
Yamada Sumio
「テンプルだと思うんですけど」
「全然、見えなかったです」
「右アッパー打った肘が、相手の腕とからみ合って一瞬ロックされた状態になってしまって、その後ですね」
夜、山田純男 氏から電話が入った。テープで試合を検証したようだ。
「アレは耳の横、側頭部ですね。三半規管がマヒしちゃったんでしょう」
「誰がもらっても、誰のパンチでも、ああなっちゃいますよ」
赤コーナー側からは、見えにくい角度であった。長くも短くも感じられた10秒間。「ゆっくり起きよう」頭はしっかりしていたが、足はいう事を聞かない。

「そうか、康恒さんと一緒かァ」
元WBA世界Sフェザー級王者上原康恒(協栄)選手。世界王座初挑戦はハワイ・ホノルル。昭和49年(1974年)8月24日、王者ベン・ビラフロア(比)への挑戦は、僅か2回で終わった。ノンタイトル戦でWBC王者リカルド・アルレドンド(メキシコ)を降している上原選手はランク3位。ベンとはハワイ修行時代、スパーも経験している。
「ぜひ、やらせてください」
上原選手のたっての頼みで実現した試合。「あんなに練習している人が世界チャンピオンなれないはずがないと思った」(大竹マネ)というほどの練習を積んでいた挑戦者。
初回2分過ぎ、さして強く打ったとは思えない王者の左フックが挑戦者を捕らえた。ガードはアウトサイドに高く、しっかり上がっている。一瞬、ふわっと上体を持ち上げるようにしてダウンの挑戦者。この回は、どうにか持ちこたえた。だが、コーナーでフラリ。金平会長に抱きかかえられた上原選手。
2回、またもや打撃戦。挑戦者はガードを上げながら左ダッキング。そこへ王者の左フックが飛ぶ。テンプルよりも後ろ、耳の後ろ当たり、側頭部に入った。もんどり打ってダウンの挑戦者。
一度体を回転させる。カウント9でようやく起き上がる。今ならストップですが、当時はそんな風潮はなく、試合続行。だが、フラフラだ。王者ベンの左ダブルがアッパーからフックで放たれる。オープンブローだが、上原選手は崩れ落ちる。今度はテンカウント。
試合終了。立ち上がった上原選手は、再びバッタリとキャンバスに落ちた。
「あそこ貰うとああなっちゃうんだよなァ。効くんだよテンプル。っていうより、側頭部だけどね」
この試合のテープを見るたびに、大竹マネジャーは坂田選手に解説していた。
三半規管。遊園地のコーヒーカップ。回し過ぎるとフラフラしたりしますよね。あんな感じ。私なんか気持ち悪くなっちゃいました。以来、コーヒーカップは鬼門です。(~~)
「デンカオもビックリしてたもんなァ」(~~)
「でも、あのタイミングで貰ったら仕方ないよ。メッタに当たらない所だけどなァ。サンちゃんらしいよなァ」(~~)
「あの状態で続けて、余計なの貰わなくて良かったかな」(~~)

1976年10月、ベン・ビラフロアはサムエル・セラノ(プエルトリコ)に王座を追われる。もう終わったと見られていた上原選手は、80年8月デトロイトでセラノをノックアウト。6年振りの世界王座挑戦のチャンスをものにした。成田出発時、報道陣は皆無だったという。
「当たちゃったよ~」って、面白おかしくおっしゃっておられた上原さん。防衛は一回に終わったが、ノーオプションがものをいい、チャンピオンとしての2試合で約1億円のファイトマネーを得た。

元祖”沖縄の星”といわれた執念が実らせた世界王座奪取。「これでやっと具志堅と肩を並べられる」って嬉しそうでした。(~~)

上原さんには、お世話になりました。
坂田選手、新年早々CT検査を受けたようです。もちろん異常なしで、激励会が引きを切らないらしい。500人以上に膨れ上がった地元後援会は、「坂田の人柄だよ」(~~)
昨夜は山田氏から、大きな励ましを受けた。そこに坂田選手はいませんでしたが、まるでパリと一緒ですねと笑いました。(~~)
あの時の方がはるかに深刻だった。山田氏からのメッセージ、続きます。(~~)
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