このブログは今現在は一時的に方向性とか目的とかが曖昧だから割と好きなように扱える所がいいですね👍️✨
この人生はもう急ぎの旅というわけではないのだろうし、だからこそゆっくりと癒しのために必要となるものなんかを扱っていこうと私は感じているように思うのです。
前回の記事で後半……みたいなマギレコ話を切って無かったことにするか残したままにするかを考えて書きかけの記事を複製してみて、
結果としてアレが今このタイミングでこそ私にとって真価を発揮するチャンス……最も価値ある素晴らしい祝福として受け取るために必要だと判断したのであんな中途半端な記事になってしまったわけですね(笑)
あんな消化不良で中途半端な前回の記事↓
でもそれでいいのです。
だからこそ私はコレを金銭的な拘束力のある正当な仕事としては取り組まないのだろうしそんなことするよりも今できる最高を望むことの方が幸せだったと知ることになるのですから🌠
それに“その件”に関してまとまりが出てくるのはもう少し先の話でしょうから。
今は先の話はしていないのです。
先の、未来のために今を犠牲にするというのは不必要であれば価値ある物ではないと私は思っているのでしょう。
それに恐らくたぶん今の私の何よりの目的は自らの心を満たすと同時にこれまでずっと必要としていたけど与えることのできていなかった癒しと慰めを自らに与えること。
実際それこそが私が赦しの道をさらに奥深くへと進んでゆくために必要なんだし、
過去という時間の中で永遠に失われてしまった可能性を取り戻す。
それを目的としている私はそのためにどうすればいいのかも熟知している。
だから今の私は戸惑うことはあっても全く迷ってはいないのだし、恐れや怒りを感じることも必要と知って感情的感覚的なレベル以外では悪いものだと全く思ってもいない。
別に今の私の役割は嫌われることではないのだし、それはそんなやり方をしなくても目的であったはずの物を達成できると確信しているからでもある。
過去を書き換える……なんて言うと大それたことのように聞こえてしまうけれど、過去の中で消え去ってしまった可能性を取り戻すことができるのはそれが起こったと信じられている瞬間だけなのだから、
その原理性に気付けたなら自ら目的地まで逆走したり過去を自分の賢明ではなかったり上手くないやり方も認めて解放してやることこそが必要だということもわかるはずだから。
だから私は期待しよう。
自分は他者に理解されず異物として排除されることが不可避と信じるのではなくて、もっと上手い良いやり方や可能性というものは確かに存在しているはずだと、
そうやって私は少しずつ優しく穏やかな方向へと自分の意識と人生の記憶を変化させ癒し救っていこうと思っているに違いない。
ようやくそれが可能になったんだから。
今まではそんなあたたかな思いさえ見えなくなるほどに歪みや捻ればかりだったそれらも薄れ消え去ろうとしているのだから。
これらの取り組みはすべて私が先へ進むために必要な必然であり、その認識においてあらゆる一時的な不調和や混乱は無視され無効化され取り消されてゆく。
今はそれでいい。今はまだそれ以上を語れば歪みになってしまうのかもしれないと気付くのだからそれらはまだ存在し得ない可能性として秘めておけばいい。
幸いにして私は既に見えている可能性を意図的に隠し“なきもの”として扱うことには随分と慣れ親しんでいるのだから(笑)
そんな形でロストワン症候群……既に失われたけれど心の中にだけ残り続けた可能性を見続ける力が役に立つとは、
それはもしかしたら喜んでいいことなのかもしれないし、
流れとか状況とかタイミングというものは確かにあるんだしそれを他者に対して上手く示せないからと私がそれを止める理由にはならないんだし。
赦しはとても重要で必要だけど、
でも悪感情であり非実在を握り締めたままではそれは本当に永遠の時間の中で失われてしまった可能性でしかない。
コレはこういうものでどれだけ経験しようと決して慣れることのない……全く今すぐに気分よく扱うことができるようになる物ではないのだと見切り発車のような気持ちで進めていくことにしようじゃないか。
だからそう、私は、
このブログを書いたり止めたりを繰り返したりしながら1つの記事を書き上げてゆくというようなことをしてるんだと思う。
