「ヤツはロープ・スキッピングのやり方まで忘れてしまった」
【世界バンタム級王座の歴史】
1970年4月、オリバレスは負けて強くなったチューチョ・カスティーヨとのメキシカン対決で、ダウンするも15回判定勝ち。57戦目にしてキャリア2度目の最終回終了ゴングを聞いた
「ヤツは恐ろしくタフだった。だけど、15回やり抜いた俺のスタミナもたいしたもんだろう」
苦戦も逆に自信を植えつける結果となったV2戦。シカゴでの日本バンタム級7位千代田収司(丸山)選手相手の10回戦も倒せず、KOキングのレコードからは、完璧さが薄らいでいく。ボクサーにとって、対戦相手の持つ数字(戦歴)も、心理的に圧迫される要因だ。
その後、二つのKO勝利を挙げたチャンピオンの3度目の防衛戦は、カスティーヨとのリマッチに決まる。プロモーターは、ジョージ・パーナサス氏。選手の試合ぶり、練習、性格までを考慮しながらマッチメイクする大プロモーターは、既にオリバレスの落ち日を感じていたのかも知れない。
”黄金のバンタム”エデル・ジョフレ(ブラジル)が敗れるとすれば、「ファイティング原田(笹崎)のようなタイプだ」と読んでいたパーナサス氏は、ジョフレvs原田戦をマッチメイクした。
世界王座を獲得し人気絶頂、そのキャリア唯一の敗北は名王者ビセンテ・サルディバル(メキシコ)を大いに苦しめた一戦だけという、世界フェザー級王者ラウル・ロハス(米)に、西城正三(協栄)選手をぶつけたのもパーナサス氏だ。
カスティーヨは前戦でオリバレスと15ラウンド戦い抜き、大いに男を上げた。そしてこう感じている。
「勝てなかったのは、ヤツのKO記録が頭にこびりついていて、リラックスして戦えなかったんだ。だが、今度はそうはいかない。きっとKOしてみせるよ」
一方のオリバレスは、「カスティーヨは、かつて俺が対戦したどのファイターよりも強い。ただし、俺は負けっこない。今度はぶっ倒してやるせ!」と鼻息荒い。
1970年10月16日、イングルウッド・フォーラムは超満員1万6千人の観衆で埋まった。観衆のほとんどはメキシコ系米国人と、本国から乗り込んできたメキシカン。試合は初回から波乱含みとなった。
「ひどいバッティングだ」(オリバレス)
「頭であんなところが切れるはずないさ」(カスティーヨ)
試合開始と共に、頭を付け合っての激しい打撃戦が展開される。突如、オリバレスの左まぶたから激しい出血。当時は負傷し続行不能になった方が負けというルール。カリフォルニア州ではKOとなる。
鮮血を噴出しながらチャンピオンは打って出る。得意の左フックが何度か挑戦者を捕らえるが、カスティーヨは倒れない。3回、オリバレスは逆に左フックを喰らい大きくグラつく。
挑戦者が臆することなく王者に立ち向かったため、試合は激しい打撃戦に突入。両者意地のぶつかり合いとなった。何とか収まっていたオリバレスの出血は、第8ラウンドから再び激しく流れ出した。カットマンは、クーヨ・エルナンデス・マネジャー。
流れる血が目に入る。そこを目掛けてカスティーヨの右ストレートが襲う。オリバレスは血ダルマと化した。採点は互角だったが、場内は挑戦者優勢ムード。王者もそれを察して後半は、「一発で決めてやる」という戦いぶり。
しかし、前に出れば出るほど出血は激しくなるばかり。14回、リングドクターの検診直後、ディック・ヤング主審は試合を停止。ルールによりカスティーヨがKO(当時の加州ルール)勝ち。奇跡の王座奪取に成功。
61戦目にして初の黒星をKOで味わったオリバレスは、ショックを隠しきれないまま、無言で宿舎エレックス・クラブへ帰った。一方の勝者も、口数は少ない。
「とにかくヤツはタフガイで、めっぽう強烈なパンチを打ち込んできたが、俺はちっとも怖くなかったよ」
それまでの採点は、ヤング主審が7-6でカスティーヨ。他の二人のジャッジは6-6のイーブンだった。しかし、倒せなかったことじたいでオリバレスの負けである、敗戦を予知する材料は前からあったと、KOキングには厳しい批評が並んだ。
リータンマッチで王座奪回へ挑むことになるオリバレスだが、今は傷の治療が一番。
新しい世界バンタム級ランキングは1位に桜井孝雄(三迫)選手、2位にオリバレス。4位に金沢和良(アベ)選手(牛若丸原田(笹崎)選手に有利に戦いながら負傷TKOで敗れたばかり。後、入れ代わる。)
8位岡田晃一(新日本木村)選手、9位内山真太郎(船橋)選手と、日本勢が名を連ねる。1年半前、東京のリングで牛若丸選手がカスティーヨと10回を戦い引き分けていることから、「新王者は怖くない」というムード。
やはり、オリバレスの戦歴は恐怖の一つでもあったのだ。 = 続 く =
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