヴァール(柔然)、突厥(トルコ)、カラキタイ(契丹、キャセイ)がユーラシアステップを疾走して欧州に勇名を轟かせ、チンギスハンのモンゴルは欧州を蹂躙しました。
交易ネットワークを利用して世界征服を目論む(笑)東夷族にとってユーラシアステップは遥か太古の昔から彼らの庭だったのです。
カスピ海、黒海周辺にも容易に到達出来たのでしょう。
カスピ海、黒海の南を源流とするチグリス・ユーフラテス川流域は古くから洪水に悩まされ数多の洪水伝説を生んでいます。
当初は周辺の高原地域で天水農耕が営まれましたが、大規模な土木技術や治水技術を伴う灌漑農耕の導入によって両河川の間、メソポタミアに人類最初の文明が築かれました。
日本語と同じ膠着語を話すシュメル人によって‼
(˶˙º̬˙˶)*॰
さぁ、シュメル人はいったい何処から来たのでしょう❓
人類最大の謎ですね(笑)(๑・㉨・๑)
回転印章を最初に使用したのはシュメル人の東方にいたエラム人と考えられていますが、
粘土に回転させて印をつけるというのは、
日本列島の縄文人が5000年以上早く、回転縄文→撚糸文→押型文として特許を取得しています。
さぁ、エラム人はいったい何処から来たのでしょう(笑)(ㆁᴗㆁ✿)❓
メソポタミア文明はBC2000頃にはシュメル人からその西隣にいたアモリ人に引き継がれていきます。
アモリ人はシュメル語は話さずセム語系であったとされますが、シュメルの伝承や文化は大切に引き継ぎました。
メソポタミアは周辺異民族の侵入が激しく、シュメル人もやがて原住民と同化したのか(故地へ帰還したのか)消えていきます。
シュメル文化を引き継いだアモリ人からはフェニキア人やヘブライ人が分岐していきました。
シュメルの洪水伝説はそのままノアの洪水伝説として旧約聖書に取り込まれています。
フェニキア人は紅海ルートでインド、東南アジアと交易をしていました。
エジプトに行ったユダヤ人はアマルナ革命の影響を受け(或いはアマルナ革命を主導したのがユダヤ人とも)、多神教から一神教に転じます。
唯一神アテンを信仰したアメンホテプ四世(=アクエンアテン、イクナートン、妻はエジプト一の美女ネフェルティティ、子はツタンカーメン)が崩じると、アマルナ革命は否定され、迫害を受けたユダヤ人はモーセの先導によりエジプトを出ます。
この時のユダヤ人の中には東夷族(O2a2)が含まれていたとする説があります。
彼らは羊を神の使いとしていましたから、中国の古羌と同族(つまり姜姓炎帝神農氏=スサノオを介して古出雲族と同族)であり、殷王朝は末期に羌族(羌方)を弾圧しています。
殷の西にいた羌族は周方(日本語ではスワと読みます)と協力して殷を故地の遼河地域に押しやり、東方に帰還して斉を建国します。
斉と出雲、ユダヤと出雲、イクナートンと出雲最高神クナトの関係が日本では度々取り上げられていますが、炎帝(姜姓)一族が世界に分散し、各地で暗躍し、ズタボロになって東へ戻って来るという歴史が繰り返されていました。そうしたところから交錯した様々な伝承が生まれていったのでしょう。
東夷族である突厥阿史那氏のハザールが何故ユダヤに改宗したか❓
今日までハザールの名が忌み嫌われているのか❓
おそらく歴史に現れない部分での暗躍はあったのでしょう(・□・;)
東夷族による中国支配は清朝まで継続しましたが、西には度々侵入するものの最終的には退けられています。
印欧語族を生み出したのも東夷社会ではあるのですが…
東夷社会は元々、狩猟採集と小規模な畜産、農耕、広範な交易ネットワークにより持続可能な社会を作り上げ繁栄してきました。
彼らは然し、二つの社会実験を行ったのです。
一つは農耕社会であり、それまで不毛であった土地にも人が暮らすことを可能にしましたが、人口爆発や格差を生み出し、一部階層のみが豊かになり大多数は貧困に喘ぐ不安定な社会となりました。
もう一つは遊牧社会であり、これはユーラシアステップの自然を最大限利用した持続可能な暮らしでしたが、騎馬兵の出現と共に制御不能となりました。
然し、現代では騎馬兵が戦に勝つことは難しいですから、ユーラシアステップの遊牧民の暮らしは元の牧歌的な生活に戻り、サスティナブルで平和な社会を取り戻しつつあります。
ニヴフやアイヌは近世まで元の東夷社会そのままにサスティナブルな暮らしを続けてきましたが、20世紀後半にその豊かな社会は大日本帝国によって否定されました。
日本がどのように成り立ってきたかを知らない明治政府を主導した田舎者によって奪われたのはアイヌ、ニヴフ、琉球文化だけではなく、ヤマト族の文化も「文明開化」の名のもとに破壊されていきました。
十六世紀に日本を訪れた未開の南蛮人が「先進的」と驚異に感じたのが本来の日本の文化でしたが、欧米の思惑通りに日本は自らそれを葬り去ろうとしたのです。
ヤマト王権は、中国や西洋での都市の興亡や弊害を目の当たりにしてきた人々を政治顧問として受け入れています。社会実験の結果からマイナスになることは導入しないと決めたのです。
かつて東夷族は故地に平和な非都市化社会を実現した上で、各地に進出し都市文明社会を築きましたが、継続的な支配を望んだために泥沼にハマっていきました。
西に向かって一方的な蹂躙を繰り返し、最終的には西洋の反撃に遭っています。
中国では上手くいったことが西洋では実現せず、結果的に戦争に明け暮れたことは東夷族の負の一面でしょう。
然し、東夷社会がかつて実現していた(都市を作らず)ムラとムラをネットワークで結ぶ持続可能な社会の形態は、むしろ東夷社会の研究が進む欧州の人々によって見直されています。
理想的な社会とは未来ではなく過去にあったのだと。
日本では東夷社会に関する研究(縄文社会の研究含む)は公表出来ないようですが、
過去の栄光としてではなく、
未来へ繋がるヒントとして東夷族(縄文人)社会について検証を重ねていく必要があるのではないかと思っています。