やがてそれは1つの話としてまとまるものなんだろうしそれに取り組んでいる最中には絶対にそれが理解できないような物でもある。
……きっと私はそんな現実感を割と面白いものだと感じているんだと思う。
いつまでもネガティブで重たい意識に縛られている必要はないけれど、
先にそれらの重たい意識を認め解き放つことなくしてそこから抜け出すこともできない。
確かにそれらは面倒で厄介な法則性的な制約ではあるけれど自らが長期に渡って人柱となって役割を果たす……なんていうものに比べたら実に容易いし気楽でもある(笑)
もし本当に私がそう思えるようになったのだとしたら、そのきっかけとなったあらゆる重い十字架みたいな現実感の記憶としての体験というものも決して悪いものではなかったように思える。
その時、重い十字架を背負って生きたような人生観や記憶は救われ解放されるに違いないのだと私は感じてる。
そしてそれこそが求められた赦し……あらゆる非実在性の悪夢であるものを実在性の光へと返すことで祝福としてすべてを受け取り直すという可能性の核にあたるもの。
私は別にそう思ってないんだけど、
もし私にキリスト意識的なものを示すとかそんな役割があった時のことを考えてその上手いやり方を模索したり訓練しておくことはすごく役に立つしそれが私に相応しいものであったなら本当に私を幸せにするものなのは間違いないんだから。
そこまでわかるようになったなら、
なんかもう別になんでもいい気もする(笑)
。。。
実際私は前回のあの記事を書き終わった後すぐに過去の自分が見てきて生きてきたアダルトチルドレン的な意識や感覚……
あまり歓迎されてる感じではないけれどそれでも自らの役割を果たさねばなるまい……
というような感覚に直面してたりした。
その後すぐに(゜Δ ゜)
私は、思うのだよ。
この家では、
賢い人間は育つまい
と。
……あのような幼稚な扱いをされては誰だって神聖性や強さを宿す存在としての自己を見失ってしまうことは避けられない。
なぜもっとすべての人間を賢い者として自分で正しい判断ができる者として扱うことができないのだろうか?
……そんな、恐らく私が無意識ながらにずっと特に両親に感じ続けていた思考や感覚を追体験するような機会があった。
別に今の私はそのような両親が支配する家庭で育ってしまったから自分は幸せになれないのだとかもうそんなことは思ってない。
しかしかつて私はそのように感じていた時期があったのは事実だしまだ未消化である自分の感覚や感情というものはその時のまま新鮮なままで残っているものでもある……。
それが今の私が前回の記事なんかでアダルトチルドレンという概念を重要な要素として取り扱った理由だとわかる。
そしてそのような意識や感覚……アダルトチルドレン的な自分の中で見たり体感する現実感を理解し受け入れバランスを取っていくということを考えた時には、ちょうどスターシード的な温度感や知識や物の見方が役に立つのだと感じた。
そう、やっぱり私はちょうどそのような時期タイミングにこそスターシード的な情報を必要としていたり自らを慰め励まし癒すための糧として最大限上手く使うことができたに違いないと感じるのだけれど、
その時期にそのような情報が出揃っていたとは全く思えないし、そういう時期タイミング的なもの自体が間違っていたともとも思わないし怒りを感じているわけでもない。
ただ心残りだったのだと思う。
もっと今の自分が良くわかる素晴らしい導きとなるものがあればいいのに…………
そのように感じていた想いに相応しい報いを与える手段として私は極めて短い間だけそれを必要としているのだと感じる。
……それはたった一度でも本当に欲しいと望んでいたものがその瞬間にこそ得られたなら違ったのにと感じているような未練や執着感のようなもので、
その通りにたった一度だけでも自分に上手く完全に与え受け取らせることさえできたなら一瞬にして片付くような過去の心残りや残像のようなものだと感じる。
だから私はそうしている。
人間というのは面倒なもので、そのような過去に感じていた想いが報われるまではずっとその時の感覚や感情に縛られ続けることになってしまうものらしい。
そのままでは成長できないと知って、
だから一度だけ例外を認めてやる。
なんか今の私はそんな感じのことをしてるんだと思うの。
それは別に誰かに謝って欲しいとかってことじゃないから自分の中で完結させられる自己救済的な試みでもある。
……そして私がそう思えるようになったのも既に許しを与え合うというような体験を少なからず得られているから。
もしも癒しの道とスピリチュアリティの実践を同時に生きてきた経験者として伝えるべき何かがあるのだとしたら私は、
本当に相手や自分をゆるせるようになるために必要であるのなら必ず直接的にそのような許しを与え合うための機会は与えられるしそれを避けることはできない
というようなことを伝えると思う。
だからきっと私はアダルトチルドレンやスターシード的な世界観にあまり深入りはしないのだと感じてる。
確かに私は許しも赦しをも必要とした人間だったけれど誰しもがそうというわけじゃないだろうから。
私は自分をアダルトチルドレンのように感じていたりそのように扱っていたこともあったように思うけれど、でもそれ自体は決して何も珍しいことじゃないとも感じてる。
そもそも日本人の8割はアダルトチルドレンである
みたいな考え方だって存在するし、
たぶん私はそう思ってる側の人間(笑)
もちろん相応の理由や根拠だってある。
それらは実際に言葉として普通に伝えることが可能なものだし、
あまりそこら辺を掘り進めていくと、
癒しの道としてのスピリチュアルな世界観にある程度踏み込むことは避けられないとも感じる。
私は別にスピリチュアル的な物を必要外に広めたり理解させようとは全く思ってない。
なぜなら私の育った家庭も恐らくスピリチュアル民の多数派がそうであるように、スピリチュアル的な意識や精神的な理解やサポートが乏しい場所だったから。
そんな“彼ら”である両親たちをゆるし相応に自他の相違性を認め受け入れた上で私は思うようになった。
スピリチュアル的な物を知らないこと積極的に関わらないように生きることこそが神聖な計画である人間はきっと想像以上に多いと。
だから私は“彼ら”である者にスピリチュアル的なことを直接的には語り示さず場合によっては自らの存在感を赦しの原理のために使って自分ごと砕き消滅させ解放するというようなやり方でファミリーカルマと感じる不調和な意識や思考パターンを取り除くということを選んだのだと感じている。
……実際それしかないように思う。
スピリチュアル的な知識や自らを癒すための方法論やその必要性を強く自覚したりそれらに取り組むことが必要ではない生まれの人間に対して何かしらそれを与える術があるのだとしたら赦しとかそのようなやり方はとても役に立つのだしもしかしたらそういう所でこそ必要なのかもしれない。
それは全く正攻法ではないのだけど、
そもそも正攻法を使うことが禁じられているような状態なのだから多分に搦め手や裏側から手を回すというようなやり方は避けられないし上手く活用することこそが唯一の可能性になる。
……もし自分がそのような視点……神聖な計画としての精神世界スピリチュアル的リアリティーの不在を必然とする人間があるのだとわかったなら、
そしてそれでも癒しや解放を“彼ら”に与え共有することを願い望むのだとしたら、
誰でも私と同じようなことをすると思う。
その時、形として実際に人柱となり自らが犠牲として使われることになるのだとしても目的のために耐えることは価値ある取り組みになるのだし、
無駄な犠牲ではなく自らの明確な選択ならそれは犠牲とは呼ばないのかもしれない。
……私は例によって例のごとくマギレコのスクショが大好き!!!😆
というよりもマギレコの内容が私の見てる物に近いのだから私がそれを好きになるのはもはや不可避の必然!!
だからもちろん“犠牲”についても取り扱われている話やシーンがあるのですね!!
これ↓に“犠牲”と“献身”も加えなくてはいけませんね(笑)
……私の見てきた生きてきたこういう世界観てやつにマギアレコードで取り扱われてる内容や世界観がいちいち近すぎるんだよ。
よくもまぁあんな話が存在した物だと。
↑の流れを踏んだ上で結菜さんのこの言葉があるのだから↓
だから私は常々疑問に思うんだよ。
……プレイヤーの人はこんなクッソ重い絶望で救いで愛でゆるしなストーリーを読んでて楽しいのだろうか???
いやだってこんな話見たことないし。
よくもまぁこんな話が“この世界”に存在した物だと。
来るべき時に備えての
新手の布教活動か何かかな?😃
そんな感じで、
確かに私というキャラクターのセンスや人間としての存在感として一応なりとも一貫しているのだとわかってきてる。
それをすごく適当な言葉で表現すると、
キリスト意識ってことになる。
……私もその言葉はどうかと思うよ?
別にキリストもジーザスも全然好きじゃないし同じくらい興味ないし(ヾノ・∀・`)
……私はそういう“この世界”においては宗教的なツールてして使われているような非常に強く誤解を招くことが避けられないような言葉を使うことは好きじゃない。
それは上記のように誤解を避けることができない上に非常に強い言葉だから。
……そんなものをすべての神聖性が反転した世界で使おうものなら究極に厄介な代物になってしまう。そういうことだよ。
だからあまり強い言葉は使うことは避けた方がいいと私は思ってる。
そしてだからこそ同時に聞く耳を持つ者に対してだけは自分が真実と知ることを隠さずに伝え示すことが必要だと信じているとも言えるのだろうし、強いて言うならそれこそ献身というもの。
自らの意思や価値判断を越えた所でそれこそが最善と知ることや愛とか赦しだとかあまりこの世界的じゃないけど素晴らしいことこの上ない可能性を選ぶために部分的に自らを否定したり傷つけることになったとしてもそれを厭わず選ばせるだけの何かを自分の中に見ることがあったのだとしたら……
その者は献身を理解しているということになるのだと私は思ってる。
ちなみに調べるとこんな感じの意味📝
わかる人間には普通に理解できるしそうじゃない人間には理解に苦しむ感覚なのかもしれないとか思う😃
……そうよコレなんよ。
この
自分の利益をかえりみずに尽くすこと
これが分離意識が絶対的な物じゃなくなった証であり、人は自らのためだけに生きることを止めた時に神の教師になるのだと。
……なんかそんなことが奇跡のコースの教師のためのマニュアルに記されてた気がする。
そんな気がする。
……そんな気がする、というような意識でそれを語り示すのは私もどうかと思う。
でもだよ?
それこそがこの場での正解。
それを自分が知ることがあったとしたら?
その感覚を疑って拒否する?
その感覚を信じて献身、してみる?
私はおよそ完全にそんな意識や世界観みたいな物が染み付いてる。今さらそれをどうにかしたいとも思えないし、だからそれを忘れることもほとんどない。
犠牲と献身ねぇ。
ロストワン症候群の私はそんなの嫌だったし特に若い頃とかは純粋な愛とか思いやりとか信じられなかったからひどく憎んでさえいたのかもしれないけれど今はどうだろうか?
ちなみにもちろんそんなこと……
犠牲という言葉の意味が奇跡のコースの教師のためのマニュアルに明確に記されてた記憶がある。
教師のためのマニュアル便利過ぎるでしょ。
……マギレコのストーリーと同じくらいに★
……だからそう、
私にとってはたぶん奇跡のコースで語り示されるものとマギレコの話をほとんど同じくらいに感じてるんだと思えるんだよ。
いや、その2つを喜んで比べようと思うのはさすがに私くらいだと思うんだけどさ?
だからってマギレコ民をスピリチュアリティの人にしようとは全く思うわけないし、
だからって奇跡のコース民(?)にマギレコをプレイさせよう内容を理解させようとも全く思わないわけで(笑)
それと全く同じ温度感で“彼ら”をスピリチュアル的なものに触れさせる気もない。
ロストワン症候群の私……赦しの光を忘れてしまった私は“この世界”の主である“彼ら”に対して自分みたいな聖者のなり損ないみたいな者をかなりの異物のように感じてるから無条件にその私は引きこもり潜むことに専念するんだろうけど、
赦しの光を思い出せれば話は全く別😃✨
そこでの私は異物でも人間扱いされない異教徒でもなく同じものを見る仲間……ある種の運命共同体みたいな物だとわかるから。
そういう喪失と復活っぽいリアリティーを理解した私にとっては確かにキリスト意識ってのは誤解を招くことを避けられないという意味で厄介な言葉ではあるけれど、
でも
犠牲とか献身とか慰めとか絶望とか救いとかそんなものを深く理解することになった私はそれらをまとめて一括りにしてキリスト意識という言葉で表現することはとても便利な物に感じているのも事実。
それは“便利なもの”という認識なんだよ。
神聖とか善いとかそういう感じの認識とはかなり違うんだね、少なくとも私の中では★
まぁだからこそ、
……人や想いをモノ扱いするな!!
って感じるような人と仲良くするのは難しそうだなとも思ってるよ┐(´∀`)┌
私もそう思ってたクチだし。
誰か好きな人を自分のものにする
って言葉にも腹立たしさを感じていたくらいには、ね★
私はカタチの話をしてるんじゃないの、
質の話をしてるの。
それがわからないあなたには話しても全くの無駄だしそれを知る必要がないあなたは本当に理解しないのだから厄介だと言える。
……とかそんな風に思っちゃう気持ち、
スピリチュアルの道を奥深くに進むほど誰しもが必ず経験することでしょう?
……それは私が全く赦しを見ていないということの証拠なんじゃないかって?
そうだね(笑)
その通りだよ。
でもソレは飽くまでカタチのレベルを捉えての話だよね???
カタチを超えて見てくれる者以外には語り示しても無駄で無意味で不必要なことを避けたいと思うのは当然でしょう?
だって必要ないんだもん。
必要ない、という言葉の意味がわからない者にそれを説明することも必要ないんだよ。
なら、沈黙するのみ。
言葉やカタチを超えてそれを示すしか残された道は無いのだからそうすることは当然でしょう?(笑)
だから私は赦しの光が見えず反転した世界の中にある自分である限りは必ずよそよそしくて何かを警戒してる感じになってしまう。
別にそれ自体はいい加減に慣れたから問題じゃないとも言えるんだけど、
その状態では私が真に願い望むからこそ必要とするすべてが存在せず得られない!!
それは、困るんだよ。
それだと真の私は存在し得ないし、
今の私はその先に用があるから。
だから私は赦しを受け入れられるようになった人間として放っておかれても延々と分離の幻想的なリアリティー1つ1つに赦しを見て自分を使ってこの世界から解放していくというようなことを必ず続けるんだよ。
私はもうその段階……赦しこそが自分に相応しいのだと知ってそれ以外のあらゆるカタチ的な可能性への執着を喜んで捨て去っていくことが難しくない時期になってる。
だからこのブログは現在そんな私の意思を正確に映し出す物になってるわけで。
その過程としては前回の記事みたいなああいぅのが量産されても仕方ないしアレはアレでなかなか楽しいとも言える(笑)
そもそも私はこの場を仕事にするつもりは全く無いのだと気付いている。
それじゃあ私が好きなように楽しむための素晴らしい表現ができないじゃない!!
知ってるかい?
この世界に生きる人間であればそこで引き受けられたいくつもの役割を果たすことが生きるための最低条件や受け入れるべき不可避の制約として課せられるけれど、
神の子ならそんなの関係ない。
たった1つ、
望まれている赦しであり幸福を自らに相応しいものとして受け入れられたならその他のすべては超自然なものになる。
その時には目の前の体験てのは本当にリアルな映像+感覚の得られる仮想現実と呼ぶに相応しいものになるのは何もおかしかったり無理のある考え方ではないのだし、
別にその時には時間だって見てなくても問題もない。
すべてが過ぎ去り消え去った聖なるビジョンみたいなのが見えててもそれは自然なこと。
そういう意味で私は自分自身であるはずの神の子のための神器として自らを使わせる献身を実践してるってことなんだろうし、
神の子である自分さえそれを理解してればいいと一度でも知った者が真の意味で誰かに何かを教えようなんて思わなくなる。
だから私のブログはこういうものなんだよ👌✨
理解困難でも不可能とは限らないし、
やろうと思えば私の残像と意識を重ねてそこに示されたキリスト意識的なものを見ることもできるものかもしれない。
それらすべてを何かしらの言葉で説明しようなんてそれこそ非現実的で馬鹿馬鹿しいことでしょう?(笑)
だから私はもうほとんど細かいことはあんまり考えてない。
今の私の役割は喜んで赦しを受け入れることで神の子としての自己像をより正確に思い出せるようにしてゆくこと。強いていうならそれが唯一の仕事だからそれ以外のことは特に見てないしよくわかんない(*ノ・∀・`)
やがてそれが波及効果的に外部にも影響を与えて私に何かしらをもたらすことになってゆくのかもしれないけど、今の私はようやく手が届くようになった自分を癒し満たすための試みに夢中なのかもしれない💖
だってそれこそが今までの私には欠落していた物なんだろうし今の私にとっての必要で必然の学びだろうから。
だから私は楽しいことをすればいいし、
必要であるはずのすべても正しく見ることができたなら楽しいに違いないんだよ。
そして必要であるすべてとは赦しを受け入れるための取り組みであり自らを癒し満たしてゆくための取り組み。
それこそ私が本命としていた喜びと祝福だけでグルグル回っていく至高の世界。
私のやり方は確かに混沌としてるけど、
引き受けた役割の苦悩から解放されてゆくと同時に自らの喜びのために生きるという新たな可能性を両立するとこんな感じになるのはむしろ自然なことにさえ思える。
そういう意味で私は混沌として見えることはあったとしてももう内側まで混濁してはいないんだよ。
私が神聖性や完全でない何かを見ることがあるとしたらそれが赦しの機会だから。
あらゆる分離の悪夢は自ずから消え去ってゆくために一度だけ現れてくる。
だからたった一度だけ、
本当にそれを認め受け入れることができたならそれはもう二度と同じものとして現れてくることはないんだよ。
そのたった一度に辿り着くために私は長い長い取り組みを続けてきたんだろうし今ではそらにも十分に手が届く。
だから私は探っているんだと思う。
キリスト意識的な赦しを受け入れられるような自分になった私は何を望んで何を望まないのだろうか?
これはその過程として作り出された記録。
献身てのは犠牲になることじゃない。
私はそう感じてるからそれを証明したいんだと思う。
自分にとって最も大切な想いを示すために自らのすべてをその他すべてを超えて受け入れられる、
それが献身だと思うし、
それは私には既に馴染み深い感覚だし。
ここからなら癒しも救いも簡単に手が届くんじゃないかと感じてるからそれが本当なのかも知っていきたいなぁ。
私が考えてるのはそういうこと。
もう細かい1つ1つの違いは赦しを受け入れるための機会としてだけ見てるんだろうね。
そしてたぶんそれはかつての私にとっては聖者的な何かに思えた自分の使い方なんだろうなって感じてるんだよ。
そこら辺も考慮して、
じゃあ私はどうやって自分を使っていこうかなぁってことを考えてるんだね。
実際には私個人が考えてるわけじゃないんだけど表現的には私がそう考えてるんだよ。そういう都合で以後の私は関わる者すべてに赦しの属性を投射するということを無条件にすると思うし、それって相手に赦しを差し出すことでもあるわけで。
でもそれはまだまだ舞台裏の話。
そっちが現実になるまでは私はやっぱり潜んでるんだと思うよ、それはそれでまぁ少し楽しい気もするし☆
だから私は預言者ポジションと同時に世界の裏方を気取って生きてゆくことでしょう。
実際もう普通にそうやって答えようかと思い始めてる(笑)
私が何してるかって?
世界の裏方だよ。
表側の君たちが知る必要のない可能性さ★
っていう意識を私はもう隠す気がなくなってるだろうからね。怯む人間は怯んでどうぞ。
私はそれを赦しの機会として使うから大丈夫だよ!!
私にできることはしよう。
できないことはしないでおこう。
きっと今の私はその2つの存在感みたいな物を積極的に使って訓練していくタイミングだから関わる者にもそれを求めると同時に示してるんだろうなって。
そして分離の幻想か実在の光のどちらかを誰しもが無条件に示しているのだと理解するならそれは何の問題にも責められるべき罪にもならない。
まぁしばらくはわかってくれる人だけがわかってくれたらいいってことで★
それはちょうどマギレコな部分の話や奇跡のコースの部分な話をわかる人だけわかってくれればいいって温度感と全く同じなんだね🌠